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最初の委任統治委員会 [柳田国男の昭和]

《244回》
 柳田国男が国際連盟の委任統治委員として、ジュネーヴで開かれた委員会に出席したのは、第1期から第3期までである。
 実際にはこうなる。

第1期 1921年10月4日〜10月8日(会合は9回)
第2期 1922年8月1日〜8月11日(会合は17回)
第3期 1923年7月20日〜8月10日(会合は33回)

 前に記したように、国男は第1期と第2期のあいだに一度日本に帰国している。そして、第2期と第3期にかけてはヨーロッパにとどまり、第3期の会合が終わってから日本にもどり、その年の終わりに、正式に委任統治委員の職を辞している。
 会合にはもちろん事前の準備が必要だった。語学の習得も欠かせなかった。しかし、残りの時間は、ヨーロッパ各地を旅したり、ジュネーヴ大学で言語学や民族学などの講義に出たりしていた。旅した場所は北欧やドイツ、係争地のアルザス・ロレーヌ、フランス、オランダ、イギリス、そして憧れのイタリアである。そうしたさまざまな見聞や知識が、柳田民俗学をどれほど豊かなものにしたかは計りしれないものがある。
 しかし、ここでは『柳田国男伝』を参考にしながら、おもに統治委員会での活動について、述べることにしよう。
 第1期の委員会でめだつのは、国男が人口動態統計の重要性を訴え、「人口調査統計値の変動は、委任統治地域の発展状態を示すひとつの正確な指標となる」と指摘したことである。その根底には、委任統治が原住民社会の崩壊ないし衰退をもたらすものであってはならないというかれの信念があった。
 委員会の日程が終了した10月10日に、国男は外務省臨時平和条約事務局第一部長の山川端夫(ただお)あてに書簡を送り、「来年以降も継続してこの職にあたりたい」という意欲をみせながら、委員会の概況を報告している。
 委員会の日程調整にかかわる細かい点はさておき、その重要と思われる部分を口語訳で示してみよう。
 国男は日本から報告が出されなかったことに苦情を述べつつ、会議の印象について、こんなふうに述べている。

〈会議の傾向は、何となく今後連盟理事会の監督を「パクト」[国際連盟規約]の若干の制限事項にとどめようとするようにみえたので、小生はつとめてほかの一般的状況、ことに人口増減の点を報告の要目に加えるよう主張し、結局「一般的項目」の部をかなり増やさせました。これは日本を被監督者とだけ見るなら、やっかいかもしれませんが、実はこの会では太平洋のことを知る者はほとんどなく(これは意外なほどです)、いわんや日本の委任領などはもっとも軽視され、もっぱらアフリカの各領にのみ注目が集まっています。そのため、われわれも利害関係の比較的薄いこの方面で、理論的に有色人種の天賦の権利を主張するのは、一種巧妙な間接射撃となり、自分勝手から出発する人種差別撤廃論だと思われないでもすみそうです。そこでほかの欧州委員がいずれもアフリカのことしか知らないのを幸いに、今後もこの方面にできるだけ多く会の研究を向かわせたいと思っております。手紙ではいろいろ詳しく申し上げられないのですが、「パクト」22条には大きな抜け穴があり、B式の機会均等もだいぶあやしいものであります〉

 当時の状況がつかめないと、なかなかわかりにくい。
 国際連盟規約の第22条は委任統治に関する項目で、そのなかではとりわけアフリカの委任統治領における信教の自由、奴隷貿易・武器・火酒類の取引禁止、軍事基地建設・軍事訓練の禁止、通商貿易に関する機会均等などが定められていた。委任統治委員会は、受任国がこうした条項に違反していないかを確認するために、毎年各国からの報告を求めたわけだが、国男はそのなかに人口動向の項目を加えるよう求め、それによって、「出生、結婚(一夫多妻)、死亡、地域外、地域内への移住」についての報告が義務づけられるようにしたのである。
 C式にあたる太平洋地域では、機会均等が明記されていなかった。日本がこれについてあいまいな態度をとったのは、南洋群島に対する独占的支配権を確立したかったからではないかと思われる節がある。そのいっぽうで、オーストラリアなどの委任統治下にあるリン鉱石の島、ナウル島の開発にも早くからからんでいたため、機会均等を否定するわけにもいかなかった。それがC式の領域における機会均等条項への保留という態度となってあらわれたのである。
 国男がB式のアフリカでも機会均等はあやしいものだというのは、日本の態度を棚上げして、欧州諸国に皮肉を飛ばしたとも受け取られる。
 人種平等問題への言及もみられる。日本はヴェルサイユで国際連盟規約が締結されるにあたって、人種平等条項を盛りこむよう求めた。背景には、そのころアメリカで日本人移民排斥運動が起こり、日系人への差別が目にあまるものとなっていたことがある。しかし、けっきょく、この条項は見送られる。
 国連規約をめぐる会議では、アフリカ人がヨーロッパ人と同じだとは思わないという意見が支配的だったことに加え、南部の黒人問題をかかえるアメリカが、こうした条項が採用されれば、国内でも世界中でも人種差別反対運動が巻き起こるのではないかと懸念したためといわれる。
 もちろん、山川あての書簡をみてもあきらかなように、たとえ国連規約に採用されなくても、国男が人種差別撤廃の側に立っていたことはいうまでもない。
 もうひとつこの書簡で注目すべきは、委任統治委員会ではもっぱらアフリカ問題が取りあげられ、太平洋地域はほとんど議題にのぼらなかったとされていることである。
 国男は一時帰国し、内田康哉外相と会見したときも同じことを話している。しかし、ここがいかにも国男らしいのだが、ヨーロッパ人が日本の委任統治領を軽視するのはともかく、日本人はアフリカに対する知識を養わなければ国際的な役割をはたせないと忠告するのである。
 同じ書簡で、国男はさらにこう書いている。

〈小生が唯一心配するのは、委任統治がむしろやっかいな形式的束縛だとの考えから、いろいろな報告と相異なる言い訳的な報告を出して、余計な疑惑や悪感情を招くことであります。いずれの委任領でもはじめはうまくいかないのは当然と認められるのですから、できるだけ欠点を隠さず、受けるべき非難はあまんじて受け、その代わりに南太平洋およびアフリカの各領に対しても、人道に立脚した存分の批判をしたいものと考えております。なぜなら、委員はけっして自国委任領の弁護を許される立場ではないからです。各国を代表して出席する説明者については、英国だけはともかくとして、他の諸国、とりわけ日本については、このために事情に精通した一人をこの地に出席させることができなければ、強弁はなかなか巧妙にはいくまいと思います〉

 国男はていさいをつくろって、万事うまくいっているように見せかける日本の役所の体質に警告を発していた。それがかえって「余計な疑惑や悪感情」を招くことになるのだ。このあたり日本人の体質がいまも変わらないことには、あきれるほかないのだが、国男はともかくも日本側が腹蔵のない正直な報告を作成することを求めていた。
 委任統治委員会には、受任国の代表が出席して、報告を説明することになっていた。そこで、国男は「事情に精通した一人」をジュネーヴに送るよう求めている。イギリスの外交官のように万全でなくても、南洋群島の状況に熟知した者が出席しなければ、国際的な場ではますます失笑を買うだけだろう。
 国男はそのことを懸念した。そして、その懸念が現実のものとなったとき、大いなる失望がかれを襲うのである。
 のちに、国男はある本の自序にこう記している。

〈ジュネーヴの冬は寂しかった。岡の並木の散り尽くすころから、霧とも雲の屑(くず)ともわからぬものが、明けても暮れても空を蔽(おお)い、時としては園の梢(こずえ)を隠した。月夜などは忘れてしまうようであった。木枯らしも時雨(しぐれ)もこの国にはなかったが、4、5日に一度ずつ、ヴィーズというしめった風が湖水を越えて、西北から吹いてきて、その度ごとに冬を深くした。寒さの頂上というころには、ある朝は木花(このはな)が咲く。そのときばかりは霧がすこし薄れて山の真っ白な雪が見え、日影がさして鳥の姿などが目に映じた〉

 これは単にジュネーヴの冬景色の叙述ではない。まさに国男の心象風景だったのである。

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