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巫女考 [柳田国男の昭和]

《第226回》
 柳田国男が最晩年にいたって自己の歩みをふり返った『故郷七十年』という聞き書きにふれながら、かれのめざしてきたことを追体験しようとしている。
「柳田国男の昭和」というテーマからすれば、よけいなことかもしれない。しかし、長い人生の終わりにあたって追想される過去には、いまに伸びた芽があるいっぽう、途中で立ち枯れになった幹もあったはずである。その全体が柳田国男という森の全体をつくっている以上、われわれもまたかつて存在した可能性としての樹間に、しばし足をとどめてもよさそうである。
『故郷七十年』のなかで、国男はかつて心血をそそぎこんだ月刊誌「郷土研究」について、ほとんどといっていいくらいふれていない。「郷土研究」が発行されたのは1913年(大正2)3月から1917年3月にかけてである。このころ国男は貴族院書記官長となり、多忙な日々を送っていた。官舎での生活は、昼間は公務、夜間は執筆と雑誌編集に明け暮れていたのである。
 何がそんなに国男を突き動かしていたのだろう。このころの国男は、まるで水が堰を切ってあふれるように、猛烈な勢いで民俗への関心を広げていた。それはのちに結晶する柳田民俗学の分野には収まりきらない多彩な関心で、むしろ人類学的、民族学的視点さえ含んでいたといえるかもしれない。
 この雑誌には多くの人材が結集した。前に述べた南方熊楠をはじめとして、信州松本の胡桃沢勘内(くるみざわ・かんない)、のちに『花祭』を著す早川孝太郎、国学院講師となる折口信夫、栃木出身の異端の民俗学者、中山太郎などである。その周辺には『遠野物語』の佐々木喜善、アイヌ研究の金田一京助、スターリンの粛清によって悲劇の死を遂げるニコライ・ネフスキーなどの姿もみられる。
 国男はこうした逸材とともに切磋琢磨しながら、民俗の領域へ踏みこんでいくのだが、全部合わせると20近いペンネームを使い分けて、毎月64ページの雑誌の残った誌面を埋めていく作業は、ほとんど神業に近かったとえいるだろう。
 なかでも力を入れた論考としては「巫女考」や「毛坊主考」が挙げられる。ともにほぼ1年の連載で、かなりの分量にのぼる。いま、この曲がりくねった坂道を登るような論文を詳しく紹介するのは、いささか骨が折れる。細かく分析していけば、このふたつだけで新書1冊を要するだろう。
 そこで、ここでは赤坂憲雄の『漂泊の精神史』に依拠しながら、この論考の概要を示しておくことにする。国男がこの溶岩流にも似た、混沌に満ちた熱い論考を単行本に収録することがなかった理由も、そこからおぼろげに見えてくるはずである。
「巫女考」には何が書かれているか。
 まず、巫女の種類が大きくふたつにわけられる。ひとつは神社に付属して、例祭の行列に加わり、神前で鈴を振って歌舞を奏し、さらにさまざまな神事をおこなう、おなじみの神社ミコ。もうひとつは神や死者のことばをひとに伝える、ちょっと異様な雰囲気をただよわせる旅の口寄せミコである。
 国男自身のことばを引いておこう。それは子どものころ、実際に播州でみた光景から発している。

〈自分の生国播磨などでは、ミコと称する二種類の婦人がある。第一はやや大なる神社に付属してその旧境内に居住し、例祭の節は必ず神幸(しんこう)の行列に加わるのみならず、神前に鈴を振って歌舞を奏し、また湯立(ゆだて)の神事に関与するものである。いま一種のミコは、あるいはまたタタキミコとも口寄(くちよせ)ともいう、たいてい何村の住民であるかよくわからず、少なくも五里八里の遠方から来る旅行者である。この口寄というのは古い語で、その意味は隔絶して近づくべからざる神または人の言語を、眼前の巫女の口を介して聞くこと、すなわち託宣託言を聴かんと求むることであって、従ってその仲介を業とする女をも口寄というのである。現代のタタキミコも人に頼まれて不在者の口を寄せることは同様であるが、その寄る者は主としていわゆる生霊か死霊、すなわち生きている人または死んだ人間ばかりで、神がこの者に降ることは極めてまれなようである〉

「巫女考」での関心が、旅する口寄せミコに向けられていることはいうまでもない。村人から物もらいに等しいと軽蔑される存在だ。しかし、国男はこのふたつのミコが元をたどれば同じだと考えていた。人びとに神意を伝えるという点は変わらないからである(ちなみにクリント・イーストウッド監督の『ヒアアフター』をみれば、霊能者による口寄せが日本だけではなく西洋でもおこなわれていることがわかるだろう)。
 ミコとはもともと「御子」、すなわち神の血筋を受けた者である。赤坂によると、国男は人びとが毎年、神子や神主を、くじ引きや順番などによって選ぶのが古い信仰の慣例だと考えていたという。それが次第に固定されて、神主やミコの家筋がきまってくる。
 それではなぜ一部のミコは漂泊するのだろう。残念ながら国男は明解な結論をだしていない。こう書くだけである。

〈なぜ、そのように多数の巫女が、一所不住の旅に立出ることになったのか。彼ら[彼女ら]もしくは彼らの母、祖母、または曾祖母の本貫[出身地]はどこであったか。日本の国内かはたまた海外のいずれの地方かという大なる疑問については、自分はまだまだ一箇の仮定説を提出するだけにも大胆でありえない〉

 口寄せ巫女がどこを出身地とするかはわからないが、古来、土地とは無縁の漂泊民が男女をかぎらず数多くいたことを認めている。のちに否定されるものの、人類学の影響を強く受けていた国男は、当初こうした漂泊民を異民族ではないかとみていたきらいがある。空想のなかでしか見たことのない山神すなわち山人を、当初、異民族と考えていたのと同じである。
 山人が台湾の「蕃族」のような存在だとすれば、巫女や毛坊主は文字どおり異人種の「ジプシー」ではないかと思っていた。実際、国男は朝鮮半島からインドを出自とするジプシーが日本に渡ってきた痕跡を調べたこともある。だが、この説はすぐに否定される。
 気づいたのは、何はともあれムラという共同体から離れて、土地をもたぬまま各地をさすらう漂泊の民が無数にいたことである。そのなかで国男はとりわけ遊行する宗教集団に興味をもった。
 国男は口寄せミコのスタイルに注目している。旅の道具として、いちばんだいじなのは、本尊を収めた手箱だった。そこには宗像、八幡、熊野、白山、蔵王、諏訪、駒形といった、さまざまな神が収められており、彼女らは口寄せによって、神と人とを仲介する。巫女は村々に霊験あらたかな神を伝える運び人だったともいえる。
 巫女たちは吉凶を卜したり、託宣を伝えたり、荒ぶる神を祭ったり、親しい仏の降霊をしたりした。外からやってくるカミは、時に村に活気をもたらし、時に村を危機におとしいれた。そのカミを仲立ちしたり、なだめたりするのが、巫女の役割だったと思われる。
 そして、巫女たちは次第に漂泊から脱して、村境に定着し、現在も類似の地名が残る比丘尼屋敷や姥屋敷をつくるにいたった。そうした場所には神が降臨したとされる腰掛石や、神のヨリマシを祭る「頼政」の墓なども多く残っていると国男はさまざまな例を挙げて論証している。
「巫女考」で赤坂憲雄が注目しているのは、国男が巫女と遊女の関係に論及していることだ。「中世の社会においてもクグツの副業は売色で、遊女はまた一派の巫女であった」と国男は記しており、「これとても昔の社会道義によって寛容せられた、この輩相応の由緒ある業体[業態]である」とコメントしている。
 それ以上、具体的な論証はなされていない。だが、論点としては魅力的である。「遊女はまた一派の巫女である」──ここからは漂泊しつづける女たちの隠された歴史が浮かび上がってくる気配さえただよう。
「巫女考」の論述は、のちに『妹の力』にも引きつがれていく。だが、そこでは漂泊する口寄せ巫女や遊女の論点は深められることなく、どちらかといえば希薄になっている。そして「巫女考」は「毛坊主考」と同様、単行本に収められることはなく、死後「定本」や「全集」に収録されるまで公刊されることはなかった。
 おそらく国男は巫女と遊女を同列視することが神社界を刺激し、大きな反発を買うことを恐れていたのだろう。もうひとつの恐れがあったとすれば、それは国男がひそかに巫祝と天皇のつながりを連想して、暮夜、身震いしたことと関係しているのではあるまいか。断念の向こうには、もうひとつの宇宙が隠されていた。

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