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朝鮮戦争がもたらしたもの [柳田国男の昭和]

《連載176回》
 1950年(昭和25)の印象を詩人の中村稔は『私の昭和史 戦後篇』のなかで、こう記している。

〈昭和25年は、その6月25日に朝鮮戦争がはじまった年だが、朝鮮戦争勃発前の6月6日、マッカーサーの吉田首相宛書簡により、共産党の国会議員をふくむ全中央委員24名の公職追放が指示され、翌7日には『アカハタ』関係者17名も追放され、日本共産党は徳田球一らの「所感派」と志賀義雄、宮本顕治らの「国際派」とに分裂し、徳田ら所感派は地下に潜行、椎野悦郎を議長とする臨時中央部を合法指導機関として設けた年であり、同年1月には社会党も左右2派に分裂した年であり、朝鮮戦争を契機に8月、警察予備隊が創設された年であり、さらに7月、8月のレッド・パージにより解雇された者は、全産業、公務員をあわせて1万数千人に達した年であり、一方、敗戦直後の昭和21年に公職追放されていた政界人、財界人等1万人余が8月に終了した訴願の審査の結果、追放を解除された年であった。つまり昭和25年は、逆コースによる右旋回、社会党をふくめた左翼勢力の退潮が明確となった年であった〉

 長々と引用したが、要領を得たまとめなので、この年の特徴について、中村の記述にさほどつけ加えることもない。自由主義陣営と共産主義陣営の対立が、いよいよ熾烈となり、それが朝鮮半島では戦争というかたちで爆発し、国内でもレッド・パージというかたちで噴出したことがわかる。
 朝鮮戦争を仕掛けたのは、北朝鮮の金日成だといってまちがいない。おそらく前年の中国における中華人民共和国の誕生が、北朝鮮の指導者を刺激し、武力による朝鮮統一を思い描かせたのだと思われる。
 日本軍の敗北により、アメリカ軍とソ連軍がそれぞれ分割接収した38度線の南北には、その後、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)のふたつの国ができていた。そのころ韓国では左派による暴動が相次ぎ、不安定な政治情勢がつづいていた。しかもアメリカ軍はすでに韓国から引き揚げ、拠点とした日本に戻っている。そこで、金日成はスターリンから暗黙の了承をとりつけ、南朝鮮への侵攻に踏み切った。中国情勢の推移から判断して、アメリカ軍は介入しないとみていたのだ。
 北朝鮮軍によりソウルはたちまち陥落する。だが、アメリカのトルーマンは侵攻直後に国連安保理に訴え、韓国を支援する国連軍を結成することに成功していた。国連軍といっても、その主力は日本に駐屯する約7万5000のアメリカ軍にほかならない。その指揮をまかされたマッカーサーは、9月15日に仁川上陸作戦を敢行し、今度は逆に平壌を占領(10月20日)、さらに鴨緑江付近まで攻め入ったところで、中国の人民義勇軍が参戦する結果を招く。
 中国の支援を受けた北朝鮮軍は12月5日に平壌を奪回、38度線まで押し返したところで、戦線が膠着し、それ以降1953年7月に休戦協定が結ばれるまで、朝鮮では両軍が一進一退する状態がつづくのである。
 歴史家のウォルター・マクドゥーガルは、朝鮮戦争が日本に与えた影響を次のように記している。

〈朝鮮でみずから指揮をとり、北朝鮮の攻勢を撃退したマッカーサー将軍にとって、この戦争は「老兵に対する戦いの神マルスの最後の贈り物」だった。日本銀行の総裁からみれば、それは日本に対する「神の助け」であり、吉田[茂]にとっては「神々からの贈り物」だった。日本は事実上、アメリカ帝国の軍事植民地にほかならなかったが、吉田はこう予言した。「もし日本がアメリカの一植民地となったとすれば、結局どこよりも強力な植民地となるだろう」〉

 吉田茂の刺激的な発言は、あまりにうまくできていて、それが実際になされたのかどうかすら判然としない。しかし、この発言からは、内心アメリカに反発しながら、軽武装の通商国家をめざした「吉田ドクトリン」の気分がうまく伝わってくる。
 マクドゥーガルの指摘するように、朝鮮戦争は日本に大きな転機をもたらした。日本との講和は時期尚早と考えていたマッカーサーは、戦争の指揮をめぐってトルーマンと対立し、51年4月に職を解かれ、日本を離れることになる。いっぽう日本ではアメリカ軍の軍需品が大量に発注され、その支払いがドルでなされたため、外貨不足が一挙に解消される。日銀総裁がほくそ笑んだというのは、そのことを指している。ドッジ・ラインによる経済の引き締めで低迷していた景気はもちなおし、鉱工業生産が戦前水準に戻り、賃金も上昇する。さらに、アメリカが対日講和を急ぐようになり、まもなくソ連などを除く(中国は不参加)旧連合国との講和条約が締結され、同時に日米安保条約が結ばれていくことになるのだ。
 こうして、日本はアメリカの極東戦略に組みこまれていった。吉田が日本を「アメリカの一植民地」といったとすれば、それはこうした事態を指している。
 朝鮮戦争は身内の内紛ではなく、対岸の火と感じられるようになっていた。この戦争を契機として、日本では、富国強兵をかかげた帝国の形成が完全にまぼろしと化し、大衆消費社会を組みこんだ軍備なき通商国家が、戦後の理念として、はっきりと打ちだされることになる。
 そうしたなか、柳田民俗学は海に向かおうとしていた。

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