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ダニエル・コーエン『21世紀世界を考える』を読んでみる(2) [本]

 原題『悪徳の栄え』の第2部「繰り返される経済的繁栄と危機」を読んでみます。20世紀はどんな時代だったか、それが第2部のテーマです。
 この世紀は、第二次世界大戦の前と後に大きく分けることができます。戦前と戦後といってもよいでしょう。戦前は1929年に世界恐慌が発生し、ワイマール共和国が崩壊して、ナチスが台頭し、世界大戦が勃発します。これに比して、戦後は高度成長の時代が長くつづき、福祉国家が誕生したものの、経済が停滞するとともに、福祉国家の危機がはじまります。
 以下、本書の内容をまとめてみましょう。

 著者はこんなふうに書いています。
 第一次世界大戦後、ヨーロッパは疲弊し、世界の中心はアメリカに移った。フランスはドイツの野望を抑えようとしたが、かえってドイツの反発を招き、ヒトラーが台頭する。1929年の世界恐慌のあおりを受けて、ワイマール共和国が崩壊し、ナチスが政権を握る。
 1920年代にアメリカの経済はめざましく発展する。ラジオ、電気、映画が普及し、石油、自動車、建設がブームを呼び起こした。株式相場は一気に上昇する。ところが1929年に突然のパニックが生じ、株式相場が暴落、失業率は現役世代の25%に達した。アメリカ発の大恐慌は世界中に波及し、世界金融危機を招く。金本位制が崩壊する。
 ケインズの「一般理論」は大恐慌への処方箋となった。「ケインズは、簡素に暮らしていた人類が、資本主義の生み出す富を消費できないことが問題の根源だと考えた。……したがって、不完全雇用から脱出するための手段は単純だ。すなわち、何としても消費することである」。経済政策によって需要を創出することができれば、資本主義はコントロール可能だという考え方が生まれる。
 戦後の高度成長はフランスでも「栄光の30年」と名づけられた。戦争直後、フランスの人口五、六百人の村は、8割が農民で、パンとジャガイモを主食とし、肉を食べるのは週に1回程度、めったに村の外には行かないという生活がふつうだった。それが30年のあいだに一変する。農民の割合は2割ほどになり、サービス業の割合が増え、村に5台しかなかった自動車は300台となり、テレビは2台から200台、洗濯機もゼロから200台に増えた。食べるのにせいいっぱいの村が、生活にゆとりのある村へ変わったのである。
 技術進歩は農業や工業の生産性を高め、あまった労働力をサービス業へふりわけていく。仕事の中心は農業から工業へ、そしてサービス業へと移行し、製造コスト減でモノがあふれかえるなか、人びとはモノを売るのに必死になる。
 だが、高度成長は永遠につづかない。大量生産される商品は消費しきれなくなる。資源やエコロジーの問題もでてきた。アメリカの生活に追いつけという夢はいつしか限界に達する。高度成長は貧しいからこそ可能なのだ。
 ケインズ政策と高度経済成長のもと、戦後、福祉国家が誕生した。それにより、国家が年金や医療、失業、教育など社会保障分野に大きく関与することになる。とりわけ医療費や年金などの面で公的な負担が増大していったが、経済成長が鈍化し、少子高齢化が進むとともに、財政危機が深刻化することになった。家族の絆は崩壊し、福祉国家は財政上の重圧になった。
「幸せとは何か」についてアンケートをすると、だいたいが経済状態、家族、健康という答えが返ってくる。高度経済成長がつづくなかで、人びとは所得が増加することになれっこになってきた。消費ははかないものだが、それでも所得が少しでも減ったときの失望感は大きい。経済が停滞すると、豊かな社会に住んでいても、不満がつのっていく。隣に豪邸が建つと、自分の家はあばら屋にみえてしまうのと同じことだ。アダム・スミスがいうように「人間の欲望とは、われわれの満足や喜びではなく、虚栄心にかかわるものである」。──

 そのほかにも多くの考察がなされていますが、これがほぼ第2部の内容といってよいでしょう。
 こうした歴史の流れをとらえる論述からは、なかなか著者の真意が伝わってこないのですが、それでも20世紀、とりわけ20世紀後半、すなわちわれわれの生きてきた時代は、人類の歴史からみても大変動の時代だったといえます。つまり、どんどん時代が変わっていったのです。
 機械化、省力化がなされ、労働のイメージもずいぶん変わってきました。昔はそれこそチャップリンが「モダンタイムズ」で描いたように、人間が機械に働かされる感もあったのですが、最近はコンピューター化を伴って、人が機械を操作する作業が増えてきたようです。それでも仕事のたいへんさは変わりませんが……。
 ぼく自身の仕事をふり返っても、昔は著者からもらってきた手書きの原稿を赤鉛筆で整理し、原稿枚数を数えて、広告を入れる場所なども決めて割り付けをし、ページ数を確定し、それを印刷所に入稿したものです。すると、印刷所では植字工が活字を拾って、それを枠に組み、ゲラができます。そのゲラを何度か校正して、OKになってから印刷し、製本し、ようやく本ができあがるという工程でした。それがいつしか原稿はフロッピー、さらにはメールでの添付書類に変わって、編集も組版もパソコンの画面で処理するようになり、印刷にしても製本にしても作業がずいぶん楽になりました。おそらく、これと同じような変化が、世界中のあらゆる労働現場で生じたはずです。
 いまはモノがあふれ、それを消費するのさえたいへんな時代になってきました。いま日本で本は読まれないといわれますが、単行本の新刊点数だけでも7万5000点以上と、ものすごい数が出ています。1960年代の7倍近くです。売れなくて、最終的に廃棄される部数も膨大です。それでも出版社が本を出しつづけるのは、そうしなければコマが回転をとめたときのように、会社が倒れてしまうからですね。
 人が想像力の動物である以上、人の欲望はきりがありません。とはいえ、消費できる量はかぎられています。
 西洋化された社会は、恐慌や戦争を乗り越えて、近代化をさらに推し進め、つらい肉体労働を軽減化して、便利なモノがあふれかえる世の中をつくりあげました。国家が医療や年金、教育などに配慮を加えることによって、くらしの不安もずいぶん取り除かれました。人の生活スタイルも一変しました。
 社会がある程度行きつくところまで行ってしまうと、そこには停滞が生じ、そのいっぽうで格差も生まれて、さまざまな不満がつのってきます。
 西洋化した社会はいったいこれからどうなっていくのでしょう。水野和夫さんのいうように、著者は「人類は18世紀以降欧州が辿(たど)って来た道筋を精神的には逆方向に走破すべきだ」と考えているのでしょうか。
 ここまでは、どちらかというと退屈な本です。しかし、脳のリハビリを兼ねて、最後まで読んでみることにしましょう。

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