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柳田国男のジュネーブ国連報告(3)[最終回] [柳田国男の昭和]

   Ⅴ

 西サモア諸島では、地域住民代表を任じている相当数の原住民が、少し前に自治運動をはじめました。ごくわずかですが、その動向についての情報があります。
 新時代に属するいくつかの政治用語が、こうした遠い島々まで行き渡っているのは、そんなに悪い徴候ではありません。こうした用語はいつでも無頓着に用いられていますが、それでも原住民の希望する方向には沿っているのです。
 とはいえ、原住民に与えられた過度の政治的自由が、どのような結果をもたらすのかについては、考えないわけにはいきません。現段階においては、無知な住民大衆が、ごく少数の開明的な原住民によって導かれ、扇動されているからであります。
 そこから発生してくるのは、無辜の人びとを犠牲にする圧制と欺瞞、それに従来にもいや増しての貧困であります。懸命な教育によって、かれらが人格を改善し、集団的責任感を自覚するようにならないかぎり、行政府の活動は、ただ何となくもやもやした不満によって妨げられることになるでしょう。
 かれらは、文明国の国民が、政治的理想を達成するために経なければならなかった苦痛に満ちた経験をすべて活用することはできないかもしれません。それでも何らかの準備訓練は必要なのです。どのように、またどんな順番で、原住民すべての個々の人格を、新たな体制が必要とするものに改善していけばよいのでしょうか。これは、今後もっとも真剣に考慮されなければならない課題のひとつとなるでしょう。
 どの受任国政府も原住民の教育問題をおろそかにしているわけではありません。しかし、どういう制度を採用するかについてはまちまちで、現在の状況でどれが最適かを決めるのは不可能です。いくつかの地域では、宣教師団体が原住民教育の大半を引き受けており、こうした場合はいうまでもなく本来の目的以外に特殊の目的があります。したがって、はたして行政府がこの制度をそのまま受け入れて、監督と補助金の給付だけをおこなっていればいいかどうかとなると、疑問がないわけではありません。
 こうした問題は公教育制度のもとでも発生するかもしれません。そこで、電気や機械などの学科をつくったり、初等の医学訓練学校をもうけたりするのは、行政の仕事を補助する補佐役を相当数供給するためであります。こうした科目の知識が原住民にとっても役立つことがあるのはまちがいありません。しかし、だからといってそれが教育の根本をなすとはいえません。かれらを訓練するには、もっと一般的な重要性、緊急性をもつ科目がほかにも多くあるのです。
 さらに望ましいのは、簡単に教員を養成する制度をつくることだと思われます。村の学校に原住民の先生を供給するというフランスの計画は、その教師が自分の種族だけを相手にするなら、きわめてうまくいくでしょう。われわれは部族の生活から教育階層が分離することで、原住民教育の成果が大幅に損なわれるのではないかと心配するのですが、こうしたきちんとした配分がなされれば、それも払拭されるでしょう。
 観察によれば、植民地の状態をより複雑にしてきたのは、教育を受けた青年層の存在でした。かれらは自分たちの同胞を軽蔑し、ヨーロッパ人に感服しながら、そのどちらに同化するわけでもなく、その中間でひとつの階層をつくろうとしがちです。こうした不具合は避けがたいものがあって、それは外国人が教育を握っているかぎり改善されることがありません。したがって、未開人の発展を心から願うのであれば、どの国もこうした傾向を自制するよう努めねばなりません。そのうえで、原住民社会全体に教育の影響が行き渡るように力を尽くさねばならないのです。
 それゆえに選択すべき教育計画は、原住民の社会水準の上昇をめざすものであり、しかも全体的に共同体のためになるものでなくてはなりません。その関連で、好ましい影響をあたえているものを挙げるなら、農業その他の基本的生産部門でなされている訓練や、地元の生産物を活用した手工業部門での訓練、さらにはまだ初歩的とはいえ日常生活に応用される医療面での訓練などがあります。
 この計画はすでに成果を挙げつつあります。昔のやり方は、少数の才能あふれる特別な青年を慫慂(しょうよう)して、最先端の教育を施すというものですが、それに比べると、こちらのほうがずっとすぐれているように思えます。最先端教育では、原住民の発展の可能性をかいま見ることができるかもしれませんが、これまでの経験によると、こうした教育方法はしばしば社会構造に亀裂を生じさせることがわかります。
 この点に関連して、いくつかの国がおこなっている実験は、われわれのような研究者にとっては大きな価値をもっています。とりわけ、こうした実験は、もう一度やろうとしても、まず無理なのですから。したがって、強く望まれるのは、ここで得られた成果を綿密に記録することです。そして、それをやりはじめたのが、西アフリカ地域にあるふたつの仏領[東トーゴランドと東カメルーン(現在のトーゴとカメルーン)]の行政府なのでした。

   Ⅵ

 初等教育の領域においてすら、問題は想像以上にむずかしいものがあります。さまざまな知識の分野をどうやって授けたらいいかさえわからないのです。さらに重要なことは、歴史や地理を教えるときに、どのような原則を採用すればいいかがわからないことです。
 昔のやり方は、原住民の子どもに、愛国的な歌や歴代皇帝の名前を覚えさせるといった、あまりにも国家主義的で、ふたつの人種の同化だけをねらったものでした。さすがにいまではこうしたやり方は取りやめられる傾向にあります。
 これから興味深く観察したいと思うのは、きちんと系統だった方法で歴史や地理を教えたら、原住民の考え方がどのように変わるかということであります。というのも、かれらが個々の存在や生きる意味を知るようになるには、アフリカや太平洋の広大な地域のなかで、さらには長い人類史のなかで、自分たちがどのような位置を占めているかを理解しなくてはならないからであります。
 読み書き計算というもっとも基本的な教育についても、なお解決しなければならない非常に重要な問題があります。それは読んだり書いたりするときに、どのような言語を用いるかということです。言語の問題は、ナウルと西サモアの島々を除けば、うまく解決されたところはありません。
 ナウルと西サモアがうまくいったのは、人口が少なかったのもさることながら、初期の宣教師たちの貢献が何と言っても大きかったのです。かれらは原住民のことばを熱心に研究して、ラテン文字(ローマ字)で原住民に自分たちの母語を読み書きすることを教えたのです。宣教師たちはまた原住民に現地語に訳した聖書をあたえました。そして大変な仕事をへて、かれらはさまざまな方言にもとづいて標準語をつくることに成功したのです。
 しかし、ほかの地域では、ことはさほど順調ではありませんでした。そこでは言語の問題が、次々とやっかいな事態を引き起こしたのです。たとえばタンガニーカでは、スワヒリ語が公用語として認められており、原住民が英語よりスワヒリ語を好むという利点があります。ところが、スワヒリ語を原始林に住む部族に広げようとすると、それはとてつもなく時間のかかる仕事となり、行政に大きな負担をかけるのは明らかです。
 ベルギーの委任統治下にある隣の地域[ルアンダ・ウルンジ]では、同じ人種が住んでいるにもかかわらず、スワヒリ語はほとんどと言っていいくらい使われていません。西アフリカにおけるドイツの実験は、エウェ語を共通言語にしようというものでしたが、それは失敗に終わりました。
 これらの言語のほかには、バンツー語、ナマ語、その他があるにせよ、いずれもその影響力はかぎられており、住民の大多数にどのことばも通じない地域もあります。ですから、こうした言語を、東インド諸島[現インドネシア]のマレー語[ムラユ語、現インドネシア語のもと]のように広汎に普及させようとしたら、原住民の意向とは相入れない、膨大な努力を傾注しなければならないでしょう。
 こうした状況が、原住民を教育するには欧州の言語をもってするしかないという結論を押しつけました。その言語は、語彙的にも文法的にも現地のことばとまったくことなるものです。そうしたことから、フランスの委任統治下にある地域では、公立、私立を問わず学校ではフランス語だけを用いるよう強制されています。行政府がそのように決定した理由は、知識を授けようと思っても、フランス語でしか与えられないというものです。しかし、古くからの植民地でなされてきた試みをみても、新しい言語を隅々まで行き渡らせるのがけっして容易ではないことをうかがわせます。
 さらに、行政府の努力に応じようとしない者が少しでもいるかぎり、こうした政治的理念を実現しようとしても、その障害が引き続き残ることになるわけです。この教育方法の効果がはっきり現れるまでは、原住民にふたつの相いれない階層が残ることは避けられません。それは文明人と接触している階層と、接触していない階層であります。
 こうした状況は当局にさらなる困難をもたらします。欧州の言語でなく、原住民のふたつの言語を共通語として採用したとしても、状況の困難さは変わらないでしょう。
 とはいえ、原住民の言語を採用したほうが賢明だと思われる、少なくとも3つの事実があります。(1)語彙や文法構造に類似性があることから、その言語の習得がずっと容易になされること。(2)少なくとも原住民のなかには、労をいとわずそれを学ぼうとする者がいること。(3)この計画からは新しい特権階級が出てこないこと。いずれにせよ、だいじなことは、行政府と原住民、部族間の意思疎通をはかり、簡素化する最善の方法をみいだすことであります。
 行政当局が原住民に欧州の言語を押しつけるか、それとも公用語として、ひとつ、ないしいくつかの現地語を認めるか、そのどちらにしても、受任国にとっては通訳の問題が常に重要性を帯びてくるのはまちがいありません。
政府から派遣された高級役人のなかに、耳慣れないさまざまな原住民のことばを学ぶために時間を割く者がいるとは、とても思えません。そこで、通訳の仕事が必要になってくるのです。かれらは原住民のなかから教育を受けて選ばれるのですが、これ以外に自分の能力に合った仕事をみつけるのはむずかしいと思っています。
 そこで、われわれは、行政官と被統治住民との意思疎通手段が、唯一、特別の地位にある階層によって独占されることが、将来どのような結果をもたらすかを考えておかねばなりません。一般的にいって、行政府の意向を人びとに伝達する通訳の正確さは信用できます。しかし、当局が原住民の要求や不平を聞きたいと思う場合は、こうした伝達手段はどうも不適当なようです。
 上司へのおそれ、同胞への慮(おもんぱか)りなど、ささいな心理的動機から、ある種のずるさやごまかしが出てきて、真実を隠し、役人をまどわせてしまうのです。こうしたトラブルは、未開社会ではしょっちゅうのことで、通訳者がいくら優秀であっても起こることがあります。まして通訳者の性格に問題がある場合は、いんちきやでたらめが横行するのはまちがいありません。
 これまでの経験によると、通訳者の監督はむずかしい場合が多いようです。そのことを考えると、たとえ行政府が、欧州の言語を一般に通用させようとしていても、役人用に地元ことばの小冊子をつくっておいたほうがいいでしょう。そうすれば、現地語を学ぶとっかかりとなるでしょうし、さらにそこから原住民の生活や考え方を知る第一歩につながるでしょう。
 原住民社会の暮らしぶりがわからなければ、かれらの福祉と発展のために、どんなにすばらしい演説をしても、それは空虚なことば以外の何物でもありません。なぜなら、人間性が普遍的に同一であることから導きだされた推論だけで、原住民の生活を改善できるとはとても思えないからです。
 宣教師の善意の活動や、科学者のたゆまない仕事が、これからも未開人に対するわれわれの理解を広げていくことはまちがいないでしょう。しかし、とりわけわれわれが期待するのは、原住民と接触しつづけている受任国政府が、きちんとした役に立つ調査を実施することであります。

   Ⅶ

 委任統治の初期に、各行政府が直面する仕事は数多くあります。そのなかでも、もっともたいへんなものは、遠く離れた場所で開かれる国際連盟総会に、最新の状況について詳細な情報を提供することであり、さらには総会を通じて、国際連盟の全加盟国にその詳細を伝えることであります。しかし、あと何年もすれば、こうした年次報告書を作成する仕事もさほど苦にならなくなることでしょう。
 地理や天候、天然資源の分布、諸部族の一般的構成と特徴、これまでの統治方針などについては、正確な報告に盛りこまれるでしょうから、再度編集する必要はなくなるでしょう。それ以上に望まれることは、国際連盟事務局が、こうした基本的で不変のデータを一般的な概要としてまとめ、それをいれた小冊子の作成に取りかかることです。この方法が採用がされれば、全行政府は必要な内容だけ報告すればよく、たとえば毎年の数値の変化や、条例の変更、追加、禁止、さらには毎年討議される議題の関連事項だけを足せばよいのです。受理した報告書が簡潔に要約されたものになれば、それは当委任統治委員会にとってもありがたいことであります。
 同じ理由から、総会で承認されたアンケートの質問事項も、新しい報告に盛り込まれた情報にしたがって変更したほうがよいでしょう。奴隷制の問題や、アルコール飲料の禁止、陸海軍のさまざまな軍事項目は、国際連盟規約や委任統治条項にとって、たいへん重要な部分を占めています。しかし、それに対して各国政府がはっきりと否定する回答を示すと、すぐに削除されるべきです。各国政府に同じ弁明をくり返させるのは無用なことです。
 いっぽう、たとえまだ重要性が判然としないとしても、何かの問題が共同調査のテーマとされたのなら、それはとうぜん質問事項に含めるべきです。原住民の福祉といった漠然としていて広汎な問題は、さまざまな新しい観点からの考察を必要とします。
 これから望みたいのは、この委任統治委員会が、質問事項を変える必要がないか、時に応じて関連各国政府と協議をもつことであります。それによって民衆は、文明国がおこなっている念入りな調査の結果を知ることができ、さらには国際連盟の実際的価値を確信するにちがいありません。
 私は手にはいった資料をもとに、以下の点を述べてみたいと思います。これは同僚諸氏にぜひ検討していただきたいことです。

1. 部族の集団ごとの人口、あるいはさまざまな部族が到達した発展段階に応じた人口を集計すること。
2. 領域内外への移住、および領域内での人口の動きについて一般的傾向を探ること。
3. 地域別、原住民集団別に、どの程度、土地の開発が進んでいるかということ。
4. 慣習法を維持するためにどのような原則が立てられているかということ。
5. 原住民の一般教育について、どのような計画がつくられているかということ。
6. 公用語ならびに通訳について、どのような規定が設けられているかということ。
7. 民族誌および言語学の研究に関連して、どのような段取りがとられているかということ。

[以上で翻訳は終わりです]

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