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こんな裁判員制度でいいの? [時事]

こんなことを書くと、いまの日本社会では暗黙のうちに身を危険にさらしかねないが、きのう横浜地裁で開かれた裁判員裁判で、初の死刑判決が出されたのを知って、りつぜんとした。
けさの朝日新聞は、きのうの裁判について、こう書いている。

〈死刑判決に向き合った市民が増え、体験が地域や世代にまたがって市民の間に共有されれば、大事なことは「お上」に任せきりにしがちな社会のあり方を変えていく可能性を秘める〉

よくわからない言い方だが、新聞・テレビを含めて、マスコミの論調は、基本的にはこうした方向で固められているとみてよいのだろう。つまり、たいへんけっこうというわけだ。
日本の裁判員裁判は、殺人や傷害致死、強盗致死、放火など重大な刑事犯罪だけが対象とされている。軽犯罪や民事、政治事件、労働問題はあつかわない。
だから朝日の記事にあるように「死刑判決に向き合った市民が増え」というのは、まさに日本の裁判員制度の実態からして、これからそのとおりになることが予想される。
つまり死刑を下す市民を増やすことが、裁判員制度の目的だともとれるのだ。逆に重大な犯罪に死刑を下せないような市民は、市民として失格だとも受けとめられかねない。
記事は「[死刑判決に向き合った]体験が地域や世代にまたがって市民の間に共有され」と書いているが、終生の守秘義務を定めた現行の制度では、その体験を公表してはならないことになっているから(違犯すると6カ月以下の懲役、または50万円の罰金)、これ自体矛盾した言い方である。
それよりも、むしろ記事が暗黙に主張しているのは、死刑の存在をちらつかせることによって、一億総監視社会の風潮を強めるべきだと主張しているようにみえる。
「大事なことは『お上』に任せきりにしがちな社会のあり方を変えていく可能性を秘める」というのもへんな言い方だ。「大事なこと」とは殺人事件のことだろうか。むしろ逆なのではないだろうか。お上が殺人事件といった「大事なこと」にますますかかわらないですむようにするのが、裁判員裁判なのではないのか。
殺人事件はたしかに理不尽だ。しかし、凶悪な殺人事件が増えているのは、それだけ社会が病んでいるからでもある。どんどん社会をへんな方向に進ませながら、いっぽうで一億総監視社会をつくり、市民を動員して、凶悪な犯罪に対してみずから死刑を宣告させるというのが、はたしてただしい世の中のあり方なのだろうか。
今回の事件も、新聞によると「覚醒剤の密輸入や密売の利権を手に入れるための殺害」で、「生きたまま首を電動ノコギリで切る」という残虐な手口によって、「尊い2人の生命」を奪い、海中や山中に切断した遺体をばらまいたことが、死刑に値すると判断された。ただ、犯人の残虐性を強調するこのストーリーは、被告を死刑に追いこむために、あまりにうまくつくられすぎているような気もする。
犯人が残虐ではないというのではない。たしかに残虐な男にちがいない。それでも、彼がなぜ2人の命を奪ってカネを得ようとしたのか、そのカネはいったいどこにあったのか、犯行は単独犯で背後関係はほんとうにないのか、なぜ電動ノコといっためちゃくちゃな殺害方法におよんだのか、加害者と被害者はどういう関係にあったのか、奪ったカネで男はなぜ覚醒剤を密輸入したり、密売の利権を手に入れようとしたりしたのか、またそんなことがはたして可能だったのか──思いつくだけでも、そんな疑問が次々と浮かぶ。
同時に、この犯人を極刑に処しただけで、肝心の覚醒剤や麻薬の問題が解決できるのかというと、それは等閑に付されている。問題は「死刑」そのものより、そちらの問題にあるはずなのに、「お上」からは、そのあたりの対策をどうするかという声はちっとも聞こえてこない。朝日新聞の記事にあるように、裁判員制度が「『お上』に任せきりにしがちな社会のあり方を変えていく可能性を秘める」とはちっとも思えないのだ。
いまの裁判は3日か4日で判決が出されるという。裁判員の負担はせいぜい1日6時間で、日当8000円と交通費が支給される。裁判のシナリオは昔とちがって「公判前整理手続き」で決められているから、裁判員は3日か4日裁判所に顔を出して、裁判官と評議して判決をくだせばいいことになっている。これでは多少の「市民感覚」とやらは反映されるにちがいないが、けっきょくは最初のシナリオどおり、ことが運ぶ。むしろ、こういう事件に直面することの少ない良識的な「市民」は、国の思惑どおり、より厳罰主義で臨むだろう。
ほんとうは3日や4日では何もわからないのだ。犯人のことも被害者のことも、実際に裏社会でどういうことが起きていたのかも、犯人がどういう育ち方をし、どういう経過で犯行におよんだのかも、まるでつくられた映画のようにしか、わからない。そのなかで、被告に死刑判決をくだすのだ。
死刑というのは、その人間を殺すということにほかならない。裁判長は裁判をしめくくるにあたって「裁判所としては、控訴を勧めたい」と異例の発言をしたという。被告が控訴すれば、事件は高裁で争われることになる。
おそらく裁判官が控訴を勧めたのは、初の死刑判断をくだした裁判員の心理的負担を軽減するためだろう。しかし、よほどの新たな証拠がでないかぎり、市民感覚をくんでくだされた死刑判決を高裁がくつがえす可能性はまずないだろう。そうなれば「市民」を無視することになるからである。こうして、たとえ形式上、裁判官が控訴を促したとしても、実質的には第1審の裁判員裁判で死刑がきまるケースが増えてくるにちがいない。
一般市民までが裁判で人を殺さなければならない、いやな時代がやってきた。それを市民の義務だというのなら、そんな義務など、ごめんこうむりたい。むしろ事件をきちんと分析し、理不尽な犯罪を少なくしようとしない国の無作為こそが問題なのだ。
現在の裁判員制度は、市民による裁判員だけで有罪か無罪かをきめる陪審制ではなく、裁判官の指導のもとで市民に被告の量刑をきめさせるかたちになっている。これは一種の見せしめ裁判である。
裁判員制度はやはりおかしい。これは国と司法、法曹界、マスコミが一体となって、有無を言わずにつくりあげた悪制度である。裁判員は勝手に召集され、それを忌避した場合には、よほどの理由がないかぎり、罰則が科せられる。国会議員や大臣、司法関係者、弁護士、警察官、自衛官は裁判員に選ばれないというのも考えてみれば不思議である。しかも、裁判員には裁判官や弁護士にはない終生の守秘義務が課せられ、これに違犯した場合は、法律にしたがって罰せられる。
こんな理不尽な制度は、早急にあらためるべきだ。

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