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『いまこそロールズに学べ』(仲正昌樹)を読んでみる(1) [本]

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 ロールズといえば『正義論(A Theory of Justice)』といわれますが、ぼくはもちろんこの大著を読んでいません。でも、あまりに有名な人だから、以前『政治哲学史講義』という本を「講義」ならわかりやすいだろうと思って買ってみたら、案に反してさっぱり理解できず、すぐに投げだしてしまいました。
 ところが、今度、仲正さんの入門書が出たので、再度、挑戦してみようという次第です。ぱらぱらと本をめくりはじめたところ、それでもやっぱり、こむずかしそうです。ぼくのような年寄りには、もう手が届かないという思いがありますが、またも投げだすのはしゃくなので、自分なりの勝手読みをしてみることにしました。
 ロールズは1921年、アメリカのボルティモアに生まれ、2002年に亡くなっています。政治哲学を専攻し、リベラリズムに立つ論客として、コーネル大学やハーヴァード大学で教えました。さまざまな論文のほか、著書に『正義論』(1971)『政治的リベラリズム』(1993)『万民の法』(1999)『公正としての正義 再説』(2001)などがあります。
 最初に、仲正さんは、日本語の「正義」と英語の“Justice”にはニュアンスのちがいがあって、ジャスティスは、悪と戦う正義というより、どちらかというと客観的な公正、公平という意味に近いと指摘しています。
 古いことばでいえば、正義というより道義ということなのでしょうかね。でも道義というと儒教色が強くなってしまうので、これまたむずかしいですね。江戸時代、荻生徂徠は儒教を政治道徳の学に読み替えたのですが、誤解を承知で踏みこむと、ロールズという人も、現代の世界で通用する政治倫理学をつくろうとしたのかもしれません。この印象はまちがっているかもしれませんが、最初に思い浮かぶイメージです。
「自由」と「平等」の両立を構想し、その理念を政治に取りこむことを可能にしたロールズの哲学は、ソ連型社会主義に優越するアメリカ流リベラリズムのかたちを提示したともいえます。政治の世界は論争がつきものです。ロールズの『正義論』も、これを反映して、学界で論争の的となっていくのですが、それに伴うロールズの思索の深まりについても、本書は解説してくれているようです。
 序章を散読したかぎりでは、ロールズが「正義」すなわち「道義」について論じようとしたこと、だれもがかかわり、認めあっていくことで成り立つ、政治と社会のルール(のあり方)について考えようとしていたことがわかります。
 それにしても日本の政治は場当たりというか、いいかげんというか。それは日本人自身がそうだからですが、日本では駆け引きばかりで、政治の道義がまったくすたれてしまっているような気がします(もっとも、いまは世界の政治も似たり寄ったりかもしれません)。
 前置きはともかく、第1章を少しだけ読んでみることにしましょう。むずかしい理屈はわかりませんが……。
 最初に興味深いのは、ロールズが現実に即して、社会のルール(規範)がどうあるべきかを考察していることです。人にはさまざまな要求や意志があって、社会ではそうしたものがぶつかりあっているわけです。人が3人いれば政治がはじまると言ったのはだれでしたっけ。
 いずれにせよ、要求がぶつかりあったときには、それを調整するためのルールが必要になってきます。いつも力の強い者が勝つ(そういう傾向があるにせよ)というのではたまりませんからね。ロールズはそうした調整ルールを考えるところから出発しています。だいじなのは、だれもが対等の立場で要求を口にでき、いかなる要求も、明白な危険をおよぼさないかぎり無下に否定されるべきではなく、できるかぎり多くの要求が満たされるように適切な手段が講じられるべきだということです。公正なルールをつくってみるというのは、なかなか実践的な哲学です。
 もうひとつ、ロールズの思想の特徴は、功利主義に対抗して「公正としての正義」(つまり公正という道議)を打ちだしたところにある、と仲正さんは指摘しています。これもどういうことか、しろうとにはよくわからないですね。
 功利主義は「最大多数の最大幸福」という考え方です。できるだけ多くの人ができるだけ幸せになるようにしようというわけです。そして、その考えにしたがって、政治や経済や社会の仕組みを変えていこうとしました。民主主義も一種の功利主義かもしれませんね。一見、すばらしい考え方のように思えます。
 ところが、ロールズは功利主義にふじゅうぶんさというか、しっかりしていない、あやふやさを感じたのでしょう。最大多数が専制を求めることもありえるし、弱者切り捨てに走らないともかぎりません。それに政治や社会の仕組みを変えるといいますが、それをどう変えるのでしょうか。最大多数が求めれば、ルールはどう変えていってもいいのでしょうか。
 ぼくはこんなエピソードを思いだします。中国で、いわゆる文化大革命が起こったころ、交通信号で赤が「止まれ」になっているのはおかしい、と学生たちが言いだしました。赤は「進め」でなくてはいけないというのです。こうして北京では一時、信号は赤が進めで、青が止まれに変わったとか変わらなかったとか。これは笑い話にすぎないかもしれませんが、けっして起こりえないことではありません。実際に、信号が赤で進めになったら、車の事故が多発しただろうと思うとぞっとします。
 これはお隣の国のできごとですが、最近日本でも憲法96条の改正が取りざたされています。これもまた大きなルール自体の変更ですね。この改正は、いってみれば野球の試合で、1回をスリーアウトでなくツーアウトでチェンジにし、9回まで戦うのでなく6回で勝負を決めるというくらいのルール変更だと思うのですが、はたしてそれでいいんでしょうか。あまり根こそぎにルールを変えてしまうと、野球が野球でなくなり、憲法が憲法でなくなってしまう恐れもあります。
 ロールズは、こういう多数者で何でも変えられるという功利主義に不安を覚えたのでしょう。世の中には変えてはいけないルールがあるのではないか。多数が賛同したからといって、思いつきのままルールが変えられるのなら、社会は安定せず、常に揺れ動いてしまうと考えたにちがいありません。そこで、かれが打ちだしたのが「公正としての正義」(公正という道義)という考え方です。よき社会を築くために守るべき道義といってもいいでしょう。
 あまり読み進んでいないのに、いろんな雑念が浮かんで、長々と書いてしまいました。年寄りの悪い癖です。まだとば口なのですが、きょうはこのあたりにしておきましょう。

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