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上に立つ者のいちばんの仕事は?──徂徠『政談』を読む(6) [商品世界論ノート]

 少し間があきましたが、引きつづき『政談』を尾藤正英の抄訳で読んでいます。いよいよ後半の第3部です。ところで、その前にちらっと頭に浮かんだことを書いておきます。近ごろは、思いついたときに書いておかないと、何でもすぐに忘れてしまいますから。
 それは、政治と無関係な純粋経済などというものは存在しないということです。もちろん経済は政治の思惑どおりにはならず、また政治が干渉しすぎることによって萎縮したり逆の効果を生んだりする場合もあります。その点、経済にはおのずから経済の理があるのですが、かといって経済が政治とまるで無関係ということはありえないのです。
 そもそも経済は国の枠にしばられていますよね。国内総生産(GDP)という指標にしてからがそうです。ここで比較されるのは、たとえばアメリカ、中国、日本、あるいはベトナム、エジプト等々のGDPです。もちろんグローバル化の時代ですから、たとえば日本の企業はアメリカ、中国その他多くの国に進出して、経済活動をおこなっています。一見、経済にはすでに国境はないように思えますが、それは各国が他国企業の経済活動を認めているからです。国ごとに規制もあります。
 しかし、それぞれの国が外国籍企業の経済活動を認めないとしたら、どうなるでしょう。世界の経済はいっぺんに縮小するでしょう。それも政治の選択としては、けっしてありえない話ではありません。逆に単一の世界政府が誕生したら、そもそもGDPなどという考え方はまったく意味をなさなくなります。ですから、経済は大きな意味では政治に包摂されているともいえるわけです。
 これは下部構造の経済が上部構造の政治を動かすというマルクスとはちがう考え方ですが、政治がしっかりしていないと経済がめちゃくちゃになるというのもまた真理でしょう。経済とは、そもそも経世済民、もしくは経国済民という意味ですからね。
 とはいえ、あまり政治、政治となると、これも問題があります。スターリンのソ連や毛沢東の中国がそうでした。ただ、政治がすべてではないにせよ、経済もまた大きな意味で政治の一部であることは認識しておいてもよさそうです。資本主義とか社会主義とかいうのも、経済社会のかたちだけではなく、政治体制を指していることはまちがいありません。
 とはいえ、政治はしょせん一種の鏡であって、生活の幅をすべて映しだすことはできないということも知っておくべきでしょう。
 なんで、こんなことを思ったかというと、まさに徂徠自身が、経済を政治としてとらえていたからです。かれにとって、政治をしっかりさせることは、経済をしっかりさせ、社会をしっかりさせることでもありました。
 徂徠の政治は、市場社会の膨張を抑え、人びとが地に足をつけてよく働き、大地の恵みとともに、心豊かに暮らしていく世をつくることでした。
 人びとがそんな生活を保っていくためには、しっかりした統治が必要になると徂徠は考えていました。当時の幕府はどうでしょう。『政談』第3部で徂徠は統治論ないし統治術に踏みこんでいます。
 江戸時代には、幕府の役職とは別に朝廷から授かる官位というものがありました。これが、ちょっと問題をややこしくしていたようです。大名は幕府から所領を安堵してもらっただけではあきたらず、権中将とか正三位とかの位階をさずかろうとして、朝廷に取り入りました。
 徂徠はこんなふうに書いています。

〈大名の中には内心では京都の朝廷を本当の主君と思う者もないとはいえない。幕府に服従しているのは、ただ当分の間、幕府のご威勢を恐れてのことだなどという心情がなくなるのでなければ、世の末になったとき、幕府として安心できないような事態もありうるだろう〉

 この悪い予感は幕末という「世の末」において的中するわけですが、徂徠は朝廷から与えられる官名はただ飾りのものとして、幕府による勲階を重視するようにしなければならないと述べます。つまり、幕府が新たに「勲階」を設けて、朝廷の「位階」を有名無実のものにしようというわけです。
 さらに徂徠は、現在のあいまいな統治機構をあらためるべきだとも書いています。当時は、老中が大名を管理し、若年寄が旗本を管理すると漠然と決められているだけでした。しかも、複数の老中、若年寄は、毎月交代、つまり「月番」で、何か問題があれば、それを処理するかたちになっていました。
 徂徠の提案はなかなか読み取りにくいのですが、こういうあいまいな分担制はやめにして、きちんと部門を分けて、それぞれ担当者を置き、それを老中なり、若年寄なりが統括するべきだという主張だと思います。その部門とは、いまふうにいえば、たとえば朝廷・公家局、寺社局、町方局、年貢(租税)局、裁判局、土木・建築局、軍備局、工芸局といったところでしょうかね。いわば首相が各省の大臣を束ねるような統治体制を考えていたことがわかります。
 次に徂徠は、上に立つ者の態度について述べています。現在のビジネスマンにもあてはまりそうな話で、雑誌「プレジデント」などが好きそうなテーマです。
 徂徠はいいます。

〈執政の職にある者は、言葉づかいや容姿を慎み、下の者に向かって乱暴な口をきかず、無礼にならないようにすることを第一に考えるべきである〉

「執政」とは老中を指すのでしょうが、これを「大臣」や「取締役」に置き換えても、いっこうに差し支えありません。
 こんなふうにも書いています。

〈執政の職は、自分の才知を発揮するのではなく、下の者の才知を活用し、下の者を育成して、有用な人物の多く出るようにするのが、その職分の第一である〉

 もっともなことです。
 村々を支配する代官を賤しい役目と考えず、重い役目とみなすべきだとも語っています。旗本や御家人の次男、三男であっても、能力のある者は、取り立てて立身させるべきだと述べています。
「太平の世が久しくつづくと、能力のある人は下にいて、上層の身分の人は愚かになってゆく」というのが徂徠の見たてでした。「賢才の人はみな低い身分から出ており、世襲の高禄の家からはきわめてまれにしか現れない」とも述べています。太平の世になると、どうしても家柄が重視されるけれども、それでは世の中が沈滞してしまいます。「とにかく下から取り立てて使えば、人は精を出し身を入れて勤めるのが人情」と徂徠は、下からの人材登用を唱えます。
 徂徠は「諸役人の中に器量のある人がいない」と、現在の幕府の政治にかなりの危機感を覚えていました。人は見かけだけでわからず、とにかく使ってみてはじめてわかる、思うがままにやらせてみることが必要だと書いています。

〈上の人のお考えに少しも違わないように、よく主君のお心を知って、主君の分身として働くような人は、みな自分の器量や才知を表に出さず、無理に自分を抑えて主君の考えに合わせているのであって、へつらい、おもねったやり方である。このような人は、身を打ち込んで仕事をしようとはせず、本当の忠義の心はまったくない人で、大悪人であることを知っておかなくてはならない〉

 これもなるほどです。
 徂徠が強調するのは「上の者が自分の意見を抑えて、下の者を立ててやる」ということです。上の者のいちばんだいじな仕事は、才知のある者を選びだすことだとも述べています。一癖ある者にこそ、すぐれた人が多いともいいます。自分と同じ考え方をする者を回りにはべらすのではなく、下の者から人材を求めるよう常に努めなければなりません。
 江戸時代も半ばになると、上下の身分が固定され、下の者が上の者に物申すこともなかなかできない雰囲気になっていました。徂徠は徳川家康を例に挙げます。家康は身分の上下を問わず、気がかりな者をいつも気楽に呼びだしていたといいます。政務について相談したり、その先祖のことを聞いたり、酒を飲ませたり、また重い石を持ちあげさせたり、からかってみたりと、その内容はてんでばらばらでしたが、そのざっくばらんな態度に、徂徠は家康の魅力と器の大きさを感じていたようです。
 暇の効用も説いています。いつも忙しいのを自慢し、仕事が片づいたあとも退出しないようではいけないといいます。「全員が顔をそろえて出仕し、仕事がなくても、仕事があるような顔をしているのが、現代の風俗である」と指摘し、それは「他人の目にどう映るか」を気にして、かえって職務に打ちこんでいない証拠だというわけです。閑暇があって、いろいろ考え、またときどきは学問をするようにしたほうがいい。だいじなのは、下の者を教え育て訓練すること、下の者の面倒をよくみて、とにかく下の者の生活が成り立つようにすること。それに気をつければ、いろんな情報が集まってきて、仕事もうまくいくというわけです。
 このあたりは現代でも通用しそうな訓戒といえるでしょう。

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