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翻訳をめぐって──『北京のアダム・スミス』を読む(2) [本]

実はなかなか前に進まないので困っている。
超難解なのだ。
たとえば、どこを挙げてもいいのだが、こんな一文が出てくる。

〈シュンペーターの主張は、均衡に向かう運動、または均衡を巡る運動についての伝統的な経済理論の関心とみずからの経済発展理論についての関心との区別をめざしていた。彼の経済発展概念は、「自然発生的かつ非連続的な均衡の攪乱(中略)つまりそれまでの均衡状態を絶えず変化させ、置き換える攪乱」と理解される。J・B・クラークら多くの経済学者は、「静態」と「動態」との分離によって、資本と人口の増加、あるいは技術的変化や生産組織の変化など、動態的な要素による静態的な均衡の攪乱を理解できるようになった。しかしこれらの動態的要素は、経済理論において外在的、つまり説明されないままになっていた。シュンペーターによると、この方法論は、資本と人口の増加においてはある程度妥当であるが、技術変化と生産組織の変化においては妥当でない。これらの変化は経済プロセスそのものの内部に由来し、したがって経済発展の内在的な要素として扱わなければならない〉

すべてのページがこの調子なのである。
ぼくのようなしろうとには、とてもついていけない。
訳はまちがっているわけではないと思われるが、残念ながらまったく頭にはいってこない。
こころみに、その原文を挙げてみる。

Schumpeter's claim aimed at distinguishing between the traditional concern of economic theory with movements towards or around an equilibrium and his own concern with economic development understood as a "spontaneous and discontinuous... disturbance of equilibrium, which forever alters and displaces the equilibrium state previously existing." The separation of "statics" and "dynamics" did enable economic theorists, most notably J.B. Clark, to see that dynamic elements, such as increases in capital and population or changes in technique and productive organization, disturb static equilibria. These dynamic elements, however, remained exogenous, that is unexplained, in economic theory. In Schumpeter's view, this methodology had some justification in the case of increases in capital and population, but not in the case of changes in technique and productive organization. These originated within the economic process itself and therefore had to be treated as endogenous sources of economic development.

ぼくなりに訳してみると、こうなる。

〈シュンペーターが主張したかったのは、昔ながらの経済理論が、均衡をめぐって右往左往するのが関の山だったのに対して、自分自身の関心は経済発展にあるということだった。かれによれば、経済発展は「均衡を内部からいきなり……かき乱し、以前に存在した均衡状態をすっかり変更し、置き換えてしまう」。J・B・クラーク[アメリカの新古典派経済学者]を代表とする経済学者らは、「静学」と「動学」を分けることによって、たとえば資本や人口の増加、あるいは技術や生産体制の変化といった動学的要因が、静学的諸均衡をかき乱すというだけでわかった気になった。ところが、こうした動学的要因は、何の説明もなされないまま、外因的なものとして経済理論のなかに放置されていた。シュンペーターの見方によれば、こうした方法は、資本や人口の増加についてならともかく、技術や生産体制の変化については、まったくあてはまらない。技術や生産体制の変化が生じるのはまさしく経済過程においてであり、したがって、それらは経済発展の内から生じるものと考えなければならないのだ〉

これは一案にすぎないが、もっと正確でうまい訳も可能だろう。でも、多少はわかりやすくなったのではないか。
そのことは肝心のアダム・スミス『国富論』からの引用についてもいえる。
本書の採用している訳は、岩波文庫(水田洋監訳)にもとづいている。
たとえば、こんな箇所がある。

〈公共の偏見だけでなく、それよりもはるかに克服しがたい多くの個人の私的利害が、抵抗すべくもなく、それに反対する。陸軍の将校たちが兵力の削減に反対するのと同様の熱意と団結で、親方製造業者たちは国内市場で自分たちの競争相手の数を増やしそうな法律にはすべて反対するであろう。将校たちが自分たちの兵士を煽動するとすれば、それは、親方製造業者たちが自分たちの職人を煽動して暴力と激昂をもってそうした規制の提案者たちを攻撃させるのと同じやり方だろう。わたしたちの製造業者たちがわたしたちに対して取得した独占を多少なりとも減少させようと企てることは、いまや、軍隊を削減しようと企てることと同様に危険なことだろう〉

けっして、むずかしいことが書かれているわけではない。
しかし、とても頭にははいってこない。
この同じ箇所が、山岡洋一訳ではこうなる。

〈……社会の偏見があるうえ、もっと克服しがたい点として、既得権益を守ろうとして反対する人が多いからだ。製造業の事業主が自国市場で競争相手を増やすと予想されるあらゆる法律に反対するのと同じ熱心さと団結心をもって、軍隊の士官が兵員削減に反対するのであれば、そして、事業主が労働者を煽動して、そうした法律の提案者を暴力的に攻撃させるのであれば、兵員削減の試みは、製造業者が国民の利害に反して獲得してきた独占権をわずかでも縮小するのと同じぐらいに危険なことになるだろう〉

既得権益となった独占を崩すのが(同じく軍備を縮小するのが)いかにむずかしいかについて述べた一文だ。
一長一短はあるけれど、あとのほうが、はるかに正確で、わかりやすいのではないだろうか(もっとわかりやすくもできるだろう)。
きりがない。
ほんとうは翻訳より中身である。
大いに苦労したであろうと思われる訳者に、いちゃもんをつける気などさらさらない。
それでも、きょうはなかなか読み進めないのにかこつけて、翻訳論にまで踏みこんでしまった。
『北京のアダム・スミス』を読んでいて、翻訳に「もうひと工夫ほしかった」と思うのは、嫌われじいさんのよけいなつぶやきかもしれない。
次回からは本の中身を中心に論じることにする。
翻訳についての話はおしまいである。
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