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石田英一郎の提言 [柳田国男の昭和]

《連載198回》
 1955年(昭和30)、満80歳を迎える柳田国男は、ひとつの決着を迫られていた。それは民俗学研究所をどうするのかという問題だった。
 いちおう研究所と銘打ってはいるものの、柳田邸の書斎を所在地とする民俗学研究所は、端からみれば、実質、柳田事務所のようなものである。加えて、ここに日本民俗学会も置かれているのがやっかいだった。
 民俗学研究所は、敗戦のどさくさにまぎれ、連合国総司令部(GHQ)の接収を恐れて、1947年(昭和22)に柳田邸にあわただしくつくりあげた組織ではあったが、いささか無理があった。そもそも柳田邸の書斎に陣取る研究所も、母屋の2階で暮らす柳田一家も、出入りする玄関はひとつというありさまで、プライバシーもなにもあったものではなかった。
 自分の亡きあと、実質的に柳田事務所といってもよいこの研究所がどうなるのか、という思いを国男がいだいたとしても、いっこうに不思議ではなかったのである。
 研究所の運営は軌道に乗っていない。10人足らずの代議員と5人の理事は大学などの仕事も兼ねているので無給ですむとしても、10人ほどの所員や事務員には安くとも給料を払わなければならなかった。会員からの会費や寄付、文部省からの助成金だけでは、とても研究所の経費をまかないきれない。実際には水道代や光熱費までが、柳田家の負担となっていた。
 出版事業の採算がとれないことも、研究所の財政を圧迫する要因だった。『社会科叢書』、『全国民俗誌叢書』、『民俗学辞典』なども次々出版されたものの、売れたのは東京堂出版から発売され版を重ねた『民俗学辞典』だけ。満を持して研究所総出で編集にあたった「社会科教科書」も空振りに終わった。
 お茶の水女子大学の理学部で生物学を教える息子の為正に、研究所の面倒をみろというのは酷である。かといって女婿の宗教学者、堀一郎にあとをゆだねるのも、将来なにかと困った問題がもちあがりかねない。けっきょく国男は、元気なうちに自分で始末をつけるほかあるまいと思った。
 1月12日、国男は召人(めしゅうど)として、宮中の歌会始に出席し、昭和天皇に歌を献じた。

  にひ年の清らわか水くみあげて
  さらにいづみの力をぞおもふ

 前年5月には皇居で昭和天皇へのご進講、9月には東宮御所で皇太子[現天皇]へのご進講とつづき、最後に歌会始の召人という栄をたまわったのである。国男の感激はひとしおだった。その喜びがこの歌にもあらわれている。
 だが、表向きの栄光とは裏腹に、民俗学研究所の内情は深刻だった。
「定本」の年譜には、歌会始のあと、しばらく静養していた国府津から戻った国男は、2月13日に開かれた研究所の研究会で、「学問の前途多難なことを述べ、方法論を確立しようという話をする」と書かれている。
 このとき国男は柳田家と民俗学研究所の分離を決意していたとみてよい。それは同時に、民俗学を柳田民俗学から飛翔させよという呼びかけでもあった。それでなければ民俗学の「前途多難」、あるいは「方法論」の確立といった話が出るはずもないからである。
 国男が深刻な思いにかられ、だからといって絶望するわけではなく、研究所のあり方を含め、民俗学の将来について、後進に論議をゆだねようとしたのは、前年10月に、研究所の代議員で東京大学教授でもある文化人類学者の石田英一郎が、「日本民俗学の将来」と題して、重要な提言をしていたからである。
 長くなるが、その発言を引用しておきたい。

〈まず、第一の途として考えられるのは、日本民俗学をもって、広い意味の日本史の一部として、大学でいえば、史学部ないし史学科に属せしめる行き方である。……その日本民族自らの運命について考える経世的な意図からみても、国史学の一つの新しい方法としての途を選ばれることは、充分の根拠のあるところであろう。
 事実、柳田国男先生などがこの学問に注いでこられた大きな努力も、その主たる目的は日本史学の改造にあった。私が最近、柳田先生から直接承ったところによっても、先生ご自身は日本民俗学のありかたとして、この方向に進むことを望んでおられるようであり、私が次に提唱する広義の人類学の一部としての行き方は、従来の先生の主たる努力から外れた迂遠の途として、先生のむしろくみせざるところである。
 だが、柳田先生の開拓された深くて広い学問領域は、はたして右の国史学ないし国学的な範囲にのみとどまるものであろうか。私があえて先生の意図にそむいても、なおかつ、ここに第2の途を提唱して、今後日本民俗学を専攻される若い世代の、少なくとも一部の人々がこれを選ぶことを希望するゆえんのものは、ひとえにこの学問の中に、右のような範囲に局限することのできない、発展性に富んだ幾多の問題を包含することを信ずるがゆえにほかならない。
 この第2の途とは、広義の人類学と結合する行き方である〉

 石田の目からみれば、問われているのは、国史学と人類学のあいだにまたがる柳田民俗学を、どう継承するのかという、あまりにも大きな課題だった。これに答えるのは、もちろん国男本人ではありえない。
 問いはゆだねられた。国男はその答えに、大きな期待をかけていたといってよい。

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