SSブログ

椎葉村へ [柳田国男の昭和]

《第216回》
資料142.jpg
 ひとつの伝説がある。
 それは法制局参事官(兼宮内省書記官)の柳田国男が、1908年(明治41)の5月から8月にかけて、九州を視察し、その際、偶然にも日向奈須、すなわち宮崎県椎葉村(しいばそん)を発見したというものだ。この偶然の出会いが日本民俗学の記念碑的作品『後狩詞記(のちのかりことばのき)』を生んだことになっている。
 国男自身も、椎葉村にはいったのは偶然であったかのように装っている。『柳田国男伝』にも「長い講演旅行も終わりに近づいたころ……熊本で聞いた山里への思いがつのり、ついにその山村に入る決意を固めた」とある。
 かつて奈須と呼ばれた椎葉村は、人の立ち入ることのむずかしい、平家伝説の山里だった。この奥山に逃げこんだ平家の残党を那須与一の弟、大八郎が追討したものの、ここで暮らしていた平家の娘と恋におちいり、子孫を残したといういわれがある。奈須という地名は那須一族に由来するが、同時にここは平家の地でもあったとされる。
 奈須が椎葉村と呼ばれるようなったのは、明治の市町村制以降である。その広さは東京23区の面積に匹敵する。
『柳田国男伝』によると、国男は熊本で会った広瀬という弁護士からこの村の話を聞き、さらに人吉の温泉でも椎葉村のことを耳にし、加えて宮崎県知事からもこの村の「奇習」、焼畑農法の説明を受けて、居ても立ってもいられなくなり、この村を訪れたとされる。
 国男が椎葉村に到着するのは7月13日のことだ。富高(現日向市)から乗り合い馬車を乗り継ぎ、手前の南郷村で1泊。そこから徒歩で笹の峠を越えた。
 峠では、法制局参事官来るという電報を受け取っていた椎葉村長の中瀬淳ら村の主立った面々が羽織袴姿で待ちかまえていた。そこに登ってきたのは、いかにも中央の官僚というのではなく、「紋付に仙台平の袴をはき、白足袋姿の貴公子」然とした若者だったので、だれもが度肝を抜かれたと、のちに椎葉村を訪れた宮本常一に中瀬は話している。
 刺し子のわらじ白足袋と草履は、峠越えが大好きな国男のいつに変わらぬ旅姿である。
 国男ははたして九州の旅の途中で、はじめて椎葉の存在を知り、この村に引きつけられたのだろうか。
 不慮の事故で若くして亡くなった江口司は、遺著『柳田國男を歩く』(現代書館、2008)のなかで、みずからも歩きながら、このときの九州旅行を丹念に再現し、椎葉行が偶然の産物ではなかったことを立証している。
 江口によれば、このとき国男に出された内務省の行政視察嘱託任務は「御用之有り、高知、熊本、鹿児島の3県へ出張を命ず」であって、宮崎は含まれていなかったという。ところが、国男は最初からどうやら椎葉行をもくろんでいた気配があるのだ。
 法制局参事官であると同時に宮内省書記官を兼任していた国男は、以前、内閣記録課に出向し、内閣文庫の本を読みあさっていたことがある。
 内閣文庫は江戸城の紅葉山文庫に保管されていた旧幕府の古書・古文書を中心に構成されていた。ちなみに現在は国立公文書館がこれを管理し、組織上、内閣文庫という名称はもはやなくなっている。
 この保管には明治政府も手を焼いていたにちがいない。ましてこの文庫に興味をもつのは、学者を別として、官僚ではごくわずかだったと思われる。国男はそのごくわずかの官僚に属していた。国男が宮内省書記官を兼任したのは、おそらく官僚にはめずらしい古典籍にたいする教養を買われたためだろう。
 膨大な内閣文庫を渉猟するうちに、国男は敬愛する貝原益軒の『諸州めぐり』をはじめとして、橘南谿(なんけい)の『西遊記』、古川古松軒(こしょうけん)の『西遊雑記』などを見つけ、それらを読みふけっていた。
 日向の奈須、すなわち椎葉村は、『西遊記』にも『西遊雑記』にも平家伝説の隠れ里、あるいは茶のおびただしくできる地として描かれていた。だが、そこはあまりの難路のため、江戸時代、南谿も古松軒も足を踏み入れることのできなかった山里だった。
 九州出張を命じられたとき、国男はひそかに椎葉村にはいる機会をねらっていたのではないか、と江口は想定する。表向きにはいえないことだが、そのためには何とか視察の名目を見つけなくてはならない。
 そのころ明治政府は各地に市町村是をつくるよう働きかけていた。村の場合は村是だが、これは村の実況をあきらかにし、将来展望を示すという、いわば村の努力目標だ。椎葉村についても、ひとつに、この村是を調査するという名目はじゅうぶんに成り立った。
 それから重要産物である茶の調査という名目も考えられた。茶は生糸と並んで、明治期の重要な輸出品である。焼畑跡地には山茶が自生するという話はつとに知られていた。有名な八女茶も、高級品は山で自生した茶を精製したものであり、農政官僚の国男は、椎葉の山茶を視察したいと願いでることもできた。
 最晩年の回想録『故郷七十年』でも、茶について、こんなふうに語っている。

〈筑後八女郡の黒木にあるお茶の試験所で扱っている茶は、全部山に野生したもので、栽培したものでないということのみならず、九州全体には、この野生の茶を今ものんでいるところが多いのである。(中略)
 通例、茶の歴史は支那から持ってきたというので、全部持ってきたというふうに考えられがちだが、そんなに全部を簡単に輸入できたとは思えない。日向の椎葉などでも、私が見たのは、山の全面に山茶が生え、それで土砂崩れを止めているところへ、翌年クヌギなどが少しずつ生えてくるらしい〉

 6月はじめ、国男は熊本県阿蘇郡宮地の阿蘇神社を訪れ、阿蘇家宝物の「下野(しもの)狩図」を見ている。この昔の狩りの光景を国男は単なる「有楽」や「生業」ではなく、「村々の祭礼」だと思い、大きな感銘を覚えた。そして、この狩りの絵を見たことが、ひと月後の椎葉村での経験と重なって、『後狩詞記』の序を導きだしてくるのである。
 各地での講演や視察の合間を縫って、6月なかば、国男は熊本市で弁護士の広瀬莞爾と会い、1875年(明治8)に五木村で起きた、いわゆる「焼畑訴訟」についての話を聴取した。この事件は焼畑の所有権をめぐる地主と小作の争いで、1885年にいちおう両者痛み分けのかたちで結審したものの、ここにも焼畑にからんで奈須(椎葉村)の話がでてきた。
 土地法制は国男にとっても把握しておかねばならない分野だったから、その面でも椎葉村の調査は必至となってきた。
 国男はまず五木村の「焼畑事件」を調査すると称して、人吉から五木村にはいり、そこから椎葉村に向かおうとした。しかし、梅雨時の悪天候にはばまれ、県境越えを断念せざるを得なかった。行き帰りに宿泊した人吉の鍋屋旅館では、椎葉の情報を集めるだけで、満足するほかなかった。「この奥の方に那須一族のものが平家を追いつめたあと、子孫を残して去ったところがある」という話である。
 こうして国男は心むすぼれるまま鹿児島に向かい、鹿児島報徳会で講演をしたあと、県内各地を回り、その途次、盟友国木田独歩の訃報に接した。都城では宮崎県知事の高岡直吉から、またも椎葉の焼畑の話を聞く。
 おそらく、この時点で国男は内務省や法制局に、さまざまな理由を挙げて、椎葉行のことを通達したにちがいない。農商務省山林局長に転ずることになった法制局の先輩、上山満之進が国男の行動を支持したことは容易に想像がつく。
 こうして国男はかねてから念願の椎葉村入りをようやく果たすことができたのである。
 これらのことが明らかになったのは、長年にわたる江口司の調査のおかげである。

nice!(3)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 3

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0