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ニライカナイへの思い [柳田国男の昭和]

《連載179回》
 もう少し「海神宮考」の中身に触れることにしよう。
 海神宮、あるいはわだつみの宮といわれて、人がすぐに思い浮かべるのは、浦島太郎と龍宮の昔話だろう。海辺でいじめられていた亀を助けた浦島太郎が、そのお礼に龍宮に招待され、そこで楽しい日々を送り、元の浜に戻ってきたら、何十年という月日がたっていて、乙姫さまからもらった玉手箱をあけたら、たちまち白髪の爺さまになってしまったという、いささか寂しい物語である。
 龍宮の話はこれだけではない。伝説に近いものとして、俵藤太(藤原秀郷)が龍宮入りをするという話がある。龍神に頼まれて三上山のムカデを退治し、そのお礼として龍神の娘から尽きることのない米俵を贈られ、さらに龍宮に招かれて黄金の鎧や太刀などを授かるという冒険譚である。
 国男は「海神宮考」で、こうした龍宮にまつわる、よく知られた昔話や伝説を紹介しながら、どうして海のかなたにこうした不思議の国が存在すると想像されたのかについて、考察をめぐらすのである。
 浦島太郎や俵藤太が洗練された昔話、ないしは英雄譚になっているのに対し、もっと素朴な物語も存在する。それは旧日本の列島と南の島々に共通する型をもった物語で、一人の貧しい男が売れ残りの薪や枯れ枝を海に投げこんで帰ってきたら、どこからか使いが来て、あっという間に龍宮に連れて行かれ歓待されるという話だ。
 国男はこうした話が、善悪ふたりからなる語り口に発展して、二人椋助(むくすけ)といった滑稽譚や、海幸山幸の伝説になると推測しているが、いずれにせよ、ここでも人が海底の異郷にはいっていく筋がくり広げられる。そして龍宮からもたらされるのは、見かけからは思いもつかぬ大きな福や富なのだった。
 龍宮にまつわる話は、いまではだれもほんとうとは信じない、子ども向けのおとぎ話となっている。しかし、おとぎ話や昔話が、かつては人々を畏れさせた神話のなれの果てだとするなら、その原型となる神話の痕跡がどこかにあるはずだと国男は考えていた。
 その手掛かりとなるのが、沖縄のこんな話だ。
 ある長者が海で働こうとして、朝早く浜にでるが、まだ夜が明けないので、寄木を枕にしてうたたねしていると、ニラ(ニライカナイ)の神さまがやってくる。そして、長者が枕にしている寄木に向かって「どこそこの家に子が生まれるから、その運を決めにいこう」と話しかける。すると、何と寄木が口を開いて、「いま、ちょっと動けないから、ひとりで行ってきてくれ」。しばらくして、ニラの神さまが戻ってきて、「生まれたこの未来をこんなふうに決めてきたから」と寄木に話すのを、長者が聞いて云々という話だ。
 本州にも、もちろん同型の物語はあるが、国男はニラの神さまというところに南島独自の位相を発見した。沖縄では、ニライカナイ(ニルヤカナヤ)から来る神は、昔話にとどまらず、より神話的性格を強くもっていた。それは祭が、なかば芸能、わざおぎとして継承されながら、南島ではいまも「奇怪な姿をした色々の神霊」が出現する場と信じられていることからも明らかだった。
 国男自身、「次第に遠い幽(かす)かな夢語りと化しつつも、古い記憶は中世の終わりに近づくまで、なお半分は信じられていた」と記している。
 ニルヤの神は何をもたらしたのだろう。それは物語にある美しい乙女や霊力をもつ童子、如意の宝珠や知恵の言葉だけではなかった。もっと重要なものがあったと国男はいう。

〈第一には火である。もちろんこれを史実と見る者はないであろうが、暁ごとに東の地平線を望んでいた島人らが、かしこには湧きかえる不断の火があり、テダ(太陽)はそのなかから新たに生まれ出るもののごとく想像し、また次々の経験によって、いよいよそれを確認するにいたったとしても不思議ではない。……第二に根源をニルヤに帰するものに稲の種がある〉

 沖縄では、たいへんな苦労と犠牲の末、ニルヤから稲がもたらされたという神話が残っている。
 しかし、寄木の神話にもあるように、考えてみればイノチもニルヤから与えられるのだった。時にやっかいな存在、ネズミもニルヤからやってくる。蛭子が生まれたとき小舟に乗せて大海に送ると、それがニルヤを経て、オトジキョという神となって戻ってくる。ニルヤは生と死の根源、死者が行くところであると同時に生者がやってくる場所、すなわち「根の国」にほかならなかった。
 南島でも、ニライカナイの信仰は、のちに天孫降臨信仰が導入されることによって、おぼろなものになっていく。つまり、天神と海神の二系統に分岐し統合されていくのだが、国男自身はニライカナイこそが民間信仰の底を流れている力だと信じていた。
 ニルヤ=根の国を黄泉の国と理解するのは後世の説にすぎないと国男は断言する。根とは本源であり、基底でもあった。そして、「底」は地底とはかぎらず、遠いこの世のはてにある国という意味ではなかったかという。ニライカナイとは「海のあなたの常世郷、死者の魂の去来する根国」ではないか、と国男は考えていたのである。
 南の島々では、海神がいまでも生き生きと信じられていた。まだ新しい神がぞくぞくと出現していたのだ。そこが北の群島とはずいぶんちがっていた。だからといってヤマトと沖縄とのあいだが断絶しているかというと、そうではないと国男は力説する。
「海神宮考」の末尾には、次のような一文がはさまれている。

〈しかし考えてみなければならぬことは、南から北へか、北から南へかはまだ決しがたいにしても、ともかくも多くの島の島人は移動している。この葦原の中つ国への進出は、たった2600余年の昔である[神武天皇によるヤマト建国をいう]。いわゆる常世郷の信仰の始まったのは、そんなに新しいことではないのだから、もしも偶然にこの東方の洋上に、それらしい美しい島があったとしたら、かえって取り扱いに困るところだった。しかもそういった現実のニライカナイを持たぬ、30度以北に住んで、のちまでなお引き続いて南方の人たちと同じに、日の出る方向を本つ国、清い霊魂の行き通う国、セジ[霊力]の豊かに満ちあふれて、惜しみなくこれを人間に分かとうとする国と信じていたとしたら、それこそはわれわれの先祖の大昔の海の旅を、跡づけ得られる大切な道しるべであったと言ってよい〉

 冷静さをよそおいながらも、情熱のほとばしりを抑えきれない独特の文体のあわいから、太平洋戦争の激戦で4人に1人の島民が亡くなった沖縄への鎮魂の思いがわきだしている。ヤマトと南島の信仰は、根においてひとつなのであり、沖縄のニライカナイこそ「われわれの先祖の大昔の海の旅を、跡づけ得られる大切な道しるべ」なのだった。

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