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始まりとしての『後狩詞記』 [柳田国男の昭和]

《第217回》
 1908年(明治41)7月13日から19日までの1週間、柳田国男は椎葉村の有力者宅を転々としながら、各地区を見て回った。どこに行くときも、村長の中瀬淳や郵便局長(次期村長)の黒木盛衛が同行して、村の状況について丁寧な説明をしたにちがいない。
 国男は椎葉村について、どのような印象をいだいたのだろう。翌年3月に村に伝承される狩りの作法をまとめた『後狩詞記』を自費出版することからみても、その感激はひとしおだったことがわかるし、雑誌「新潮」8月号に掲載された「夏」というエッセイでもこう記している。

〈[夏はたいてい旅行だが]昨年は九州の南部を歩いて暮らした。それは日向と肥後の国境で、非常な山の中であった。私の本意に適ったところで、愉快であった〉

 東京に戻ってからの講演会でも椎葉について語っている。
 たとえば、こんなふうに──

〈椎葉村で大字(おおあざ)有、または区有の土地を住民に割り当つる仕事は、組長というものがこれを行います。その割り当ての方法には、不文の規則があります。すなわち常畠、常田を多く所有し、家族の少ない家には、最少額3反歩の面積を割り当て、家貧しくして家族多き家には、最多額3町歩までを割り与えます。一体に人口の割合に土地がきわめて広いために自家の得る土地の面積は、ただその所要を満たせば足るので、その多きをむさぼるということは、この山村ではいっこうはやらぬのであります。……この共有地分割の結果を見ますと、この山村には、富の均分というがごとき社会主義の理想が実行せられたのであります。「ユートピア」の実現で、ひとつの奇跡であります。しかし実際住民は必ずしも高き理想に促されて、これを実施したのではありませぬ。まったく彼らの土地に対する思想が、平地における我々の思想と異なっておるため、何らの面倒もなく、かかる分割方法が行わるるのであります〉

 国男は臆面もなく、椎葉は社会主義の実現した「ユートピア」だと述べている。もちろん、これは額面どおり受け取るべきではなく、椎葉でももちろん広狭に差がある私有地が存在するのだが、共有地に関しては、できるだけ貧富の格差を解消するような扶助による土地分配がなされていたというのである。
 私有地の大部分も含めて、共有地では焼畑がおこなわれている。国男によれば、もともと畑とは火の田、すなわち焼畑であり、それは畠、つまり白い田である常畠とは区別されるべきものである。
 そして、近代化をめざす明治の官僚の通弊で、国男もまた焼畑を遅れた農法ととらえていたことをつけ加えておかねばならない。椎葉村を視察しても、焼畑が縄文時代以来の豊かな森と田を守る自然循環的な農法だとの認識が生まれることはついぞなかった。
「平地との交通の少ない結果、種々なる点において平地では見られぬ昔の生活のおもかげをとどめている」というのが椎葉村にたいする基本認識だったといえるだろう。国男はさらに、古代においてはこうした山地には「別種族」が住んでいたのではないかとまで想像を広げている。
 しかし、古代以来、江戸期や明治期においても平地とのあいだに交通がなかったわけではない。奈須(椎葉村)からは荷駄によって炭や茶が運ばれ、平地からは帰途に米やミソがはいってきた。そうした交易さえ確保されれば、山里は自給自足できたのである。焼畑にはヒエやソバが豊かに実り、川ではヤマメ、森ではイノシシをとることができた。都会人からみれば、そこには理想の別天地が広がっていた。
『後狩詞記(のちのかりことばのき)』というタイトルは、「群書類従」に収録される中世の典雅な鹿狩り作法の書『狩詞記』の現代版を意識して、国男によって名づけられた。ただし、ここで狩られるのはシカではなくイノシシであり、狩人は武士ではなく村人であり、得物も弓矢でなく鉄砲だった。
 その意味で、これは黄金時代ではなく「白銀時代」の狩りの記録にちがいないのだが、それをおおやけにする意義について、国男自身はこう考えていた。

〈しかるにこの書物の価値がそのために少しでも低くなると信ぜられぬ子細は、その中に列記する猪狩りの慣習がまさに現実に当代に行われていることである。自動車無線電信の文明と並行して、日本国の一地角に規則正しく発生する社会現象であるからである〉

 厳密にいうと、『後狩詞記』は国男自身の著というより、椎葉村長の中瀬淳が記したり話したりした内容を国男がまとめ、さらに大字大河内の椎葉徳蔵が所蔵する秘伝「狩之巻」を筆写したものを付録として収録したものである。国男がみずから書きおろしたのは「序」の部分にすぎない。
 しかし、その「序」を読むと、なぜかれが椎葉村に深い感動を覚えたかが伝わってくる。すでに述べたことと重なるところもあるが、少しダイジェストするかたちで、この山里の光景を、かれ自身のことばで、もう一度確認しておくことにしよう。

〈かくのごとき山中にあっては、木を伐っても炭を焼いても大なる価を得ることが出来ぬ。茶は天然の産物であるし、椎茸には将来の見込みがあるけれども、主たる生業はやはり焼畑の農業である。……以前は機を織る者が少なかった。常に国境の町に出でて古着を買って着たのである。牛馬は共に百年この方の輸入である。米もその前後より作ることを知ったが、ただわずかの人々が楽しみに作るばかりで、一村半月の糧にもなりかねるのである。米は食わぬならそれでもよし。もしいささかでも村の外の物がほしければ、その換代は必ず焼畑の産物である。……焼畑の土地は今もすべて共有である。……山におればかくまでも今に遠いものであろうか。思うに古今は直立するひとつの棒ではなくて、山地に向けてこれを横に寝かしたようなのが、我が国のさまである〉

 山国で島国の日本列島は南北に長いだけでなく、平地と山地の妙によって成り立っている。これまで国男は歴史を縦軸の棒として考えてきた。ところが、山里にはいれば、そこには「昔の生活のおもかげ」が残っている。国男はそのことに強くひかれた。「古今は直立するひとつの棒ではなくて、山地に向けてこれを横に寝かしたようなの」ではないかとの思いがつのった。その横に寝かしたような古今は、まもなく遠野へと、さらには沖縄へと広がっていくはずである。
「生きているいにしえ」と「再臨する古代」がおそらく柳田学と折口学をへだてる分岐点になるのだが、それはともかくとして、椎葉村で「生きているいにしえ」をみたことが、国男に強いインパクトを与えていた。それはひたすら近代化をめざす明治開化期官僚の思想と行動に矛盾をきたす性質のものではなかったか。そのいっぽうでは、近代化によって消滅しようとしているいにしえの風習を、いまのうちに記録しておかねばならないという思いが次第に高まっていった。
『後狩詞記』は椎葉村でおこなわれているイノシシ狩りの慣習と作法を、村人からの聞き書きと残された秘伝によって再現した物語である。全部詳しく紹介するわけにもいかないが、その狩りは、現代文に直すと、たとえばこんなふうにえがかれている。

《狩りは陰暦9月下旬[新暦では11月ごろ]に始まり、翌年2月[同3月か4月はじめ]に終わる。狩りの当日は、未明にトギリ(先遣隊)を出し、その報告によって、狩りぞろえをする。老練者の指示によって、それぞれがマブシ(要撃地点)につき、そのあと勢子(せこ)をカクラ(イノシシの隠れている場所)に放つ。オコゼ(魚のカサゴ)をもつ者は、その負い籠にこれを納めて出発する。
 マブシにいる者は、勢子が竹笛で合図するまでは、静粛を保ち、けっして話をしたりしてはならない。もし咳などがでそうなときは、路上に伏して音を出さぬようにすることだ。そしてイノシシが突き進んでくれば息をこらし、ほんの近くまで引きつけて、肺臓や心臓の部分をねらって、銃を放つ。
 タテニワ、ホエニワ、つまり犬がイノシシを囲んで戦いがはじまったときは、受け持ちのマブシを離れて、山の上のほうに回り、静かに近寄るようにする。万一仕損じるか、傷を負わせただけのときは、まだ銃の硝煙が立っているうちに、イノシシが突進してきて、人の股を切り、人が倒れれば腹を突いてくる。それゆえ、未熟練者は楯をもたないままイノシシに近づいてはならない。このとき、なお注意しなければならないのはハイジシ(這い猪)である。負傷したイノシシが怒りを含んだまま人や犬にあたろうとして、伏して仮死状態を装っているのだ。このとき不用意に近寄ると、イノシシは矢のごとく飛びかかり、オスイノシシならば牙で股をえぐり、メスイノシシなら肘でも首でも噛んでちぎろうとする。
 イノシシが倒れたときはヤマカラシ(短刀)を抜いてのどを刺し、次に灰払い(尻尾)を切り取る。灰払いを切り取るのは、いちばん最初に射倒した証拠とするためである。そのあとヤマカラシと耳とをひとつに束ね、次のような呪文を唱える》

 リアルだし、躍動感があり、狩りのおもしろさを伝えて、あまりある。
 だが、この狩りは遊びのため、あるいは商売のためにおこなわれたわけではない。焼畑を守るためには、ある程度イノシシを退治しなければならなかった。またイノシシの肉は村人にとっては貴重な蛋白源ともなったし、山の神からのありがたい贈り物でもあった。狩りは今日あることを神に感謝しつつ、厳粛に実施されたのである。
 国男は実際にイノシシ狩りを見たわけではなかったが、話を聞くだけでも心の昂ぶりを覚えたにちがいない。そうでなければ、のちのこの話をまとめて自費出版しようなどと思うはずもないからである。
 国男のなかで〈話す人〉〈教える人〉から〈聞く人〉〈教えられる人〉への転換が生じようとしていた。農政学は経国済民の学にちがいなかった。だが、政治的な思惑に翻弄される果てしない論争に、国男はうんざりしはじめていた。そんなとき「昔の生活のおもかげ」が残る山里で、村人から人の生き方や「古今」の流れを教えられたような気がしたのである。
 民族が滅びるのは、これまで綿々とつづいてきた生活の記憶、いわば広義の歴史がうしなわれるときではないか。多くの政治家や軍人、官僚が、国家の拡張を民族の存亡と結びつけていたのにたいし、国男は、民族の危機とは、実は生活の記憶が忘却されることではないかと思うようになる。
 柳田民俗学は明治末の危機感からはじまったのである。

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