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ダッハウにて──夏の旅(7) [旅]

[2013年8月14日(水)]
 きょうはミュンヘンを出発して、ロマンティック街道沿いの町、ローテンブルクに向かうことになっています。しかし、日本で旅行の計画を練っているとき、ぼくの目に突然ダッハウの文字が飛びこんできました。ナチスのつくった最初の強制収容所があった場所です。
 収容所建設を計画したのはヒトラーの側近で、親衛隊(SS)の指導者となるハインリヒ・ヒムラーでした。
 子ども連れの観光にはなじまないかもしれないけれど、なんとか旅程に組みこんでもらったという次第です。
 車でミュンヘンのホテルを9時すぎに出発して、10時前に到着しました。ですから、ミュンヘンのごく郊外ですね。おそらく当時のミュンヘンっ子は、こんな近くに何万人ものユダヤ人を強制収容した場所があるとは知らなかったでしょう。
 ダッハウ収容所がつくられたのは1933年。最初はナチスに反対する政治犯が中心でした。しかし、戦争がはじまるとユダヤ人が増えてきます。収容者の累計はユダヤ人を中心に20万人にのぼり、そのうち3万2000人が殺害され、1万人が病気や自殺で亡くなったといわれます。
 アウシュヴィッツとちがうのは、ガス室がつくられたものの、それが使用されなかったことです。ただ、ここでも人体実験がおこなわれていました。銃殺と絞首刑、懲罰は日常化していました。
 このダッハウ収容所を1945年4月に解放したのは、実は米軍442連隊に属する日系アメリカ人の一団です。そのことが知られるようになったのは、ごく最近のことだといいます。
 ただし、その際、別の米軍部隊が、ドイツ人の収容所職員や戦争捕虜を虐殺する事件もおきたことは公平に記しておくべきでしょう。
 収容所跡地は現在バイエルン・メモリアル財団によって保全され、その歴史と全容を示す数々のパネルも展示されています。こうした戦争の負の遺産を無料で公開するところに、ドイツと日本のちがいを見たような思いがしました。
 下の写真は収容所のゲートです。ARBEIT MACHT FREIという標語が刻まれています。直訳すれば「労働が自由を生みだす」。なんとも皮肉な標語ではないでしょうか。収容所の労働が、収容所からの解放と結びつくはずがないからです。しかし、もし世界が実は牢獄だったとしたら……。
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 ゲートをはいったところは広場になっていて、左側にバラックが2棟立っています。これは当時の建物を復元したものだといいます。
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 しかし、まずは右側の追悼記念館に向かいます。
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 その内部は展示室になっていて、いくつもの黒いボードに当時の写真がパネル状に貼られています。拷問を受けて、苦痛に顔をゆがめる男性の写真でしょうか。解放を喜ぶ人びとの写真もあります。かと思うと、無造作に積まれた死体も。
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 展示室は何部屋にもわたっています。ナチスが政権を奪取し、ドイツが無条件降伏するまでの歴史が紹介されているかと思えば、ナチス占領地全域にわたる収容所跡の地図、そしてダッハウに収用され処刑された人びとの写真もあります。時間がなかったので、通りすぎただけでしたが、記録フィルムを上映している部屋もありました。
 この記念館はいまでこそ歴史資料館になっていますが、列車でここまで運ばれた収容者は、このあたりの建物で、身につけたものを没収され、裸にされて、囚人服を着せられ、バラックへと連れていかれたのでしょう。
 団体で見学に来たと思われる中学生くらいの女子生徒が、身につまされたのか、泣きじゃくっている姿を見かけました。それを回りの子どもたちがなぐさめています。ドイツではナチスの悪虐ぶりが、包み隠さず歴史の記憶として若い世代に伝えられていることが印象的です。
 バラック棟のなかには、収容された人たちの使った3段ベッドが再現されています。ほかに洗面所やトイレも復元されていましたが、そこから当時の息詰まる様子を思い浮かべるのは無理というものです。
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 かつてダッハウ強制収容所には30以上のバラックが建てられていましたが、いまはかろうじてその跡がわかるだけです。右に見えるのは、再建された監視塔ですね。左側のポプラ並木は、昔はごく背が低かったはずです。
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 バラック跡をすぎて、左に抜けると、小さなせせらぎがあり、その向こうに煙突のついた煉瓦造りのこざっぱりした建物が、さりげなく立っていました。
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 なかをのぞいて、ぎくっとします。焼却炉が置かれていたのです。ここで遺体が焼かれていたのはまちがいありません。
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 その隣にあったのがガス室です。ダッハウでは用いられたことがなかったとはいえ、大量虐殺の準備だけは着々と進められていたのです。
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「わたしたちは、おそらくこれまでどの時代の人間も知らなかった『人間』を知った。では、この人間とはなにものか。人間とは、人間とはなにかを常に決定する存在だ。人間とは、ガス室を発明した存在だ。しかし、同時にガス室に入っても毅然として祈りのことばを口にする存在でもあるのだ」
 アウシュヴィッツをへて、ここダッハウで解放されたヴィクトール・フランクルは著書『夜と霧』のなかで、そう書いています。

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