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『超マクロ展望 世界経済の真実』から学ぶこと(3) [時事]

 資本主義はいまから500年前とか600年前に地中海世界ではじまったといわれる。もちろん商品の取引は、それ以前、はるか昔からおこなわれていた。それでは、以前の商品取引と資本主義はいったいどこが異なるのか。資本主義はマルクスのいうように、貨幣による労働力の商品化によって発生するのだろうか。
 萱野の指摘として重要なのは「資本主義はけっして市場経済とイコールではなく、そこには国家の存在が深く組み込まれている」という言及である。そのうえで、中世社会と資本主義社会のちがいとして、次のような点が挙げられている。

〈資本主義のもとでは、政治の領域と経済の領域とのあいだで役割分担が確立してくるんです。もともと国王が資本家でもあった状態から、国家権力の運営にたずさわる専門家と、労働を組織して事業をおこなう資本家が分かれてくるんですね〉

 ぼくなりに言い換えてみる。
 資本主義が成立するのは、国家の主役が、具体的な王侯貴族から抽象的な資本に移行する段階においてである。国家の主役が抽象的な資本になるということは、何も資本家が国を支配することを意味しない。資本主義社会とは、少なくとも国家が資本を否定することのない社会、むしろ国家が資本の発展を積極的に後押しする社会を指している。
 こういう社会においては、国の支配が、土地の支配を基軸として成り立つ王侯貴族ではなく、官僚制を動かす政治家集団に委ねられるようになるのは確かだろう。その権力が三権分立のなかで機能するときに、近代国民国家は成立する。
 したがってマルクスによる資本の規定は、あくまでも資本の構造を摘出したもので、資本主義そのものを指すわけではない。資本主義に「国家の存在が深く組み込まれている」というのは逆転した発想だと思われるが、国家が社会の基軸に資本を据えるところに資本主義の本質があることはまちがいない。
 水野の指摘でおもしろいのは、中世の封建制から資本主義経済への移行が、17世紀の利子率低下と農民の実質賃金上昇によって促されたという点である。それによって「領主の側からすると、封建制のもとでは利益を得ることができなくなる」し、「結局、封建制から新しいシステムへと移行するしかなくなっていく」と水野は話している。何だか、江戸末期と似ているような気もする。
 問題はそれと同じようなことが、現代の資本主義社会で起きていることだ、と水野はいう。これは政治経済システムの大転換を予兆させるできごとなのか。
 萱野は「いわゆる国民国家の枠組みでは、もはや世界資本主義を担うような主体にはなれなくなった」といい「政治単位が主権国家をこえて統合されつつある」と断言している。
 資本が国境を越え、グローバル化することによって、経済ばかりか、民族も文化も生活習慣も融合し、さらには国家自体もひとつのきちっとした枠組みを保てなくなってきたかのように思える。まさに溶融(メルトダウン)の時代を予感させる。
 だが、世界共和国などを安易に想像するのはやめておこう。欧州連合(EU)のような、いわば町会のような連合体も、いまのところアジアで期待するのは無理なようだ。実際、EUにしても、国はなくなったわけではなく、しっかりと残っている。
 国家が再編されるというのは、わずか70年ほど前の第2次世界大戦の時代、さらには最近の旧ユーゴスラヴィアなどの例をみてもわかるように、実際には戦争や流血の惨事をともなうものだ。先は何が起こるかわからない。それでも、できるなら戦争を避けたいと思うのは、ぼくだけではないだろう。
 国民国家に替わる枠組みをといわれても、ぼくなどはどうしても帝国、ないしディスユートピアとしての世界共和国が頭に浮かんで、実際にはそう喜んではいられないような気がする。


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