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民俗学研究所の閉鎖 [柳田国男の昭和]

《連載200回》
 柳田国男が民俗学研究所の解散を公言したのは、1955年(昭和30)12月4日のことである。この日、研究所では、理事・代議員会が開かれていた。昨年、「日本民俗学の将来」と題する講演で、石田英一郎が日本民俗学の将来は広義の人類学をめざすべきだと発言したことは、まだ全員の脳裏に生々しい。しかし、この日、国男はこの石田発言に言及し、次のように述べた。
 日本民俗学は広義の日本史であるにもかかわらず、民俗学の側から石田に反論できないようでは、民俗学の将来はまことに心許ない。かかる無力な民俗学者の寄り合いである民俗学研究所であるならば、いっそ解散したほうがましである。
 いかにも国男らしい激しい発言だった。柳田亡きあとの民俗学をどうするのか、民俗学研究所をこれからどう運営するのかという問いかけは、実はすでに2月の段階で投げかけられていた。
 国男は石田英一郎を批判したわけではない。民俗学が日本史と人類学というふたつの領域にまたがることは、国男自身が重々承知している。しかし、民俗学研究所の場所が柳田邸にほかならないという事実そのものが、日本民俗学がいまだに柳田民俗学から一歩もでていないという現状を象徴していた。
 国男は年初から民俗学の自立をうながしていた。それがなかなか実現しそうもないありさまをみて、年末の研究所解散発言へとつながったのである。
 鶴見太郎は『柳田国男とその弟子たち』のなかで、こう書いている。

〈人類学研究はヨーロッパの帝国主義が必要とした道具として使われたものであり、研究対象となった文化の担い手が自身の文化に対してみせる姿勢とは、おのずから違う方向へむかった。世界史全体の運動を一つの構図に収めようとする石田の思考様式に対して、実際に眼の前にある確かなものから出発して世界史の方向を示唆する道筋の存在を、柳田は想定していたのであった。言い換えれば、人類文化の法則を定式化しようとする努力の中で見捨てられていくものがあることを、柳田は予感し、それを民俗学であるとした。それは敗戦によって再びもたらされた欧米の「近代」に対しても、その独自性を失わない。それを一個の学問領域として残すことの重さを柳田は石田に対して伝えたかったのではないか。その意味において、柳田は自身の民俗学を固守するために石田を拒絶したのではなく、両者の対峙が実りあるものとなることを期待したのである〉

 卓論である。
 しかし、国男の決意はだいぶ前から固まっていたとみてよい。民俗学は戦後という現実を前にしながら、現実との緊張感を失い、ちいさな城のなかに籠もろうとしていた。国男のいらだちはそこにある。
 国男はひそかに、書斎兼民俗学研究所のある母屋と土地の名義を、養父直平のものから嫡男の為正のものへと書き換えるという措置に出た。さらに邸内の南側にちいさな隠居所を立て、現在暮らしている母屋の二階からそこに移るつもりだった。着々と手を打っていたのである。
 翌1956年(昭和31)1月8日、国男は民俗学研究所の談話会に出席し、以後、この会には出席しないと発言した。縁切り宣言といわねばならない。そして、夫婦ともども1月16日には早々と隠居所に引っ越してしまう。
 柳田を欠いた民俗学研究所は解散を余儀なくされた。
 3月29日には研究所の代議員・理事合同協議会が開かれ、「諸般の事情より推して現段階においては、当研究所は1年後には閉鎖または解散することを適当と認める」との議決がなされた。この決議に国男自身が加わることはなかった。
 たいへんなのはそのあとだった。
 最初は国男の所蔵図書を含め研究所自体を東京教育大学(現筑波大学)に移管するという案が有力だった。しかし、所員から強い反対が出て、あげくのはてに所内は教育大派と反教育大派とに真っ二つに割れ、どうにも収拾がつかなくなった。
 そして決着がつかぬまま、1957年(昭和32)4月7日の代議員会で、研究所の閉鎖が正式に決定されるのである。
 清算にあたって、国男が出した条件は、蔵書を「一括保管」、「いますぐ使えるように」、「沖縄研究を重視する」の3点だけだったという。
 この時点で、柳田文庫の保管先としては、東京教育大学と慶応大学、それに成城大学の3つが候補に挙げられていた。国男は心痛のあまり、血圧が昂じて、5月から7月まで床に伏す日々がつづいた。あまりにも露骨といえる蔵書の争奪戦に、穏やかではいられなかったのだろう。
 だが最終的には、清算をまかされていた研究所代表理事の大藤時彦(おおとう・ときひこ)と成城大学側とのあいだで話がまとまり、9月27日から29日の3日にわたって、2万冊の蔵書は柳田邸に近い成城大学に次々と運びだされていった。
 研究所という施設はなくなったものの、蔵書は柳田文庫として成城大学にそっくり保管されることになった。これで国男もひとまず胸をなでおろしたにちがいない。
 そのいっぽう、民俗学研究所に連絡場所を置いていた日本民俗学会は、最上孝敬(もがみ・たかよし)の個人宅などをへて、最終的には東京教育大学に拠点を移すことになる。
 当時、民俗学研究所の理事を務めていた桜井徳太郎(のち駒沢大学学長)は、研究所解体のいきさつをふりかえって、こう書いている。

〈研究所閉鎖までは、あまりにも柳田が偉大すぎて皆が子飼いにされ、そのてのひらの中からでられなかった。学問的に刺激され研鑽に努めたけれど、それは大きな柳田の枠の中でしかなかった。しかし研究所の解散、つづいて柳田の逝去によって結果的には乳離れができた。そういう意味において解散もよかったのではなかろうか。自らの意思と努力によって学問領域を切り開いて進まなければならないという自立の覚悟が生まれたのだと思う〉

 だが、国男のもとから巣立ったはずの民俗学が「珍談奇談の収集にはしりがちな」ことに国男自身が危惧をいだき、最晩年に「日本民俗学の頽廃を悲しむ」と題する講演をおこなったことからみれば、かならずしも「民俗学の将来」は開けたとはいえなかったのではないだろうか。

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