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日食、そして麻田剛立のこと [雑記]

5月21日は船橋の自宅からも日食を観測することができました。
つれあいがその写真を何枚かとっていたので、おそまきながら、それを公開することにしましょう。
朝7時すぎ、くもっているとはいえ空から時折太陽の光が雲のあいだから降りそそぎます。日食グラスを通してとった写真がこの1枚です。
DSCN4151小.jpg
ところが、そのあと残念なことに、すっかりくもってしまい、きょうはだめかとあきらめた瞬間、何と雲をとおして金環食が見えたのです。
実に幻想的な日食でした。それがこの3枚。日食グラスでは見られません。直接撮影しました。
DSCN4175小.jpegDSCN4180小.jpegDSCN4199小.jpeg
そのあと、また日が差してきたので、もう一度最後に日食グラスを通しての撮影。
DSCN4212小.jpeg
何だかもうかった気分がしました。
日食グラスで見た太陽の印象は、意外とちいさいんだなというものでした。これが空にのぼって、すみずみまで地を照らすのが不思議な気がしました。
すごいことだなとも思いました。
太陽のなぞですね。
ふと江戸中期の天文暦学者、麻田剛立(ごうりゅう)のことを思いだしました。
剛立は豊後(大分県)の杵築に儒者、綾部絅齋(けいさい)の子として生まれ、のち脱藩し、大坂に先事館という私塾を開きます。三浦梅園と親しかったのは、梅園が父の弟子だったからです。
最近は日食観察というと、もっぱら沖方丁の『天地明察』の主人公、渋川春海が話題になりますが、剛立より百年ほど前の春海は、日食を予想したものの、みごとはずしています(すみません、まだ本は読んでいません)。
ところが天明6年(1786)元旦[新暦では1月30日]に日食が起こることを、麻田剛立は8年前から予測していました。
この予測はぴたりと当たります(もっともそれから100年たっていますからね)。
当時の官暦は、京都の土御門家が選定にあたっていました。さすがに江戸後期ともなると、古来の暦法を順守するだけではなく、新しい天文知識も取り入れられるようになっています。
その土御門家が前年になって、ようやく天明6年元旦に皆既日食が起こると託宣を下したのです。日食をはずしたとならば、土御門家の威信にかかわりますからね。
もちろん日食が見られる地域には一定の幅があります。そして、たしかにこの日、尾鷲では昼ごろ、1秒だけ金環食になったとの記録が残っています。
ところが、剛立は土御門家の託宣に早くから反論していました。元旦は皆既ではなく、0.98の食にしかならない、と。
もちろん正しかったのは剛立のほうです。土御門家はまたも惨敗。
こうして剛立は、江戸時代後半を代表する天文暦学者として幕府にも認められることになります。
ただし剛立は改暦をめざしている幕府の召し出しには応じませんでした。代わりに幕府の開設する浅草天文台の所長として、愛弟子の高橋至時(よしとき)を江戸に送ります。
伊能忠敬が至時に弟子入りをすることはよく知られていますね。ですから忠敬は麻田剛立の孫弟子ということになります(大坂を訪れたとき、剛立の墓に詣でています)。
麻田剛立のもうひとりの弟子が山片蟠桃です。この人について知りたい方はぼくのウェブ「海神歴史文学館」をご覧いただければ幸いです。
剛立を支えていたのが、たえまない観察だったことがわかります。
かれは月のクレーターを望遠鏡で観察したはじめての日本人でした。
当時の幕府の公式論は天動説ですが、剛立はもちろん早くから地動説を唱え、ケプラーの第3法則とほぼ同じ法則を発見していました。
日食と東京スカイツリーも似合いますが、江戸時代に麻田剛立というすごい人がいたことを思い起こすのもわるくないでしょう。

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