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ジュネーヴの国際連盟で [柳田国男の昭和]

《第243回》
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[国男が最初ジュネーヴで滞在したオテル・ボー・セジュール(家族への絵葉書)]

 1921年(大正10)に国際連盟委任統治委員となり、スイスのジュネーヴに赴いたいきさつについて、柳田国男は『故郷七十年』のなかで、こうふり返っている。

〈大正10年、沖縄から内地に帰る途中で、私はジュネーヴに行けという電報を受けた。私は役所の方を怒って辞めているので、おそらくこれは誤報だろうと思っていた。ところが熊本まで帰ってくると、ひどいのがいて「お口[就職口]があっておめでとうございます」などという。県庁の役人がそんなことをいったので「断ってくれたまえ、ぼくはもう政府のためには働かないんだから」と話したりした。長崎へ着くと、もう亡くなったが渡辺勝太郎[正しくは勝三郎]さんという、よく物のわかった人がちょうど県知事をしていて「そんな馬鹿なことがあるものか。君が喧嘩したのは内閣であって、国じゃないだろう。政府のために働かないでも、国のために働かないっていうわけじゃないはずだ」と、じつに簡単に説伏させられてしまった。「それでは仕方がない。じつはぼくは大阪朝日の社長と、ぼくの養父とには事前に相談をしなければならないのだから、二人が同意したならば受けるという条件つきで返事を出すことにしよう」といった。すると渡辺君は私の見ている前で電報を打ってくれた〉

 貴族院書記官長を辞任し、朝日新聞社客員となっていた国男は、沖縄取材を終え、各地で講演をしながら東京に戻ろうとしている途中、熊本で外務省から電報で、国際連盟の委任統治委員就任を打診されたのである。それが突然の要請だったことは『故郷七十年』の回想をみても、はっきりと理解できる。
 旧知の長崎県知事から、政府のためではなくお国のためにと説得されて、国男はあっさりと職務を引き受けている。朝日新聞の社長に相談しなければならなかったのは国男が朝日の客員として給料をもらっていたからであり、養父には家族のことを託さねばならなかった。もちろん、両者とも大賛成だったことはいうまでもない。
 官界を離れてほっとしたところに、大仕事が飛びこんできたのである。国男はさすがに緊張せざるをえない。しかし、もともと3年間は旅行させてもらうというのが朝日との約束だったし、そのなかには南洋とヨーロッパも含まれていたから、ジュネーヴでの委任統治委員というのは、その両方をカバーできる仕事だったといえなくもない。とはいえ、気楽な旅行とはちがう外交官の仕事なのだから、国男がのちに「気が張りつめていっぱいに」なったと述懐しているのは、当時の正直な気持ちだった。

 国際連盟は紆余曲折をへて、1919年に発足し、翌年に第1回総会が本部のあるジュネーヴで開かれていた。第一次世界大戦の反省を踏まえて、国際間の平和維持を図ることが目的である。
 その組織構成は、現在の国際連合とさほど変わらない。加盟国(原加盟国は42)の参加する総会、常任理事国を中心とした理事会、事務局があり、いくつかの委員会からなる特別機関がもうけられている。
 アメリカは熱心な提唱者でありながら、国内の猛烈な反対によって参加を断念している。敗戦国のドイツ、革命のさなかにあるソ連は、当初、参加を認められなかった。
 日本は発足当初から、フランス、イギリス、イタリアとともに、常任理事国のひとつとなっていた。そして日本出身の事務局次長に就任したのが、新渡戸稲造だった。
 国連委任統治委員会の委員に国男を推薦したのは、新渡戸だといってまちがいない。この委員会は当初9人の委員によって構成され、委員には政府代表ではない民間人資格が求められていた。そのため、新渡戸は郷土研究会の仲間である国男に白羽の矢を立てたのである。
 外務省というより、新渡戸の推挙に発奮した国男は、1921年から23年までの足掛け3年間、委任統治委員の役職を引き受けることになる。その間、半年ほど日本に一時帰国するものの、国男は約1年9カ月ジュネーヴに拠点をおきながら、ヨーロッパ各地を回ることになった。
 国男にとって、この3年間はけっして短い期間ではない。連盟の仕事はわりに楽だったさかもしれないが、それでも研究したり調査したりしなければならない課題は多かったにちがいない。
 国男自身はのちにこう話している。

〈連盟の仕事は割に楽で、春から秋にかけて一通り会合や通常事務などが忙しかったが、その後は翌年にかけて冬休みのようなもので、関係者はみな一応帰国することになっていた。私も最初の年は用事をすませてから東京に帰り、翌春また出かけていった。
 大正12年9月1日の関東大震災のことはロンドンで聞いた。すぐに帰ろうとしたが、なかなか船が得られない。やっと10月末か11月初めに、小さな船をつかまえて、押しせまった暮れに横浜に帰ってきた。ひどく破壊せられている状態をみて、こんなことはしておられないという気持ちになり、早速こちらから運動をおこして、本筋の学問のためにたつという決心をした。そして13年の春に2度の公開講演を試みたのである〉

 これを読むと、国男は委任統治委員を辞任することにして帰国する途中、ロンドンに滞在しているときに関東大震災の報に接し、取るものもとりあえず日本に戻り、その後本筋の学問に専念すると決意したとなっている。このことは、かれが自分は50歳になってから、学問をこころざしたと述べているのと符合している。
「2度の公開講演」が何を指すか、よくわからない。しかし、このころから国男は慶応義塾大学で毎週、民間伝承論などを教えたり、各地で精力的に講演会を開いたりしているから、民俗学を専攻する思いは、たしかなものとなっていたのである。
 しかし、それではジュネーヴ時代は、単なる横道、言い換えれば無駄な時間にすぎなかったのだろうか。
 おそらくそうではない。それはひとつの転形期だったといえる。ジュネーヴ時代は、いわばそれまで無雑作にこねまわされていた題材が、民俗学の塑型へと熟成されていく期間だったのである。
 ジュネーヴで、国男が挫折と孤独を味わっていたことは、『故郷七十年』での次のような述懐をみても容易に推察できる。

〈ただ言葉が不自由な点が困った。ときどきは独り言でもいいから、思い切り日本語でしゃべってみたいというきがしたこともあった。同じような悩みをもつ人たちが始めていたエスペラントの運動に加わってみようかと思ったことがあった。国際連盟の通訳室にプリヴァという有名なエスペランチストがいて、この人につつかれて私から新渡戸さんに話し、連盟でエスペラントを用語に採用する決議案を持ち出したところ、大変な反対にあった。……
 こんなこともジュネーヴ時代の一つの思い出となったが、この言葉の問題では実際に考えさせられることが多かった。われわれ日本人が機会があっても、どうも避けるようにして、しゃべる稽古をしたがらない傾きがある。連盟で私は日本の不平等の実例をみせつけられたが、この言葉さえ心を打ちあけて話すことができるようになっていれば、かなりの難問題が解決せられるのにと痛感させられたことであった〉

 国際連盟の公用語は英語とフランス語である。国男は、英語についてはフレイザーの『金枝篇』を全巻読破したのをみても、読むことはかなり自由にできたと思われる。フランス語の習得にも努力した。
 ジュネーヴに到着して早々、遠野の佐々木喜善にあてた葉書にも、こう書いている。

〈こんな遠いところへ来てしまいました。しかしジュネブは絵よりももっとうつくしく宿屋は人の来ぬ公園です。小説にあるような露国[ロシア]の零落した婦人にフランス語を学んでいます。アナトルフランス[アナトール・フランス]の本をよんでもらっている。遠野の諸友によろしく。お返事を乞う〉

 翌1922年(大正11)の「瑞西(スイス)日記」にも、こんな箇所がでてくる。

7月19日 水よう
アナトル・フランスの[小説]「白い石の上に」[『白き石の上にて』]読み終わる。英訳をあわせて、これで4度目。……
7月22日 土よう
アナトル・フランスのラヴィーアンテルール[これはおそらくラヴィー・アンフルール(『花咲く日』)の誤植]読み終わる。
10月27日 金よう
エスペラントの会を家にて開く。ジョルジア[グルジア]の代表という人も来る。自分は沖縄のことを話す。
11月6日 月よう
きょうよりエスペラントの練習を始める。マダム・ウマンスキーという老女来る。オデッサからの亡命客。
12月16日 土よう
ザメンホフの誕辰記念会に出席。いろいろの人とあう。エスペラントで話を始めたが、うまく行かず。

 国男はフランス語、エスペラントに加え、イタリア語の勉強もはじめている。しかし、どんなに勉強しても、日常のコミュニュケーションにも齟齬をきたした。まして委任統治委員会の会議となると、その内容に追いつくのもたいへんだったと思われる。

 ところで、国男が日夜、苦労を強いられていた国際連盟の委任統治委員会とは、どのような組織だったのだろう。
 第一次世界大戦の終結後、敗戦国となったドイツ、オスマントルコの旧植民地は、戦勝国の植民地とするのではなく、国際連盟監督下の委任統治領とすることがきまった。その結果、フランスはシリア、レバノン、東トーゴランド、東カメルーン、イギリスはパレスチナ、トランスヨルダン、イラク、西トーゴランド、西カメルーン、タンガニーカ、ベルギーはルアンダ・ウルンジ、南アフリカは南西アフリカ、オーストラリアはニューギニアやナウルなど(イギリス、ニュージーランドと共同統治)、ニュージーランドは西サモア、そして日本は赤道以北の南洋群島(グアム島を除く)の統治を委任されることになった。
 委任統治領は、その自治の進展度合いに応じて、ABCの3つの方式に分けられていた。A式が中東の旧オスマントルコ領、B式が中央アフリカの旧ドイツ領、C式が南西アフリカと太平洋の旧ドイツ領である。
 国際連盟の委任統治委員会は、こうした委任統治領全体を監督し、各受任国は委員会から出される50ほどの質問事項に答える義務を負っていた。
 こうした委任統治の仕組みについて、篠原初枝は『国際連盟』で、こう述べている。

〈国際連盟が委任統治の名のもとに遂行した政策は、優れた文明を持つ国がそうでない国を導き援助するという「文明の神聖なる付託」という考え方を土台にしていた。このような考え方は、帝国主義政策を推進する国々にはすでに見られていたが、これを国際組織において集団で実施するという意味では新しかった。具体的には、国際連盟が各受任国にその地域の統治を委託するが、国際連盟は委任統治委員会を設立し、その統治を監督する仕組みとなっていた〉

 委任統治の思想は「啓蒙的な帝国主義」だったというのが、現在の歴史的評価のようである。その総元締めとなる委任統治委員会で、国男はどういう仕事をしていたのだろうか。以下、それに触れてみたい。

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