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渋沢敬三と「屋根裏部屋の博物館」 [旅]

大阪千里の万博公園にある国立民族学博物館には、前から一度行ってみたいと思っていたのですが、今回ようやく立ち寄ることができました。43年ぶりに岡本太郎の「太陽の塔」に出会いました。やっぱり大きいなあ。博物館はその奥にあります。
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本館では世界の文化や生活を紹介する展示が地域別になされていて、来てよかったと思いました。大きなものから小さなものまで、その収集のレベルはなかなかのものです。
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時間があれば、もう少しじっくり見たかったのですが、きょうのお目当ては、特別展示館で開かれている渋沢敬三(1896-1963)没後50年記念事業の「屋根裏部屋の博物館」のほう。「屋根裏部屋の博物館」とは、敬三が命名した「アチックミューゼアム」をわかりやすく表記した言い方ですが、渋沢自身、最初からこの「ミューゼアム」を個人コレクションにとどめるつもりはありませんでした。
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館内にはいると、まずダルマのコレクションが目に飛びこんできます。ミューゼアムの発足は1921年。玩具研究からはじまりました。ものすごい数のダルマや凧が集まりましたが、研究としては、いまひとつまとまらなかったようです。
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渋沢敬三は渋沢栄一の孫として渋沢家を引き継ぎ、銀行家としての道を歩み、戦中、戦後の困難な時代に日銀総裁、大蔵大臣の役職を担いました。しかし、この人には別に学者としての顔があって、とりわけ民俗学方面での業績に見るべきものがあります。
ぼく自身は渋沢敬三が編纂した『渋沢栄一伝記資料』に大きな恩恵を受けました。そのささやかな成果が、「青き淵から──渋沢栄一とその時代」という評伝なのですが、ご興味のある方は拙ホームページ「海神歴史文学館」をご覧ください。
http://www011.upp.so-net.ne.jp/kaijinkimu/huchiqq.html
それはともかくとして、渋沢敬三の興味は、柳田国男などの影響を受けて、玩具研究から次第に民俗学の領域へと移っていきます。ただ柳田が民話や伝説など、いまに継承される民衆の言葉から日本人の起源にさかのぼろうとしたのにたいして、渋沢はもっぱら民具を収集して、そこに民族の生活のよすがを記憶し、残そうとしました。
下の写真はオシラサマですね。その脇には男根をかたどった石神(せきじん、しゃくじん)の数々。みんなりっぱです。
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タコの絵馬もあります。
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渋沢敬三は漁業に強い関心をもっていました。下の写真は魚を捕るためのウケと呼ばれる漁具の数々です。
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北から南まで、漁や農作業のときに着る労働着も数多く集められていました。
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そのほか、アシナカと呼ばれる短い(カカトまでない)草履、わら沓、わら手袋、背負い運搬具、マッチ替わりの付木、トイレで使う捨木などもあって、先祖の生活がしのばれます。
今回、ぼくがとりわけひかれたのは、2階に並べられていた朝鮮半島、台湾、北海道・樺太の展示でした。
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アイヌの人たちはどういう生活をしていたのだろう。かつてオロッコやギリヤークと呼ばれていたウイルタやニヴフの人たちはどうだったのだろう。台湾の原住民族は何を思っていたのだろう。朝鮮半島の人たちは日本人のことを恨んでいたのではないか。そんなことを思いました。
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そして、渋沢敬三が樺太を除いて、これらの場所にみずから足を運んでいたことを知ったのも、いまさらとはいえ、ちょっとしたおどろきでした。
おそらく、こうした民具の数々は、もしかれが収集していなければ、その後の近代化や戦争などによって失われていたにちがいありません。
言い換えれば、高級文化はともかく生活文化はあっという間に変化していくものなのです。
商品世界が広がる前の暮らしぶりを保存すること、それは単なる郷愁に終わるのではなく、未来を開く知恵につながるはずだと、渋沢敬三は信じていたにちがいありません。いい展覧会を見せてもらいました。
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