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転換期の民俗学 [柳田国男の昭和]

《連載201回》 
 ふり返ってみれば、柳田国男が民俗学研究所の解散を公言し、実際に解散・閉鎖がなされ、成城大学に柳田文庫が設立されるまでの1955年(昭和30)暮れから57年(昭和32)秋にかけての約2年のあいだは、現代史の大転換期だった。狭い意味でいうと、この時期、「戦後」が終わり、大量消費と高度情報化に向けての新たな時代がはじまろうとしていた。
 1956年の『経済白書』はまさに「もはや戦後ではない」という標語をかかげたことで知られる。政治面では、1954年末に成立した鳩山一郎内閣が56年末まで約2年つづいたあと、わずか60日間の石橋湛山内閣をへて、57年2月に岸信介内閣が発足する。吉田茂の「戦後」内閣からどう脱却するかが問われていた。
 戦前からの大物政治家、鳩山一郎は中国、ソ連との国交回復、それに再軍備を軸とした憲法改正をめざしていた。つまりは日本の自主性回復と、アメリカ依存からの脱却を課題だった。脳溢血を経験した鳩山は健康問題をかかえていたものの、吉田派との激烈な闘争の末、日本民主党を結成し、ついに政権の座を獲得する。
 しかし、選挙をしても憲法改正に必要な3分の2の議席数には届かなかった。戦前・戦中の苦い経験から、国民のあいだでは再軍備への抵抗が根強かった。加えて、ともに憲法改正の動きに危機感を覚えたロシア派の左派社会党と西欧派の右派社会党が合併して、日本社会党が結成される。すると、こんどは自由党と民主党の保守勢力がそれに脅威をいだいて、保守合同により自由民主党が誕生する動きがつづいた。
 こうしていわゆる「55年体制」ができあがり、それが1993年までつづくことになる。ここにいたるまでの離合集散、魑魅魍魎ぶりはまことにややこしく、頭がこんがらかってくるほどだ。
 柳田国男は政治について多くのことを語っていない。おそらく親近感をもっていたのは、どちらかというと鳩山より吉田のほうだったと思われる。中野重治との関係から共産党には一時興味をいだいたものの、その後、武装闘争路線をとったことに失望し、さらに55年の「六全協」以降、合法政党として再出発するようになっても、共産党を疑いの目で見るようになっていた。
 それはともかく、2年間の首相在任中、鳩山が成し遂げた最大の仕事は日ソ国交回復に尽きる。憲法改正も小選挙区制も実現にいたらなかった。当時、ソ連ではフルシチョフ政権が発足しており、長い交渉の末、1956年10月16日、モスクワにおいて日ソ国交回復に関する共同宣言が調印された。その際、ソ連側は平和条約を締結する時点で歯舞、色丹の2島を日本に返還すると約束することで、懸案の領土問題はいったん棚上げされることになった。
 鳩山は日ソ国交回復を花道として退陣し、その後、党内の激しい総裁選の結果、かろうじて石橋内閣が成立する。積極財政にもとづく完全雇用がこの内閣の目標で、石橋自身はひきつづき日中国交回復をめざしていたと思われる。しかし、病気で倒れ、早々と岸信介に政権を委譲することになる。
 憲法改正論者である岸は、日本が対米従属関係を脱し、「自由独立」体制をつくることを目標に掲げていた。その点、日本は防衛をできるだけアメリカにまかせ通商国家に徹するという吉田路線とは一線を画する。その後、日本の政治においては、この吉田路線と岸路線が、ことあるたびに明滅をくり返すのである。
 経済面をみると、とりわけ1956年は好調の年で、日本はこの年10%の経済成長率を達成し、いわゆる「神武景気」(神武天皇以来の景気)にわいた。冷蔵庫、洗濯機、テレビの「三種の神器」が出現するのもこの年である。
 経済学者の中村隆英はこう書いている。

〈たしかに世界的にみても、新産業、新技術が各国で発展しつつあった。戦時中に軍事技術として開発されたエレクトロニクスや航空機技術などが、民需用に適用されはじめたことがあげられるし、大戦前にすでに開発、工業化されていた技術でも日本にはまだ入ってきていないものもあった。日本の企業は目を皿のようにしてそれを導入した。ソニーが軍事技術であった半導体技術をラジオをはじめとする家庭用電気機器に導入して急速に発展したのは、その一例である。テレビ、洗濯機、掃除機などが、松下、サンヨーなどで製造され、急速に普及したのも同じころである〉

「三種の神器」に象徴されるような大衆消費社会の到来は、資本主義の可能性を開くとともに、社会主義の幻想を打ち砕く実物ならではの効果をもたらした。
 そのころソ連第一書記兼首相のフルシチョフは「スターリン批判」をくり広げていた。フルシチョフの「秘密報告」は、スターリンの独裁ぶりと粛清を白日のもとにさらした。
 しかし、歴史家のノーマン・デイヴィスは「このスターリンの犯罪暴露は、共産党の必要に沿うものばかりを注意深く選んで」おり、「実際には表に出したものより隠したもののほうが多い」ことを忘れてはならないと指摘している。それがゴルバチョフまでつづく、ソ連の「情報公開(グラスノスチ)」の正体だった。
 社会主義の幻想がほころびようとしていた。そのことを端的に示す事件が、1956年6月にポーランドのポズナニ、10月にハンガリーのブダペストで発生する。ポズナニでは「パンと自由を!」「ロシア人、ゴーホーム」を叫ぶデモ隊に軍が発砲し、53人の労働者が殺されている。ハンガリーでは反ソ運動が広がるなか、ソ連軍がブダペスト市街を占拠し、ワルシャワ条約機構からの脱退を宣言した政府をつぶし、市民に徹底した弾圧を加えた。
 中国では毛沢東が「スターリン批判」に神経をとがらせていた。自由に自分の意見をいわせる「百花斉放」運動は、けっきょく危険思想をあぶりだす狙いしかなく、無防備に政府を批判した知識人は、たちまち翌年の「整風運動」によって収容所送りとなった。さらに1957年からは自給自足の人民公社体制をめざす「大躍進」政策がすさまじい宣伝とともに実施に移されることになる。
 それでもまだ日本では社会主義に幻想をいだく知識人が多かった。だが、現実は社会主義の崩壊がすでにはじまっていたのである。
 こんな状況を国男はどのように見つめていたのだろう。
 政治や経済の動きに即応しなくても、いやそうした動きと距離を保ちながら、柳田民俗学は常に時代の風に耐える指標を提示し、時代を見つめなおす契機を与えてきた。いま民俗学は柳田民俗学から自立しようとしている。だが、それはどのような方法をもって、新たな時代に対峙しようとしているのだろうか。国男の懸念はそこにある。
 商品世界が人びとの生活内部にまで深く浸透し、それまでの生活様式をすっかり変えようとしているいっぽうで、社会主義の幻想ははがれおち、体制の見苦しいあがきがはじまっている。日本の政治は親米と反米、従属と自立のあいだを振り子のように揺れ動き、しっかりした道筋を描けないままでいる。そうしたなかで、民俗学ははたしてどのような役割を果たすことができるのだろうか。
 民俗学研究所の閉鎖を決意したとき、国男が日本民俗学は広義の日本史であるにもかかわらず、民俗学の側から石田に反論できないようでは、民俗学の将来はまことに心許ないと述べたのは、民俗学を広義の人類学として扱うことに反対したためではなかった。むしろ民俗学が日本史、すなわち時代との緊張感を失いつつあることを懸念したのだといえるだろう。
 最晩年になって、かれが「珍談奇談の収集にはしりがちな」近年の民俗学の頽廃ぶりをなげいたのは、ちいさな学問の城に閉じこもろうとするみみっちい学者根性にがまんがならなかったからである。
 しかし、国男にはもう時間が残されていなかった。ふるさとの山川が脳裏に浮かんできたのは、そのときである。

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