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空想と現実と虚無感と [われらの時代]

《連載第11回》
 いなかの商店街の息子だったから、もともと政治の世界とはかかわりがなかった。父などは、政治は名士の仕事であり、あんなものをやれば井戸塀になるのが落ちで、商売人は商売のことだけ考えていればいいと言っていた。支持政党はもちろん自民党である。社会党は労働組合政党であり、共産党は共産主義者の思想団体、公明党は創価学会の集まりと思っていた。その考えはぼくにもそれとなく引き継がれていた。
 子どものころ演説を聞いたことのある代議士の息子は、やはり国会をめざし、市会議員の息子もまた、市会から県会をめざしていた。政治は半ば家業であり、そういうものなのだろうと思って疑わなかった。ぼくが政治にいだくのは、ただ純粋な興味である。アメリカのケネディ大統領にあこがれていたと書いたけれど、漠然と政治の世界はおもしろそうだと思っていただけである。
 しかし、漠然と思っているだけで、政治には何のとっかかりもなかった。官僚になって国を動かすとか、代議士の秘書になって国政にかかわるとか、そういう気持ちは不思議と起こらなかった。元来が引っ込み思案なのである。見者といえばかっこいいが、要は小人物で、いつも回りを見渡すだけで行動しない。実際の政治への興味や関心はあまりなかった。ただ政治の歴史や理念みたいなものがどうなっているかを知りたかった。
 とはいえ、大学にはいって、まず取り組みたかったのは、自分の性格改造である。若者がとつぜん突拍子もないことをはじめるのは、たいていがコンプレックスを克服したいという願いから発している。ぼくの場合は、人前で話ができるようになりたいということと、ひょろりとして手足だけ長い貧弱な肉体を何とか変えたいということ、それが最大課題だった。
 サークルで苦手を克服だ。よくよく考えて、落語研究会とボディビル同好会を選んだ。ぼくは果たし合いでもするかのような、真剣な気持ちで、ふたつの部にはいろうとした。いまから思うと、こっけいとしかいいようがない。月水金は落語、火木土はボディビルと日程を決め、ふたつのサークルをかけもちすれば、3カ月もたたないうちに、舌はなめらかに動き、女どもがこの肉体に群がるようになると空想していたのだから、ばかみたいである。
 空想はたちまち現実の前にねじふせられる。まず落語研究会に行くと、オリエンテーションがあるという。大学にほど近い蕎麦屋の二階で、ほんものの噺家の落語が聞けるから、それにまずいらっしゃいというわけだ。
 のこのこいってみると、それは20分ほどの人情話で、ぼくの思っているおもしろおかしい落語とはまるでちがっていた。まさに神品である。演じてくれたのは三遊亭円楽。のちに「笑点」の司会で、人気者になる。軽い気持ちで落研にはいろうとしていたぼくは、すっかり打ちのめされ、落語の奥深さを前に、早々に退散を決めこんだ。
 次に訪れたのは、戸山キャンパスの文学部の裏手にあったボディビル同好会である。前にも一度様子をみたことがあるので、その日ははっきりと入部したいと申し出るつもりでいた。ところが、たまたまだれもいなかった。そのあたりをウロウロしていると、「ボディビルやりたいの?」と声をかけられた。
「はい」とこたえると、眼鏡をかけたその人は「ウェイトリフティング部にはいらない」と誘ってくれた。ウェイトリフティング部は体育会に属しているから、体育の授業を受けなくても単位がとれるという話に、体育嫌いのぼくは、さもしくもひきつけられた。こうして、サークルは何とウェイトリフティング部にはいったのである。
 部室はボディビル同好会のように野外ではなく、きちんとした平屋の建物だった。しごきなどはいっさいなく、先輩や同僚はカトンボのようなぼくにもやさしく、からだを動かすのは楽しかった。歓迎コンパでは、すっかり酔っ払い、サッチモばりに「聖者の行進」を歌い、そのあと嘔吐した。早慶戦が終わったあとは新宿歌舞伎町の広場で大騒ぎした。文学部の裏手から、吉永小百合が出てくるのを目撃した。暑い夏の終わりには、菅平の合宿所にもいった。
 でも、やっぱり半年ほどでやめてしまう。すぐにおなかをこわすカトンボは、カトンボのままだった。いっこうにシャフトがもちあがらない。しかし、やめた理由は肉体改造に成功しなかったからではなく、早稲田を退学して、アメリカに行きたいと思っていたからである。
 こらえ性のない、いつもの空想癖がまた始まった。
 その試みもあっというまに挫折する。アメリカのあちこちの大学に手紙を出した。すると、たいていの大学から「日本の大学を卒業してからにしなさい」と、そっけない返事が戻ってきた。授業料も高かった。当時はまだ1ドル=360円の時代だ。親の負担にも限度がある。ぼくのいつものように無謀でたわいのない空想は、現実の壁を前にして、たちまち雲散霧消する。あとに残ったのは虚無感である。
 どうして突然、退学してアメリカに行きたいなどと思ったのだろう。コンプレックス解消に挑んだものの、みごとに失敗したのはたしかである。だからといって、こんどはアメリカというのは、あまりに発想が飛躍している。でも、そんなことを平気で考えるのが青年期の特徴なのかもしれない。
 授業にはほとんど出なくなっていた。あのころ早稲田では学生運動が盛んで、キャンパスには、「産学協同反対!」とか、何やら「粉砕!」などとペンキで書かれた「立て看」があちこち林立していたが、そもそも学生運動にまるで興味のなかったぼくは、かれらの主張にまるで共感を覚えなかった。大学にも学生運動にもしらけていた。唯一感心したのは、いつみても演説しているふたりだった。ひとりは立て看を前に、いつもハンドマイクで、「われわれは」何とかと叫んでいる。もうひとりは、ツタにおおわれた図書館の前で、黒板を使いながらマルクス主義の誤りを説明している。あの人たちはいまどうしているのだろう。
 クラスの友達に聞くと、早稲田では政経が社青同、法学部と教育学部が民青、文学部が革マルの拠点になっていて、それぞれがしのぎをけずっているという。それに去年は猛烈な大学闘争があったというのだ。そんなことも知らないぼくは、ほんとうに能天気で、人前でうまく話せるようになることと、貧弱な肉体を改造することばかり考えていたのだ。それがうまくいかなくなると、こんどはアメリカ留学を夢想するといった具合で、さらにその計画が雲散霧消すると、自分勝手な淡い虚無感に包まれていたのである。

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