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毛坊主考 [柳田国男の昭和]

《第227回》
「毛坊主考」をみることにしよう。
 毛坊主とは何か。文字から想像されるように、毛のある坊主で、妻帯者であることが多い。浄土真宗(一向宗)の僧侶を思い浮かべるかもしれないが、厳密にいうとそうではない。僧侶の資格をもっていないが、僧のいない村において仏事をおこなう俗人をさすといえばよいだろうか。これらの人びとの地所は本願寺の末寺としてあつかわれることもあったが、それはむしろあとから与えられた称号というものだろう。
 そんな毛坊主と国男は旅先の飛騨白川村で出会っている。

〈路傍の小家の縁に腰掛けて、雨に濡れてわびしい弁当を食べながら、ふと薄暗い座敷の中をのぞくと、この家不相応に大きな仏壇がきらりと光っている。「このへんは真宗の盛んなところだと聞いたが、なるほどそうだ」と言うと、道連れの越中の人が、「おまけにこの家はお寺です、上をご覧なさい」という。いままで気がつかなかったが、縁側の天井にはまさしく径七八寸[30センチ足らず]の釣鐘が釣ってある。それから住職もそこに働いていた。万筋(まんすじ[色ちがいの細い縦縞])の単物(ひとえもの[着物])か何かで、雨の中をどこかへ厩肥(うまやごえ、きゅうひ)を運んでいる。根っから愛想のない男だ。そして少しも坊主らしくない。頭にはわれわれよりも長い毛がはえている。自分は「ははあ、これが例の毛坊主だな」と思った。しかし、その想像はあたっていたかどうか、いまもってわからない〉

 旅先でのこうした出会いに刺激を受けながら、国男は毛坊主について、さらに深い根源を求めようとしていた。毛坊主が真宗の教えによってはじめて発生したとは信じていない。それはむしろ仏教以前の「ヒジリ」にさかのぼるはずだと考えていた。
 国男によれば、ヒジリとは「聖」の漢字をあてるにせよ、そもそもは日知、すなわち日を知る人である。その職掌は、日の善悪を示すだけではなく、「日の性質を熟知して、これに相応する行動をとり、または巫術(ふじゅつ)祈祷をもって日の性質を変更すること」だったという。
 そのヒジリが毛坊主という多少いかがわしい存在に零落していくのは、なぜか。赤坂憲雄は「聖」の連想から、「毛坊主と天皇は一枚の起源の風景からの岐(わか)れであることを、柳田の眼差しはこのとき深く捉えていたのではなかったか」と問題を投げかけているが、国男はさすがに毛坊主と天皇を並べるという大胆な発想はとらなかった。とはいえ、ヒジリに「聖」ではなく「被慈利」や「非事吏」といった字があてられるとき、すでにヒジリは乞食坊主へ変貌を遂げていたのは事実だった。
 中世にヒジリとなったのは、空也や一遍(時宗)の遊行派である。かれらは各地をまわり、念仏の功徳によって、亡霊を導き、浄土に安堵させた。それによって御霊に悩まされる村の災厄を救ったのである。
 そのパフォーマンスはやがて「鉦(かね)打ち」や「鉦叩き」と呼ばれる毛坊主の系譜を生んでいくことになる。かれらはまた「実盛(さねもり)」と呼ばれる虫送りにも従事した。わら人形に稲の害虫の霊をとじこめ、鉦太鼓を叩き、大声で唱えごとをしながら、それを村はずれまで送っていくという行事である。
 赤坂は、それらの人形は「邑落の民すべてを代表し、一同がこうむるべき災難を一身にひき受ける形代(かたしろ)」だったと説明している。虫送りから国男が津軽のネブタや各地の精霊流しを連想していくのは筋がとおっている。
 しかし、仏教以前にこだわる国男は、時宗などの遊行僧以前に、鉦や太鼓を叩いて神送りをする儀礼の原型があったはずだと推測する。阿弥陀ヒジリはそれらを取り入れただけである。こうして国男はヒジリの根源を求めて、阿弥陀ヒジリ以前のヒジリがなかったかどうかを探っていくのだ。
 東の鉦打ちにたいして、西には鉢叩きというヒジリがいる。どちらかといえば空也の一派からなり、有髪・妻帯で、茶筅などを売って生計を立てていた。鉢ではなく、実際には瓢箪(ひょうたん)を叩き、夜、大声で念仏して町中を回り歩く。鹿のツノを取りつけたワサヅノと呼ばれる杖をもっている。だから、これも遊行のヒジリである。世間の待遇は冷ややかだった。
 かれらがハチ屋と呼ばれるのは、町や村のはし、すなわち境に住んでいたからだ、と国男は断言する。かれらはまた御坊(おんぼう、隠亡)、茶筅、ササラ、説教とも呼ばれた。職掌として死穢(しえ)にからんでいたことはいうまでもない。
 別に夙(しゅく)と呼ばれる系譜もある。シュクは守戸(しゅこ)、すなわち墓守に由来する呼称ではない。かれらを特殊人種とみなすべきではないというのが国男の考え方である。シュクとは宿であり、夙の者はりっぱな毛坊主だった。谷の者、山の者、坂の者、河原の者と同列の境界民だと国男は位置づけている。ここでもまた土地をもたずに旅をし、共同体の境に定着する漂泊の民への視線が感じられる。
 それにしても国男の考察は、はっきりと被差別部落の聖性に向けられている。夙の者は特殊人種ではなく、ヒジリの別れなのだというのが国男の考え方だといってよい。そのヒジリの頂点には、表立って口には出せないながら、ヒジリノミカドが鎮座ましましていた。
 この想像は国男を震撼させたにちがいない。物語はこのあたりで封印されなければならなかった。結論ではこう述べている。

〈自分は毛坊主の前身がヒジリであることを述べた。いまも毛坊主をヒジリと呼ぶのは単に前代の称呼を慰留したまでで、ヒジリという語は仏教と何ら縁故のないらしいことを述べた。おことわりするまでもなくヒジリ毛坊主の団体へは新加入者が続々あった。従っていまの毛坊主は大昔のヒジリの子孫だとは限らない。団体としての系統はたどることができるが、これから推して血の系統を説くことはもちろん不能である。ただ自分が主張するのは、ヒジリが仏法を利用して毛坊主となったので、仏法の普及が新たにかくのごとき階級を作ったのではないということだ〉

 想像に振りまわされている感もある。さらに事実にもとづく検証が必要だろう。とはいえ、回りくどい言い方ながら、国男がヒジリとは漂泊する宗教者につけられた名前であって、仏法は単にその生計に利用されただけと主張していることがはっきりと読み取れる。毛坊主の一派が自分たちの先祖を貴種、あるいは高貴の女性としているのにたいし、国男が血の系統を説くことは不可能だと、きっぱり否定している点にも注目すべきだろう。
 国男が「巫女考」と同じく、この論考の単行本化を差し控えたのは、毛坊主が口寄せ巫女と同様、被差別部落の根源にかかわっていることを知っていたからである。だが、それだけではあるまい。ヒジリということばから想像の翼を広げるにつれて、国男はあまりにも奔放な連想をいだく自分をみつけて、思わずおののいたのではないだろうか。
 それはともかく、この時期、まだ不定形でしかない柳田民俗学が、猛烈なエネルギーで「ビッグバン」を起こしたようにみえるのはなぜだろう。国男は南方熊楠にたいして、「小生の専門はルーラル・エコノミーであり、民俗学は余分の道楽にすぎません」と述べていた。しかし、実情はルーラル・エコノミーとしての農政学が挫折に追いこまれて、民俗学への移行に活路を見いだそうとしていたのだと思われる。
 その民俗学は好事家風のフォークロアではありえなかった。国男の出発点となったのは、村落そのものの民俗ではなく、むしろ村落から冷眼視され、時に恐れられている周縁の存在への関心だった。
 国男はみずからも官僚でありながら、国家が民衆を国家の枠組みに押しこもうとする統治者の発想に抵抗をおぼえていた。国民なくして国家はありえないと考えていた。自立した公民をつくること、歴史と伝統にはぐくまれた国民を育成することが、官僚としてのこころざしだったといえる。そのためにはいわれない差別を受ける人びとが存在してはならなかった。
 たとえ統治機構としての国が保てたとしても、国民の内実をともなわなければ、〈くに〉の存続はありえない。国男はそう思っていたはずである。そういう情熱が、かれを独特の学風へと駆り立てていた。
 周縁にこそ中心がある。その政治理念がやがて思想理念へと転じていくときに、柳田民俗学の渦巻きが発生するとみるのは、うがちすぎだろうか。

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