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カイロ市内──15日間エジプト・トルコツアー(4) [旅]

2日目 2012年6月14日(木)

バスは旧市街から新市街に向かっています。
車が動いているので、写真がうまくとれません。
シャッターを押したと思ったら、このありさま。
DSCN6039.JPG
窓ガラスに自分が映りこんでしまっています。
でも、何をとろうとしたかは歴然としています。
それは町中に貼られている選挙ポスター。
よくみると、それは今回大統領に当選したムルシのポスターです。旧市街では、このポスターが目立っていました。
エジプトが大きく変わろうとしているときに、やってきたということを実感しました。
エジプトは激動する中東の国ぐにに属しています。この地域がこれからどうなっていくかは世界の大問題なのですが、どうもわれわれにはピンとこないところがあります。それはこの地域が、地理的にというより、文化的に、日本から遠いと感じられているからではないでしょうか。
旅行社から配布されたパンフレットをみると、エジプトの歴史が日本のように一本調子ではなく、実に重層的かつ断続的であることに気づかされます。
それは大きく分けて、

古代王朝時代(紀元前2686年〜紀元前305年)
ローマ帝国時代(紀元前305年〜紀元641年)
イスラム帝国時代(641年〜1805年)
中東時代=近現代(1805年〜現在)

とでもなりましょうか。
日本人は古代好きですから、いちばん興味をもつのは、やはりピラミッド、スフィンクス、ミイラ、ツタンカーメンの黄金のマスクといったあたりでしょうか。ツアーの見どころも、さすがにそのあたりはずしていません。
それをのぞけば、どうも日本人はあまりエジプトに興味をもっていないのではないかと思われるくらいです。アニメなどの千一夜物語(アラビアンナイト)も、イメージはカイロというより古きよきバグダードが舞台ですよね。
エジプトはいまでも遠い国。どうしてでしょうね。
それはおそらく、日本が目覚めはじめたころから、エジプトがイスラム世界に属していたからではないでしょうか。
仏教と儒教、それにキリスト教は日本とも縁が深い。ところがイスラムとなると、なんだかわけのわからない、ときに怖い感じのする宗教だとさえ思ってしまいます。
会社に勤めていたころ、ぼくは曲がりなりに出版の仕事をしていて、もうかりそうもない全3巻の『イスラームの歴史』という本を出して、例によって上の方からにらまれたことがあります。まあ、そんなことはへっちゃらだったのですが、この本をつくるときに、いちばん困ったのは、実感としてイスラムのことがよくわからないということでした。
この本に興味のある方は、松岡正剛さんが「千夜千冊」のなかで紹介されていますので、ご覧ください。
http://1000ya.isis.ne.jp/1397.html
それはともかく、ぼくがいちばん驚くのは、アラビアのマディーナ(メディナ)を拠点としたムハンマド(マホメット)が632年に亡くなって30年もしないあいだにイスラム帝国の版図があっというまに広がったことですね。さらに、それから100年、その領域は北アフリカからイベリア半島まで拡大することになります。
資料180.jpg
日本ではこうしたイスラム帝国の急速な拡大を、コーランか剣かといった標語で説明することが多いようです。つまりコーランを受け入れなければ殺すぞというわけです。
これはイスラムに対する大いなる誤解だと思われます。もちろん、そういう過激派もいないわけではありませんが、それはごく少数派。
むしろ事態は逆なのではないでしょうか。
ムハンマドが教えたのは宗教というより、人の生き方、つまり神のもとで人がどう生きていけばよいのかという教えだったのかもしれません。
そうした生き方をしようとした人びとが生活共同体をつくり、それをつぶそうとする勢力とたたかいながら、自分たちの生き方を、悪しき政治におしひしがれる人びとのあいだに拡大しようとした、その結果がイスラム帝国の出現につながったのでしょう。
イスラムの教えは、当時、それほど魅力的と感じられていたようです。
『イスラームの歴史』にも、こういう箇所があります。

〈初期のムスリムの拡大で重要なのは宗教運動としての側面だが、そこでは国家の存在が重要な役割を果たしていた。カリフ[ムハンマド亡きあとの指導者]やその配下の者たちは当然のことながら、神の唯一性を認め、差し迫った最後の審判の日にそなえて正しく生きることが必要だというムハンマドの教えを信じ、ジハードと呼ばれる武力闘争を通じて悪と戦い、一神論と正義についてのムハンマドの教えをあまねく広めることが使命だと考えていた。だが、彼らの目的は征服地の住民を公正な秩序に従わせることであって、改宗させることではなかったようだ。少なくとも、すでにキリスト教やユダヤ教などの一神教を信じている場合は改宗を迫ることはなかった〉

さて、エジプトはすでに641年にイスラム帝国の版図にはいっています。
エジプトはナイルのたまものといわれますが、たしかにナイル川流域が重要な穀倉地帯だったことはいうまでもないでしょう。
しかし、地図をみればあきらかなように、エジプトの重要さは、紅海と地中海に囲まれていることにあります。つまりエジプトは、アジアとヨーロッパを海で結ぶ通行路にあったわけです。アラビア人がこの地を手にいれようとしたのは、とうぜんでしょう。
当時、エジプトの経済を握っていたのはユダヤ人です。ナイル川河口で、地中海沿いのアレクサンドリアは重要な貿易拠点ですが、少し内陸にはいったフスタートという町もナイル川を通じて集まる物品の重要な集積地となっていました。
その物品のなかには豊かな穀物のほか、スーダンの金、パピルスなども含まれていたでしょう。そうしたフスタートの交易を担っていたのが、ユダヤ人であったり、ギリシャ正教とは異なるコプト派と呼ばれるキリスト教徒であったりで、このフスタートが現在のオールド・カイロとなるわけです。
イスラム帝国はその後、内部抗争に明け暮れ、新たな王朝が次々と生まれますが、イスラムという生活基盤は変わりませんでした。ただし、スンナ派とかシーア派とかの宗派争いはつづき、それが王朝の変遷とからんでくるのですが、その経緯はあまりにもややこしく、頭がこんがらがってくるから、あまり深入りしないのが無難です。
とはいえ、エジプトは大きく言ってイスラム帝国時代、その支配者がウマイヤ朝、アッバース朝、ファーティマ朝、アイユーブ朝、マムルーク朝とめまぐるしく代わり、近世にはいってオスマン帝国時代を迎えるわけですね。
そうそう、『イスラームの歴史』のなかにアイユーブ朝の創始者、サラディンのつくったシタデルの写真が出ていましたので、それをコピーしておきましょう。
資料181.jpg
丘の上にあるモスクは、前に紹介したように、のちにムハンマド・アリによってつくられたものですね。なかなかりっぱです。
ツアーのバスは、イスラム帝国時代、オスマン帝国時代に栄えた旧市街を抜けて、新市街にはいっていきます。
DSC_0079.jpeg
このあたりモダンな建物が増えてきますね。
そして、アラブの春の舞台となったタハリール広場。つれあいがすばやくカメラのシャッターを押しました。
DSC_0080.jpeg
いま見ると、その先に考古学博物館と焼け焦げた国民民主党(NDP)本部ビルが写っています。
ほかに仕事もあり、書いておきたいことも多いので、なかなかこのブログ進みませんね。ご容赦のほど。
そうそうエジプトのノーベル賞作家、ナギーブ・マフフーズの『シェヘラザードの憂鬱』(塙治夫訳、河出書房新社)はおすすめですよ。日本語版のタイトルは感心しませんが、要するに千一夜が明けたあとのお話です。
資料182.jpg
シェヘラザードのおかげで、スルタンの気鬱と凶暴は収まったものの、町ではイフリートと呼ばれる妖霊が人びとをまどわし、騒動は広がるいっぽうです。イフリートは大商人をそそのかして腐敗した地区総督を殺させたかと思うと、妖艶な美女に化けて、喫茶店につどう男たちをたぶらかし、破滅に追いこんだりします。
地区総督は代わるたびに暗殺されたり解任されたり、警察長官も同様で、町はいったいどうなるのやら。これは王朝時代の話というより、まさに現代のエジプトを描いた寓話ですね。
人名の表をつくらないと、わけがわからなくなってきますが、ともかくめちゃくちゃおもしろい話です。死んだはずの警察長官が荷担ぎに乗り移って、大活躍したりもします。
ひまがあったら読んでみてください。
そんなわけで、あっちこっち飛びながら、この旅行記のんびりとつづきます。

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