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重農主義をめぐって──スミス『国富論』を読む(21) [商品世界論ノート]

 ほとんど旅行をしなかったスミスは、1764年から66年にかけフランス、スイスを訪れ、ヴォルテール(1694-1778)やケネー(1694-1774)とも会っています。その際、レッセフェールの思想は、スミスに大きな影響をもたらし、自由主義の考え方を導く源となっていきました。
 しかし、『国富論』で、スミスは土地生産物が国の収入と富の唯一(あるいは主要な)源泉だとする重農主義を批判する立場をとっています。
 経済社会は3つの階級で成り立っているというのが、ケネーの想定です。
 それは、

(1)土地所有者階級(国王や貴族、教会、地主など)
(2)農民(農業経営者と農業労働者)=生産的階級
(3)手工業者、製造業者、商人など=非生産的階級

 この3つの階級は、それぞれ役割を果たしています。土地所有者階級は、土地の維持、管理、改良に努めていますし、農業経営者は農業に必要な資本や経費を提供し、農業労働者は実際の仕事に従事します。おもしろいのは、製造業や商業が地代を生みださないこと、さらに「手工業や製造業の労働者の労働は、年間の土地生産物の総価値に何も付け加えない」ことから、「非生産的」とされていることですね。とはいえ、非生産的階級が役立っていないわけではありません。ほかの二つの階級に、さまざまな便宜を提供する役目を果たしていることを、ケネーは否定しているわけではありません。
 重農主義には、価値を生みだすのは土地生産物だけだという考え方がありました。たとえば人が1年かかって高価なレースの襟飾りをつくったとしても、それは亜麻(リネン)を加工しただけであって、そこには何らの価値も加わっていないというのです。レースの襟飾りは、たしかに賃金や利潤を生みだすかもしれないが、それは亜麻以上のものをつくりだしたわけではないというのが、いささか詭弁めいた重農主義の考え方だといえます。
 つまり、価値を生みだすのは、広い意味での農業(林業や漁業、鉱業などもいれていいかもしれません)、つまりいまでいう第一次産業だけであって、手工業や製造業は、その原料を使いやすく加工するだけで、素材自体を増殖させているわけではないというのです。これは農業が中心だった時代特有の考え方だったのかもしれません。
 しかし、ここには現在も検討されるべきテーマが含まれています。それは、けっきょく人類を支えているのは、太陽と、大地と、海の恵みにほかならないということです。スミスが労働に価値の本源を見いだしたのに対して、ケネーは土地に価値の本源を見いだしていたといえるかもしれません。
 ニーチェはこんなことを書いていました。

〈この世界とは、すなわち、始めもなければ終わりもない巨大な力、増大することもなければ減少することもなく、消耗するのではなくて転変するのみ、全体としてはその大きさを変ずることのない青銅のごとくに確固とした力の量、支出もなければ損失もなく、しかもまた増加もなく、収入もなく、おのれ自身の限界をもつ以外それを取りまくのは「無」である家政(オイコノミア=エコノミー)〉

『力への意志』に残されたメモですが、こういう文章にぶつかると、宇宙にとって人類はどういう存在なのか、考えこんでしまいますね。それにエコノミーが何ごとであるのか、についても。それは何も加えているわけではなく、地球を消尽しながら、終末に向かって回帰しているだけかもしれません。
 ケネーからニーチェはいくら何でも逸脱しすぎです。しかし、ケネーにはさらに考えるべき課題があるということだけを指摘しておくにとどめて、ここではスミスの重農主義に対する評価と批判を追っていくことにしましょう。
 スミスが重農主義を評価するのは、重商主義とはちがって、レッセフェール(自由放任)の立場をとっていることです。重農主義は、商工業が自由に貿易することを認めます。貿易によって不足している製品がはいってくれば、製造業によけいな力をそそぐことなく、農業の生産力が高まり、それによって資本が蓄積され、こんどは商工業が自然に発展していくという考え方で、スミスはこれを高く評価しています。実際、スミス自身も、都市より農村に資本を投下すべきだと考えていました。
 しかし、スミスは商工業階級をまったく非生産的だとした点で、重農主義はあやまっているといいます。スミスは農業に従事する労働者と同じく、工業に従事する労働者も、労働によって社会的に価値のあるものを生産しているのだと主張します。スミスが理想とするモデルは、農業と商工業がバランスをとって発展している国であって、農業だけが優先される国ではありません。
 その理由をこんなふうに述べています。

〈商工業国は当然、自国の製品のうちごく一部で、他国の土地生産物のうちもっと高い比率の部分を購入できる。これに対して商工業がない国は通常、自国の土地生産物のうちかなりの部分を費やして、他国の製品のうちごく一部を買わざるをえない。……商工業国はつねに、そのときの耕作の状況で自国で生産できる以上の食料を消費できる。商工業がない国はいつも、自国で生産できるものよりはるかに少ない食料しか消費できない〉

 スミスは重農主義に対する評価と批判を、最終的につぎのようにまとめています。

〈土地の耕作に使われる労働だけが生産的労働だとしている点では、重農主義の主張は偏っているし狭すぎる。だが、国の富が通貨という消費できないものの豊富さにあるのではなく、その社会の労働で年間に再生産される消費財にあると主張している点で、そして、完全な自由の確立が年間の再生産を最大限に増やすのに効果がある唯一の方法だと主張している点で、重農主義の主張は寛大で自由であると同時に、まったく正しいと思われる〉

 スミスは農業を重視するあまりに、製造業と貿易を抑制してはならないと主張していました。そして、かれの見解によれば、こうした極端な重農主義に走っているのが、隣国のフランスではなく、中国なのでした。

〈貿易が広範囲に行われていて、この[中国の]広大な国内市場に世界全体にわたる外国市場が加わっていれば、そしてとくに中国船で貿易が行われていれば、中国の製造業がさらに大幅に拡大し、製造業の生産性がさらに大幅に向上しなかったはずがない〉

 スミスは200年以上前に、そう予言していました。

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えんや

ご訪問ありがとうです。
よろしくです。
by えんや (2013-05-06 17:39) 

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