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海神宮考 [柳田国男の昭和]

《連載178回》

柳田国男が自身最後の著作となる『海上の道』の最初の論文を発表するのは、1950年(昭和25)11月満75歳のことである。『海上の道』が書籍として発刊されるのは、それからほぼ10年後、死去1年前の1961年(昭和36)年7月になってからだが、そこに収められたほとんどの論文は、1950年から5年のうちにできあがっていた。
 試みに、それを雑誌への発表順に並べてみることにしよう(()内は発表雑誌、ないし書籍名、[]内は単行本での順)。

「海神宮考」1950年11月(「民族学研究」)[2]
「宝貝のこと」1950年12月(「文化沖縄」)[6]
「知りたいと思うこと二三」1951年7月(「民間伝承」)[9]
「みろくの船」1951年10月(「心」)[3]
「海上の道」1952年10〜12月(「心」)[1]
「人とズズダマ」1953年2月[52年7月脱稿](「自然と文化」)[7]
「稲の産屋」1953年11月(『新嘗の研究』)[8]
「根の国の話」1955年9月[55年5月脱稿](「心」)[4]
「鼠の浄土」1960年10月(「伝承文化」)[5]

 1960年秋に発表された最後の「鼠の浄土」がいつ脱稿したのかは、よくわからない。このテーマについて国男は早くから関心をもっていたから、原稿自体はかなり前にできあがっていた可能性がある。もし、1950年から55年にかけてが執筆の中心だとすれば、国男は満75歳から80歳にかけて、『海上の道』に取り組んでいたことになる。それは、まさに執念のたまものだった。
 しかし、国男が南島にこだわっていたのは、この5年間だけではない。『海上の道』に含まれなかった講演や談話を取りあげれば、南島への言及はきりがないほどで、そのこだわりは、まさに死の直前までつづくのである。
 ちなみに、『定本柳田国男集』の年譜には、1962年(昭和37)7月17日の項に「成城大学で都立大学沖縄調査団一行に『沖縄の話』をする」とある。それからひと月もたたぬ8月8日に、国男は心臓衰弱により享年88歳(数え)[満87歳]で亡くなるのだ。8並びの大往生である。
 ところで一般に『海上の道』は、日本人の南方起源説を論じた作品とされる。そして、その正当性をめぐっては多くの論議がくり広げられ、いまだにその評価が定まったとはいいがたい。
 しかし、ここではあまりその論議に立ち入らない。むしろ触れたいのは、戦後も占領期を脱しようという時期(沖縄を除いて)になって、国男がなぜ南島にこれほどこだわりつづけたかについてである。
『海上の道』に収められた諸論考には、単なる日本人南方起源説には収まりきらないさまざまな視点が含まれており、そこからわれわれは、柳田学の大団円に向けて、国男がどういう準備をほどこそうとしていたのかを知ることができるような気がしてならないのだ。
 ぼく自身の研究不足を棚にあげていうなら、帆はまだあげられたばかりで、旅のゆく末はまだ長い。結論をあせらず、ゆっくりと進むことにしよう。
 そこで、まず取りあげるのが、1950年11月、雑誌「民族学研究」に発表された「海神宮考」である。
 この論考が興味深いのは、トカラ列島宝島の南に位置する宝海峡以南、すなわち奄美大島や沖縄本島、それに先島などからなる南島が日本=ヤマトの〈内〉でもなく〈外〉でもない地域として位置づけられていることである。学としていえば、そこはふたつのミンゾク学、すなわち民俗学と民族学が交わる場所にちがいなかった。
 国男自身はこう述べている。

〈二つの学問の境目は、特に日本では紛れやすい理由があった。それを自分などもかなり気にかけているが、あるいはこれもまた両者が共に大いに成育して、やがては一つの名をもって、何の誤解もなく呼びうる時代が到来するであろう前兆かもしれない。少なくとも太平洋上の諸島には、この未来の融合に向かって、期待を繋げずにいられぬものが多く、さらに今回の南島研究復興にいたっては、新たなる一つの機縁ではないかとさえ想像せられる〉

 海神宮とは、日本の昔話にいう竜宮のことだといってよい。だが、南島ではそれはニライカナイ(あるいはニルヤカナヤ)を意味していた。はたして竜宮とニライカナイは、どこが同じで、どこがちがうのか。そしてニライカナイは沖縄の信仰全体のなかで、どのような位置を占めているのか。「海神宮考」はそうしたくさぐさを論じた息の長い論考だった。しかし、その中心を考えれば、「海神宮考」はニライカナイ論だと言い切ってもよかったのである。
 ただし、海神宮への論及はいきなりとびだしてきたわけではない。敗戦直後、国男は「新国学」をつくることを決意した。その3部作は『祭日考』『山宮考』『氏神と氏子』となって結実する。これらはいわば神道についての考察であり、戦後も日本人の信仰の原理を継承していくためのこころみにほかならなかった。
 だが、実は3部作にはつづきがあった。それが「田の神の祭り方」や「田社考大要」として示される神道論の思索である。
 1951年に刊行される柳田国男監修の『民俗学辞典』によれば、「稲作の豊饒を祈り祭る神」である「田の神」は山から下りてくる祖先神にほかならなかった。
『民俗学辞典』には、こう書かれている。

〈田の神と祖先の神とは一致すべき性格があった。祖霊もまた祭のときにきたりのぞむ神であったが、山こそはその久遠の安住地と信ぜられていたのである〉

 そして「田社考」は伊勢の「皇太神宮儀式帳」に記述されている「田社」とは何かからはじまる。そして、国男は「田社」とは「田の中の祭場」にほかならず、神社に社殿ができるのはのちの世のことであり、もともと神は山から田におりてきたことを立証しようとした。

〈大体の傾向としては、田のほとりから屋内へ、それも竈(かまど)の前から次第に床の間、神棚の方へと移り行くことが、祭りの期日もしくはその中心点の動きに伴い、それも主として祭の慎みよりも、むしろ式後の豊の明かりに重きを置くようになった……〉

 それが日本の祭の流れだった。
 しかし、この「田社考」は途中で投げだされ、「大要」だけが残された。それに代わって、国男は『海上の道』の嚆矢(こうし)ともいうべき「海神宮考」に取り組むのである。やむにやまれぬ情熱がたぎっていたとみてよい。
 山宮から里宮への移行は必定だった。しかし海の宮の発見は、あらためて驚きをもって迎えられていたのである。

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