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「白」の神の水脈 [柳田国男の昭和]

《連載191回》
 晩年の柳田国男は、引き継がれねばならない日本という国のかたちを懸命に考えつづけている。敗戦と占領期を乗り越え、平和な通商国家として世界の荒海に乗りだそうとしている日本が、これからも大きな変化をとげていくのは目にみえていた。それでも、日本が日本であるためには、その核となる常民の生活と信仰が継承されねばならない。
 引きつづき『海上の道』に収められた主要論考に触れておきたい。
 国男がのちに『海上の道』に収録される「稲の産屋」を発表するのは1953年(昭和28)11月のことである。もともとは創元社から刊行された共著『新嘗(にいなめ)の研究』(第1輯)の冒頭を飾る一篇だった。
 このシリーズは3輯まで出され、国男が執筆したのは第1輯にとどまる。ただし、最後にかなりの中断期間をおいて刊行された1967年(昭和42)刊の第3輯には「遺稿および資料」として国男の「米の島考」が掲載されている。
 第1輯を眺めると、「稲の産屋」のほか、新嘗祭にからむ、さまざまな民族学的論考が掲載されていることがわかる。そのテーマは、古代中国の嘗祭、高砂族(台湾先住民)やミクロネシア、インドシナの農耕儀礼、朝鮮の穀神などと幅広い。折口信夫も「新嘗と東歌」という論考を寄せている。だが、その折口が刊行を待たずして2カ月前に長逝したのは、国男にとっても返す返す残念だったろう。
 いずれにせよ、この論文集は三笠宮崇仁(たかひと)親王も参加して都立大学で開かれている「新嘗研究会」の研究成果だった。皇室の重要な儀式である新嘗祭、ならびに即位に際しての大嘗祭を民俗学と民族学の視点から客観的に解明しようという、戦後ならではの試みだったことはいうまでもない。
 国男は1951年7月、52年4月、53年2月の3回にわたり、新嘗研究会でみずからの研究成果を発表している。それをまとめたものが「稲の産屋」になったのはたしかだが、その内容を詳細にみると、論考は第1回の発表が中心で、2回目、3回目は、論文としてはまだ完全にはまとまっていなかったと思われる。
『定本柳田国男集』には未定稿として「倉稲魂考」が残されており、おそらく国男は本シリーズの第2輯が発行されることを予期して、その原稿に着手していたものと思われるが、それは遂に完成にはいたらなかった。
 だが、いずれにせよ「稲の産屋」が、国男による新嘗祭へのアプローチであることはまちがいなかった。それを最後の著作『海上の道』に含めたのは、違和感がないではない。沖縄についての論及がほとんどなされていないからである。ほんらいなら、それは遂に完成されなかった「倉稲魂考」とあわさって、はじめて南島論の系譜につながるはずだった。その思いが、「稲の産屋」を『海上の道』の水脈へと引き寄せたのである。
 その水脈は、吉本隆明にいわせれば、「縦断する『白』」あるいは「『白』の神」と名づけられるものだ。
 それは南から北へ向かう「白」の線によって示される。白はもちろん稲の表象にちがいないが、いっぽうでは、つぎつぎと生みだされる清浄な生命の色でもある。そこにあるのは単なる「もの」ではなく、祈りの吹きこまれた精神のかたちだった。
 国男はここで、持説に強引とも思える変更を加えてまで、新たな論を展開しようとしている。
 こう述べている。

〈近い頃、自分は大白神考と題する一書をおおやけにして、東北地方にひろく行われるオシラサマの信仰につき、今まで考えていたことを叙述しておこうと試みた。……蚕をオシラサマという方言は普通であり、それはまた蚕蛾蛹等を含めて、すべてヒルもしくはヒヒルと呼んでいた古語と、音韻の行き通いがあると思われたゆえに、ひとたびはこれを同一伝承の分岐したものか、そうでないまでも奥羽地方のオシラサマも、名だけは少なくともこっちから運ばれて行ったもののごとく推定しておった。今となってはそう早急にきめてしまうべきものでなかったことを反省せずにはいられない〉

 つまり国男はここで、蚕はかつてヒル(あるいはヒヒル)と呼ばれていたことから、ヒル→シロを連想しているのだ。そこからオシラサマが白い蚕を祭るものと考えられ、自分もそう思っていたのだが、それはいまから思えば未熟な考察だったというのである。
 その代わりに持ちだされるのが、山と里を上り下りする田の神、すなわち農神としてのオシラサマだった。人びとはオシラサマが「春の農始めには穀物の種子をもって高い空からお降りなされると信じている」と国男はいう。そして、それが沖縄は宮古島のムナフカという神の信仰とそっくりだとつけ加える。
 しかも、琉球列島では、稲の置き場と人間の産屋のことを、ともにシラと呼んでいた。こうして、白=シラが沖縄から東北まで、日本をつらぬくことになる。
 吉本隆明が『海上の道』の発想を、「縦断する『白』」あるいは「『白』の神」と呼んだ理由はここにあった。
『海上の道』においては、シロの神でもある稲をかついだ日本人が、南から北へと移動している。そして村々では、稲の霊がまつられていた。そして、そのうえに、はじめて皇室行事としての新嘗祭が成り立つことになる。
 国男は皇室と常民がニヒナメ(新嘗)をつうじてつながっているという確信をいだいていた。

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