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ニライカナイの発見 [柳田国男の昭和]

《第242回》
 新聞連載「海南小記」につづられた沖縄での旅程を、ことこまかに追うのはやめておきたい。それだけで1冊の本になってしまいそうだからである。とはいえ重要なのは、実質ひと月ほどの、たった一度の訪問が、柳田国男に一生忘れられない沖縄の記憶を刻みつけたことである。
 いま読み返しても、「海南小記」の文体は、どこをとってもみごとなほど美しく、しかもその底に痛切きわまりない哀調を帯びている。たとえば、いよいよ石垣島から沖縄本島に戻る日のことをつづった一節の冒頭を挙げてみただけでも、その雰囲気はじゅうぶん伝わってくる。

〈南々といっているうちに、もう引き返すべき汽船が入ってきた。石垣の端舟は帆ばかりが力で、ただ湾内を左右にまぎっていく。その間に見送りに出てくれた岸の人は、ひとりずつ帰ってしまい、海を曇らしむる雲の影ばかり、次第に多くなってくる。晴れて水底に日の光のさし込む朝ならば、蒼白い砂地のところどころに、深緑の珊瑚岩が二尋(ふたひろ[4メートル近く])ぐらいまでは覗(のぞ)かれるのだが、きょうは一円にただ淋しい灰色である。昔[1771年]の大津波[推定30メートル]の日の旱天(かんてん)には、やや強い地震があって潮は遠く退き去り、五彩の光眩(まばゆ)きこの海底の秘富が、ことごとく白日のもとに露われたということだが、いまはそれも喚(よ)び覚ましがたい夢のように感じられる〉

 天候と風景と人情と歴史がないまぜになって、読者の想像力を刺激し、旅愁をかきたててやまない。それが一幅の絵、あるいは映画のように瞬時に光景を浮かび上がらせる「海南小記」の文体の魔術だった。その全篇に貫かれているのは沖縄への哀切な思いであり、その思いは南へ南へとくだるにつれて、いちだんと深まっていた。
 とはいえ、ここに描かれていた光景は、突然の破局が訪れる直前の凄絶な美にはちがいない。1771年4月に石垣島を推定30メートルとも85メートルともいわれる大津波が襲い、住民の3分の1が死亡するできごとが発生している。いまにも雨が降りそうな曇り空の下、船に移るはしけで、暗い海を見ながら、国男は津波のくる直前の光景を想像する。潮が引いて、環礁の底が露呈し、いろとりどりのサンゴが日に照らされて、この世とも思えぬ美しさを現出するのだ。こうしたあやうい感性は国男独特のものだといってよい。
 旅の記述は相前後して、ほんとうは最後にもう一度立ち寄った奄美が、むしろ先に記録されているが、奄美の旅では石垣までおよんだ旅の印象が逆照射されているかのようである。それは琉球の心象を、最後にもう一度刻んでおきたいという心の動きを示していたのかもしれない。早くから薩摩への直属を強いられるたにせよ、奄美には唄や踊りひとつをとっても、琉球の文化が色濃く残っていたからである。

  いちゅび山のぼて
  いちゅび持ちくれちよ
  あだん山登て
  あだん持ちくれちよ

 いちゅびはイチゴのこと、あだんは阿壇(アダン)、食べられたものではないがパイナップルのような実ができる。一見のんびりした歌詞からは、のどかな野遊びの光景さえ浮かび上がる。だが、国男はこの唄の背景に、この世の地獄を感じとった。

〈名瀬の近くの作大能とかいうところでも、ある時の飢饉に男女山にはいり、イチゴやアダンの実を採って食い尽くし、野山にはもう何も食う物がなくなって、数十人の者がアダンの木に首をくくって死んだ。それから以後は毎月、その月ごろになると、亡霊が出てきて何ともいわれぬいやな声で唄を歌ったといって、その唄がいくつも伝わっているのである〉

 そのひとつが、いちゅび山の唄である。だが、これはおそらく国男のいうように亡霊の唄ではなく、飢饉で亡くなった人をなぐさめる島唄だったにちがいない。それでなければ、とても救われない。

 沖縄で国男は多くの人に会い、多くの書物に目を通した。本島では国頭(くにがみ)と島尻を歩き、それから船に乗って、短時間、宮古島に立ち寄り、石垣島で数日をすごした。
「海南小記」では、伝説と接合した琉球の歴史に多くのページが割かれている。しかし、何よりも思いを寄せたのは、人びとの質朴な生活ぶりと深い信仰にたいしてである。国男はそこに日本では失われかけている民衆生活の原風景を感じとっていた。
 北山、中山、南山にわかれた三山時代(14世紀はじめから15世紀はじめ)、今帰仁(なきじん)に城を構えた北山王のこと、1429年に三山を統一し、琉球王国を建てた中山王の尚巴志王(しょうはしおう)のこと、護佐丸・阿麻和利の乱と第一尚氏時代の最後の王で久高島伝説で知られる尚徳王のこと、1462年にクーデターによって政権を掌握し、第二尚氏時代を開いた金丸、すなわち尚円王のこと、石垣島で発生したオヤケアカハチ(赤蜂)のこと(国男は赤蜂を「八重山の愛国者」と見ている)、アカハチの乱を1500年に平定し、八重山全域を王国に服属させた尚真王のこと、1609年の薩摩藩侵攻とその後の属領化、1734年に33歳で処刑される悲劇の才人、平敷屋朝敏(へしきや・ちょうびん)のこと、1879年の沖縄県設置(いわゆる琉球処分)のことなども、さりげなく折りこまれている。新聞連載「海南小記」は、おそらく沖縄ガイドとしても、当時、出色の読み物として受けとめられたのではないだろうか。
 国男はけっして沖縄をユートピアの地として描いているわけではない。むしろ、そこでの人びとの生活、とりわけ女の労苦は並大抵ではないとくり返し強調している。
 たとえば、こんな箇所がある。

〈沖縄の芭蕉布だけは、みずから織って着る者が多いが、北では奄美大島の絣(かすり)の袖、南は先島の紺白の上布などは、ほとんとみな、よその晴着となってしまうのが、昔からの習わしであった。島の女に布を織らしめる制度は、もちろん近世の発明ではないが、その発達の跡を尋ねてみると、いまもやるせない記念が残っている。
(中略)
 ……島の人がただ黙って忍んでいる辛労はいくつかある。島の布の価は織ってしまってもまだきまらぬ。商人の知らせてくる相場がどんなでも、そんなに廉(やす)くては売らぬということは今日でもできぬ。布を売って買わねばならぬ物が多いからである。粟(アワ)の耕作は減じ、米ははじめから少ないゆえに、飲むとすれば泡盛なども買わねばならぬ。宮古諸島は人口が5万人で毎年1万個の酒甕が輸入せられる。これだけの泡盛を父や夫に飲ませねばならぬ〉

 年若いころから老いるまで機織りをしなければならない、島の女たちの苦労がしのばれる。
 国男が実際にくらしを支える女たちに関心を寄せていたことはいうまでもないが、それ以上にひかれたのが、ノロやユタと呼ばれる巫女(ふじょ)たちの存在だった。ノロは琉球王国時代、聞得大君(きこえのおおきみ)の配下に属していた公認の祝女、ユタは民間で託宣や祈願をおこなう、いわば在野の巫女である。その範囲は奄美大島から先島までおよんでいた。
 国男がどこを訪れても斎場や御嶽(うたき)を回ったのは、ノロやユタと出会いたかったからである。
 ノロはかならず血筋の者が相続するが、嫁に行くから家は次々に移る、と国男は書いている。ユタは物知りであって、神仏の力によって、ふつうの人には見えない者を見ることができたという。ただし、青年たちのあいだでは、その予言と啓示は次第に信じられなくなっていた。

 さまざまな伝説や昔話を収集するなかで、国男はそれが地元の生活に密着しながらも沖縄単独のものではなく、日本の民間伝承と接合していることに気づく。
 たとえば「炭焼長者伝説」。これはマヌケな夫が、賢い妻のアドバイスで黄金を発見し、金持ちになる話である。火の神の信仰や、鋳金の起源とも重なる一種の黄金伝説なのにちがいない。
 この伝説は、かたちを変えながら、北の果てから沖縄の宮古島まで広がっていた。国男は各地に残るその物語の構造を分析しながら、こういう結論を導く。「善い妻と悪い夫の単純な物語は、ここから発生して同じ民族の行くかぎり、野の果て、島の果てまでも、火をたくたびにくり返されたものではないか」
 さらに国男は、石垣島の宮良の村で、アカマタ・クロマタの二神を発見して、心震わせた。この神は毎年6月の穂利祭(プーリィ、豊年祭)のときに、夜半、崖の岩屋から村にやってきて、夜明けに帰っていく。
 こう書いている。

〈宮良の人びとは神の名を呼ぶことをはばかって、単にこれをニイルビトといっている。それを赤と黒の二色の人ということであるというが、ニイルはすなわち常世の国のことだから、これも遠くより来る神の意であろう。……[その装束は旧家の主人が預かっているのだが]実際、新宮良[津波のあと新たにつくられた宮良]の住民は、祭の日には人が神になることをよく知りつつ、しかも人が神に扮するということは知らぬようである。
 ……絶海の小島は幸せであった。都鄙の区別を教える講師も国司もいなかったゆえに、永く神の御幸(みゆき)の昔の悦ばしさを味わうことができた。そうして、その神はまた見知らぬ海原から、天に続いた地平線の向こうから、やすやすとその小舟を島の渚には漕ぎ寄せることを得たのである〉

 国男はついにニライカナイとそこからやってくる神々を発見したのだといってよい。沖縄は忘れられない地となり、その記憶は心に深く刻まれた。そして、それ以降、沖縄は国男の果てしない探究において、つねに真実を照らす合わせ鏡に似た役割をはたすようになるのである。

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