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赤嵌楼──台湾の旅(7) [旅]

3月8日。台南に着いたのは午後2時ごろだったでしょうか。赤嵌楼(せきかんろう[嵌は代用字。正しくは甘の部分が土偏])という史跡を見学します。バスの駐車場を出たところに、ガジュマルの木が根を広げ、コンクリートの塀をのみこんでいる姿をみて、ちょっとびっくりしました。自然はそもそも人智の構想を超えているのかもしれません。
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ここは北回帰線の南に位置しますから、すでに熱帯です。それでも、このところ天気が悪く、空がくもっているせいか、温帯との極端な気温の差は感じません。ただし日が差して、暑くなれば、話はちがってくるのでしょう。
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台南は古都と呼ばれます。その理由は、いわば台湾の「歴史」がここからはじまるからです。1653年にオランダの東インド会社がこの地を占拠し、交易の拠点を築きます。そして、その本拠地バタヴィア(現ジャカルタ)から煉瓦を運んできて、プロヴィンティアという城を築いた跡地が、いまでは赤嵌楼という観光地になっているわけです。
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1661年、鄭成功はこの城を攻略し、オランダ人を放逐、城の名を東都承天府と改名します。鄭成功政権の政府ですね。しかし、そのときの城郭は残っていません。いまの建物は19世紀後半につくられたもので、文昌閣と海神廟がその中心を占めています。日本統治時代にはここは軍の病院になっていたようです。
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入り口をはいってすぐのところに、鄭成功とかれに帰順するオランダ人の群像が立っていました。庭をみると、やはりここは南の地だと感じます。

ここで話は少し横道にはずれます。
『死霊』で知られる作家、埴谷雄高は台湾で生まれました。生を享けたのは台北から少し下った新竹ですが、父親が台湾製糖に務めていた関係で、台南の郊外、三嵌店[嵌は代用字。正しくは甘の部分が土偏]で育っています。ここには製糖工場があって、日本人専用の住宅や小学校があったようです。
埴谷さんにとって、台南はなじみの町です。
われわれは立ち寄れなかったのですが、台南には安平という古い船着き場があって、そこにオランダ人がゼーランディア城という要塞を築いていました。鄭成功はそれを奪って、清に対抗する前線司令部とします。
そのゼーランディア城(別名、赤嵌城)に子どものころ訪れたときの思い出を、のちに埴谷さんがこう語っているのを知りました。

〈私が行った頃はすでに観光地の趣を呈していて、コンクリートの肌がでている城壁のかなり広い敷地の上に、小さな小屋が立っていました。なかへ入ると、かつてのゼーランジャ城の絵が、正面にかかっているのです。それを見ると、確かに当時は海がすぐ城に沿って波打っている港で、赤嵌城は海へ突きでているのです。……壁に架かった赤嵌城の絵と、遙か向こうに見える海岸の砂浜を遠眺しながら、つい見比べてしまうと、一種茫洋とした虚無感に打たれるのですね。……まだ幼い私に、悠久たる自然というより、荒涼たる虚無感を与えてしまった。三百年という時間の幅の実感はなかったけれども、すべては時間の流れのなかで荒廃するという感じになったのですね〉

『死霊』の構想が幼いころ台南で覚えた虚無感に発しているというのは、なかなかすごい話になってきました。
埴谷さんが赤嵌楼に行かなかったのは、おそらくここが軍の病院になっていて、一般人の立ち入りができなかったからでしょう。しかし、海のほとりにある赤嵌城は、昔日の面影もなく、荒涼としていたにちがいありません。
埴谷雄高という作家の原点には、植民地台湾での体験が横たわっているようです。ただ、おもしろいのは、かれが「荒涼たる虚無感」から、いわば300年前の歴史に向かわず、300年後の世界を構想し、人間存在のあり方、つまり存在の革命を文学的想像力のなかで思いえがこうとしたことではないでしょうか。
ここで、ぼくは台湾の旅から離れて、いま思いがけぬ不思議な連想に引きつけられ、自分でも唖然とします。
埴谷雄高、本名般若豊の本籍地は福島県相馬郡小高町で、その家系は代々、相馬藩の武家でした。小高は埴谷さんと、もう一人、有名な文学者、島尾敏雄を輩出した地で、勇壮な馬追でも知られています。
戦前、埴谷さんの父親が台湾で仕事をしたのは、小高にあった家が没落し、その土地を取り戻そうと決意したからだといいます。
その小高(現南相馬市小高区)が、東日本大震災で津波による被害を受け、現在、福島第一原発の20キロ圏内にはいっていることを知ると、何だか暗澹たる気分になります。もし埴谷さんがご存命なら、今回の大震災にも子どものころ以上に「荒涼たる虚無感」を覚えたにちがいありません。
しかし、とぼくは思うのです。それはまた新たなゼロからの出発点ともなりうるのではないか。『死霊』という作品は、戦後文学の到達点として完結すべきものではなく、いまやポスト3・11の文学として読みなおしたほうがよさそうです。埴谷雄高という作家は、われわれが考えるより、はるか遠くを見すえていたと思えてなりません。

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