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50年代前半の状況 [柳田国男の昭和]

地震が起きてしばらくは茫々とテレビを眺める毎日がつづきました。台湾の紀行を書く気にもなれず、毎日のできごとをつづる元気もわきませんでした。もうひとつ引っかかっていることがあるのですが、それはともかくとして、そろそろいつもどおりの生活に戻ろうと思い、またブログをつづることにしました。よろしければお読みください。今回気づいたのは、戦後、電力が回復してから1950年ごろまで、文字どおり計画停電が実施されていたことです。東電による今回の計画停電は60年ぶりのできごとといえそうです。

《連載189回》
 戦後日本の枠組みのおおもとが、サンフランシスコ講和条約と日米安保条約にあったことはいうまでもない。しかし、これを強行した吉田茂内閣は、1952年(昭和27)4月の両条約発効をピークとして下り坂をたどりはじめる。
 安保条約のねらいは、日本の再軍備をできるだけ回避しつつ、日本の防衛をアメリカにゆだねる点におかれていた。とうぜん保守派、左派からの反発は必死だった。
 そうした保守派の代表が鳩山一郎である。かれらは戦前の軍部台頭以前の議会主義を復活したいと願っていた。
 1951年6月に公職追放を解除された鳩山は、対米依存の強い安保条約には不満であり、日本は憲法を改正し、再軍備を整えなければならないと考えている。保守の実力者である鳩山の政界復帰により、これまで吉田が牛耳っていた与党自由党内には次第に亀裂が走りはじめる。
 そして造船汚職などが暴露されたことも手伝って、自由党内は四分五裂し、その結果、鳩山率いる日本民主党が結成され、吉田は1954年11月に退陣し、鳩山内閣が成立する。しかし、体調不良をかかえた鳩山の内閣はそう長くつづかない。
 いっぽう左派も日米安保条約締結を機に、反米・反資本主義傾向を強め、直接行動を伴う闘争を先鋭化していた。1952年には5月にメーデー事件、それにからむ早大事件、さらに新宿駅前での火炎瓶闘争が起こり、7月に破壊活動防止法(破防法)が成立する。日本炭鉱労働組合(炭労)や電気産業労働組合(電産)などのストライキも盛んで、そのナショナルセンターである日本労働組合総評議会(総評)も政治的色彩を強めていた。
 このころ日本共産党は「山村工作隊」などを組織して武装闘争路線をとっていたが、国民から多くの支持を得てはいなかった。対象的に社会党は左右に分裂していたものの、都市のサラリーマンや労働者から広く支持を集めようとしていた。とはいえいつまでも反対主義の野党体質が抜けず、有効な政治ビジョンを描けなかったのも事実である。
 1950年代前半の錯綜する政治状況を持ちだしたのは、何も政治をめぐる構図が今も昔も変わらないことを示すためではない。政治状況がいつものとおり混乱のきわみにあったにもかかわらず、むしろ日本の経済社会が占領期の混迷と疲弊から、着実に回復しつつあったことを示すためである。
 そういう時代を柳田国男はどのようにみていたのだろうか。

 経済学者の中村隆英は「[朝鮮戦争が始まってから]生活水準は1950年から53年にかけて異常な増加を示し、たちまち戦前の水準を突破するにいたった」と記している。
 中村によると、産業面で復興の先頭を切ったのは、繊維、セメント、紙パルプ、硫安、砂糖などだったという。加えて4大重点産業といわれた電力、鉄鋼、海運、石炭に国家資金が投入され、経済成長の基盤が整えられていった。
 1950年ごろ、東京では夕方の電力需要ピーク時に、地域ごとに15分ほど「計画停電」なるものが実施されていた。それが発電能力の増加によって、次第に解消される。そして、こうした産業の基盤整備によって、日本経済における1955年以降の機械、電気機械工業、繊維産業、石油化学工業の発展が準備されていくことになるのだ。
 歴史家の半藤一利は、占領期が終わって、「まるで映画のフェイドアウトのように」アメリカ兵が町からいなくなり、「そしてその代わりというように、アメリカの『文化』がどかどかと入ってきた」と、みずからの体験をふり返る。
 アメリカの文化がはいってきたというのは、言い換えれば生活が西洋化したということでもある。
 ふたたび中村隆英の記述をひく。

〈1955年以後になると、米をはじめとする伝統的な消費財の消費量は下降に転ずるが、それは消費水準が一応の安定を取り戻したところで、生活様式が西洋風に変わっていった結果であった。テレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫と、家庭用電気製品も普及しはじめる。戦前型の消費をひとまず取り戻したあと、生活様式は急変しはじめたのである〉

 1950年代前半は「戦前型の消費をひとまず取り戻した」時期にあたっていた。そして、その後、日本人の生活様式は急変するのである。
 その変化は柳田民俗学にとってもけっして無縁ではない。

 講和条約の発効により日本が独立を回復したあとも、国男は引きつづき沖縄と日本の関係に意識を集中していた。
 1952年(昭和27)5月11日の九学会連合大会における講演、「海上の道」については前回、言及した。それから約2カ月後の7月5日、国男はのちに単行本『海上の道』に収録されることになる論考「人とズズダマ」を脱稿している。この論考は翌年2月、京都大学人文研究所を拠点とする自然史学会の発行する雑誌「自然と文化」第3号の巻頭を飾ることになる。
「海上の道」について講演する半月ほど前、国男は都立大学の新嘗(にいなめ)研究会で、「稲霊(いにやたま)」について話をしていた。新嘗研究会ではすでに前年7月に、新嘗祭の起源についてというテーマでも話しており、さらに翌1953年2月に「倉稲魂(うがのみたま)」について論じることになる。この3つの話が合体されて、53年12月に「稲の産屋」なる論考として結実し、のちに同じく単行本『海上の道』に収録されることは、いちおう頭にいれておいたほうがいいかもしれない。
 このころ国男は民俗学研究所代議員(実質所長)、日本民俗学会会長に加え、1953年(昭和28)2月からは国立国語研究所評議会会長(任期4年)にも就任している。その前後から、民俗学研究所が進めている社会科教科書づくりに関連する発言と合わせて、国語問題についての言及も増えており、相変わらず精力的な様子がうかがえるが、それをのぞけば国男の1950年代前半の日々は、揺れ動く政治や社会をよそに、ほとんど南島への関心によってつらぬかれていた。
 それは日本の根源へとさかのぼる旅だったといってよい。

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