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救貧税をめぐって──リカード『経済学および課税の原理』を読む(8) [商品世界論ノート]

 残念ながら、リカードの租税論は、経済原理論とくらべて、さほどおもしろいものとは思えません。それはたぶん国家とは何か、そしてそもそも税金はなんのために必要なのかという考察を欠いているためでしょう。リカードは租税はもっぱら分配論の視点から検討しており、税を所得の再分配としてとらえる考え方もなかったようにみえます。
 リカードは現代流にいえば、税を消費税(農産物や贅沢品への課税)、所得税(地代税の一部、利潤税の一部、賃金税)、固定資産税(地租、家屋税)、法人税(地代税、利潤税)、福祉税(救貧税)として、分けようとしています。そして、そうした課税が分配面、すなわち地代、利潤、賃金にどのような影響をおよぼすかを検討するわけです。かれの分析によれば、課税によっていちばんマイナスの影響を受けるのは利潤であって、地代による貨幣収入はかえって多くなることもあり、賃金はまったく影響を受けないということになります。
 そこから得られる結論は何かというと、国家は過剰な税によって経済社会の自律的な発展を阻害するということです。
 しかし、その前に、まだ紹介していなかった利潤と賃金に対する税についてのリカードの考え方をごく簡単にまとめておくことにしましょう。
 まず利潤税について。リカードは利潤への課税は、製品の価格を上げることになるといいます。そして、その課税が農産物だけではなく、すべての商品から得られる利潤を対象とするなら、全製品の価格は上昇し、全面的な物価上昇が生じることになるといいます。
 その場合、この税を負担するのは、消費者なのでしょうか、それとも事業家なのでしょうか。リカードの規定では、労働者の賃金は、物価の上昇にともなって、最低生活費分が補填されます。すると、けっきょく利潤への課税は、事業家への負担となって、「彼らの失った分だけ政府は得る」という関係になります。課税の分だけ、資本家が自由に処分できる分は減るわけです。
 農業経営者もほかの事業家と同様、利潤税によって税負担を負うことになるのはいうまでもありません。しかし、リカードによると、地主(貴族)は、かえって多くの貨幣地代を獲得し、利潤税の転嫁をまぬかれることができるというのです。
 それでは賃金税はどうでしょう。賃金税は利潤税と同じだとリカードはいいます。なぜなら、賃金への課税は、労働賃金を引き上げ、利潤を減少させることになるからです。賃金への税金を負担するのは労働者のようにみえて、けっきょくは資本家だというのがリカードの見方です。つまり賃金税は、全面的に利潤へと転嫁されるわけですね。
 リカードが救貧法に反対していたことは前にも書きました。時のイギリス政府は増大する窮民を救うために、地主や事業家に大幅な救貧税を課していました。リカードはとりわけ、この税制が資本家の利潤と地主の地代におよぼす影響が大きすぎると批判しています。
 それでは、なぜ19世紀のはじめ、イギリスではなぜ救貧税の負担がそれほどまで増えていたのでしょう。その背景をすこしふり返っておきましょうか。
 ナポレオン戦争がイギリス社会にもたらしたのは、パン価格の高騰でした。その結果、皮肉なことに、借地農業経営者や自由土地保有農家、それに地主貴族や十分の一税を受け取る教会はじゅうぶんな利益を得ました。しかし、都市と農村の貧民が、大いに苦しんだのはいうまでもありません。
「貧民は戦争で損害をこうむった。しかしながら、土地所有ジェントリーがこの時期以上に富裕かつ幸福で、彼らの心地よい田舎の邸宅での生活にこの時期以上に熱中した時はなかった」
 イギリスの歴史家G・M・トレヴェリアンは、『イギリス社会史』のなかで、そう書いています。
 トレヴェリアンにいわせれば、銀行家や商人、大富豪にとって、戦争は「賭博」でした。つまり、もうける者も損をする者もいたのですが、どちらかというと儲ける者のほうが多かったでしょう。
 そのころ、イングランド北部には「ぞっとするような」工場地帯が生まれ、ロンドン市中は快適な環境とはほど遠いスラム街が広がっていました。イギリスは産業革命前夜にあります。
 村は変わりつつあります。農業がビジネスになろうとしていたのです。職人たちは村を去ります。農地の囲い込みによって、村を追われた人びとは、農家の労働者になるか、さもなければ工場地帯や鉱山に流浪するか、あるいは「都市のちりあくたの中に放りこまれ」ていきました。
 ナポレオン戦争はイギリスに「石炭と鉄」の時代の扉を開くことになります。しかし、近代的な工場労働者はまだ登場したばかりです。トレヴェリアンによれば、「農業労働者と小さな作業所の製造業者が、まだしばらくのあいだは鉱夫や工場労働者を数で圧倒していた」という状況です。あちこち作業所を移動しながら、運河や道路(のちには鉄道やトンネル)をつくったりする「土工人夫」と呼ばれる「非熟練労働者の大群」が国じゅうにあふれていました。
 そんなとき、1795年に「スピーナムランド制」が採用されます。ちなみに、スピーナムランドとはロンドンから80キロほど西にあるニューベリー北郊の地名です。これは一種の窮民対策で、教区の教会がパンの価格の上昇に応じて、労働者の最低賃金を補償するという制度です。スピーナムランドで会合を開いて、つくられたために「スピーナムランド制」と呼ばれたわけですね。
 これはフランスのような暴動と革命が起こらないようにするための苦肉の治安対策だったかもしれません。この制度が実施されたのはイングランド南部だけで、マンチェスターなど工場地帯のある北部では採用されませんでした。しかし、そのころから窮民の数は増えつづけ、救貧税に対する負担も大きくなってきたのです。それがより重く感じられるようになったのは、ナポレオン戦争が終わって、イギリスで戦後不況が深刻化しはじめたときでした。
 リカードの『経済学および課税の原理』は、まさにこうした時期に書かれています。
 リカードはどうしてスピーナムランド制に代表される救貧制度に反対したのでしょう。その理由ははっきりしています。かれは救貧税が資本家の利潤を圧迫し、国の経済成長を遅らせると考えていたのでしょう。理由はもうひとつあります。かれは国の救貧制度が、かえって貧民を貧しい状態にしばりつけ、そこからの脱出を妨げてしまうと思っていたのです。
 国は貧民を救うことはできない。それがリカードの信念でした。働く機会が増えるなかでしか、貧困からの脱出方法は見つからない。そのためには資本が蓄積され、多くの商品が生みだされ、多くの労働者が雇用されることが必要になってきます。国による過剰な税は、そうした資本の発展を阻害するとリカードは考えたのです。
 リカードは難解で、陰鬱な気分にさせるといわれますが、かれの理論がむずかしい時代にあって、一面、光をえがこうとしていたのは事実です。むしろ、きたるべき「資本の時代」に期待を寄せすぎていたといえるかもしれません。事実ははたしてどう動いていったのか、われわれはその後の歴史をたどっていくしかありません。

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