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地中海の貿易をみてみよう──ブローデル『地中海』を読む(8) [商品世界論ノート]

 第Ⅱ部第3章「経済──商業と運輸」をごくごく簡単にまとめてみることにします。ここで記述されているのは地中海でのコショウ貿易と小麦の輸送、そして北ヨーロッパの船の進出についてです。
(1)コショウ貿易
 ポルトガルは1488年に喜望峰を周航し、1498年にインドに到達しました。それからインド洋の制海権を確保し、香辛料(おもにコショウ)貿易を独占したかにみえました。16世紀はじめ、それまでコショウ貿易をになってきたヴェネツィアはパニックにおちいります。
 ヨーロッパにコショウがはいってきたのは中世で、コショウは以来、肉料理には欠かせない素材となりました。原産地はインド南西部ですが、モルッカ諸島(現インドネシア)では早くからコショウをはじめとする香辛料の栽培がおこなわれていました。ヨーロッパ人はヨーロッパでは栽培できないコショウを求めて、アジアに進出したといってもいいくらいです。それまでコショウを仲介していたイスラム商人を排除して、ヨーロッパ人の手でそれを独占したいと思ったのです。最初にその冒険に乗りだしたのがポルトガルでした。
 ブローデルをはずれて、よけいなことを書くと、商品はいまここに存在しないものを現出させることで、みずからがもたないものへの所有欲を刺激するという仕掛けをもっています。言い換えると、それを持つことによってみずからの生活がより多く満たされ、より幸福感を得られるという幻想(見通し)を与えるのが、商品の魔力といえば、魔力です。遠方にあって、みずから生みだせないものが、手にはいる近くまでやってくるというところに商品は成立するわけですね。そこでは商品がつくられ、運ばれる過程はブラックボックスになっていて、購買者の目の前に並べられているのは、いわばかたちを整えられた商品なのです。そのブラックボックスのなかで何がおこなわれているかは、いわば秘密に包まれています。その秘密を動かす者が、商品の実権を握るというわけです。
 よしなしごとはともかくとして、結果からいえば、ポルトガル人はコショウ貿易を完全に手中に収めることはできませんでした。ポルトガル帝国は点と線であまりにも遠くまで広がり、それを維持するのがむずかしかったのです。ホルムズ海峡も紅海の入り口も押さえることはできませんでした。そのためイスラム商人の船は相変わらず香辛料を積んでイラクやエジプト、アラビアにやってきます。そこはオスマン帝国の領土であり、そこからコショウはアレッポやトリポリ、カイロ(アレクサンドリア)などを経て、ヴェネツィアに送られるわけです。
 こうした東方(レヴァント)貿易は16世紀半ばにはすでに勢力を盛り返していました。コショウはその半分が中東で消費され、残りの半分がヨーロッパに送られます。「リスボンより多い量の香辛料と胡椒が紅海を通過する」とブローデルは書いています。世界貿易のなかで、香辛料貿易が17世紀までもっとも重要なものだったというのはおどろきですが、ポルトガルのアジア進出がたちどころに香辛料貿易の独占につながったわけではないということを頭に入れておいたほうがいいでしょう。
 たとえば、1561年にヴェネツィアのある船がアレクサンドリアとどのような交易をおこなっていたかを示すデータが残されています。この船が運んできたのは「銅の原石、延べ棒、加工した銅、毛織物、羊毛、絹、カージー(織物)、ベレー帽、サンゴ、リュウゼンコウ、装飾品、米、現金」、これにたいしアレクサンドリアから積みだしたものは「コショウ、ショウガ、シナモン、ナツメグ、クローブ、香、アラビア糊、砂糖、白檀の木、その他無数の商品」というわけです。こうしたリストをみれば、東方貿易の実態が、ある程度つかめますね。現金というのはもちろんお札ではなく、金貨です。いずれにせよ、16世紀半ばには、ポルトガルにたいするヴェネツィアの反撃が功を奏していたことがうかがえます。
 インド洋ではトルコとポルトガルが激しく争っています。その勢力争いの推移によってコショウ貿易は大きな影響を受けました。ポルトガルの勢いが強くなると、レヴァント貿易は中断されるわけではないにせよ、ポルトガルのコショウが盛り返して、ヴェネツィアが圧迫される結果になります。
 16世紀において、地中海のコショウ貿易は要するにヴェネツィアの利権をどのように崩すかをめぐって争われたといってもよいでしょう。まずポルトガルはミラノ、ナポリ、シチリア、アントワープなどにコショウを売りこみ、ヴェネツィアの商圏を奪おうとします。さらにトスカーナのメディチ家は、ポルトガルからコショウ専売権を手に入れようとして失敗します。そして、スペインのフェリペ2世もポルトガルとそのアジア交易を管理下におこうと画策し、王朝の断絶を機に、ついに1580年にポルトガルを併合するにいたるのです。
 ところが、ポルトガルを併合したスペインは、1585年にヴェネツィアに奇妙な提案をします。それはポルトガルが貿易で取得したコショウを買わないかというものです。もし、この提案を受け入れれば、レヴァント貿易自体に甚大な影響を与えるでしょう。ヴェネツィアは迷ったあげく、この提案を拒否します。スペインはミラノ、ジェノヴァ、フィレンツェにも働きかけますが、どの都市もこの提案を受け入れませんでした。スペインの勢力がさらに拡大するのを恐れていたからだといってよいでしょう。
 スペインがイタリアの諸都市にこうした提案をしたのは、リスボンにコショウを買いつけにくるオランダ人を排除するためでした。しかし、イタリアの国々との交渉がまとまらなかったため、コショウはドイツのフッガー家やヴェルザー家、それにイタリアやスペインの商人に売られることになり、売買契約が結ばれます。しかし、リスボンからフランドル、イギリス、ドイツにコショウを運ぶことは次第に困難になっていきます。というのも1588年にスペインの無敵艦隊がイングランドに敗れたため、大西洋での航海が危険なものになったからです。こうして、コショウはレヴァント貿易とポルトガルの分まで含めて、またも地中海に集まってくることになるのです。
 オランダ人は1596年にはじめてインド洋に到来し、1625年にインド洋を制圧するにいたります。逆に、それまで香辛料貿易は中東にたいして開かれていたわけです。その後、オランダにつづいて、イギリスとフランスがやってきて、インド洋はいよいよヨーロッパの勢力圏に組みこまれていきます。
 しかし、16世紀末の段階では、まだ伝統的な交易が生き残っていました。地中海はアジアとヨーロッパを結ぶ交易路として、まだ中心的な位置を保っています。「1600年には、香辛料と胡椒に関して、大西洋ルートの勝利は完璧ではない。……地中海の敗北は、17世紀が始まるときにはもうそれほど遠くないが、……地中海はまだ完全に敗北を喫しているわけではない」と、ブローデルは書いています。さらに、「1550年から1620年まで、胡椒と香辛料が地中海を通過するとすれば、それはアメリカ大陸の銀が長年にわたって最後は地中海に行き着くからではないのか」ともいいます。つまり、16世紀はまだ「金はまだ胡椒のあるところに行く」という時代だったのです。

(2)地中海内部の小麦の動き
 基本的に食糧は生産地域の周辺で消費されます。それは小麦も同じです。しかし、都市にとって小麦はなくてはならない商品でした。それがなければ都市は存続できないのですから、小麦は地中海を支える根幹的な食糧だといってよいでしょう。そのいっぽうで、人口が増えたり天候の影響があったりして、小麦はいつも不足していたともいえます。そのため小麦は何かの拍子で商品になったわけではなく、最初から常に大きな商品として地中海内の交易に組みこまれていたのです。それを操っていたのが大都市の商人でした。
 小麦の品質は高級品から低級品までさまざまです。たとえばシチリアの小麦は高級ですが、レヴァントの小麦は質が悪いと相場が決まっています。金持ちと貧乏人とでは食べる小麦がちがいます。そうした差が、小麦をさまざまな等級をもつ商品としてきわだたせるともいえます。
 小麦の取引はなかなか複雑でした。といっても、原則自体は単純です。「つまり仕入れ可能な過剰小麦を、豊作の年から不作の年へと移し、さらに豊作の地域から不作の地域へと移すことである」とブローデルは書いています。もっとも小麦には投機の要素がつきまといますし、政府にとってはだいじな税収源となります。冬の洪水、夏の干魃は収穫に影響を与え、それによって価格も大きく変動します。価格ははねあがるかと思うと、急に値崩れをおこしたりします。
 小麦の特徴は重い商品だということです。したがって輸送費がかさみます。輸送の結果、時にその価格は最初の4倍に膨れることもあります。輸送費を抑えるため、輸送にはできるだけ水路が用いられました。「バレンシア、スペイン、ジェノヴァ、ローマで、人々はエジプト産小麦やエーゲ海産小麦を食べている」。こうしたことがおこるのも、小麦が海路で運ばれるからですね。
 小麦貿易の拠点はすべて海か川の沿岸にあります。シチリアでも小麦の積み出し港はとりわけ南部に集中し、その場所は昔から決まっていました。それを統轄しているのがパレルモで、王はこの小麦に大きな税金をかけました。その小麦を扱う者には「預かり札」が発行され、この「預かり札」が売られたり、またにせの札まで登場したり、あげくのはてには空売りまでがおこなわれたりと、このあたり穀物取引は、非常にややこしいことになってきます。
 ブローデルは南ヨーロッパの小麦だけでは、地域の小麦需要はまかなえなかったと書いています。「特に[16]世紀半ばには、西欧の暮らしはレヴァントから送られてくるものによって均衡が保たれる」。エジプト、マケドニア、ブルガリア、ルーマニア、そしてトルコの小麦です。ただしルーマニアの小麦はおもにイスタンブールに流れ、トルコ小麦はトルコ皇帝の許可がなければ搬出できません。そこで多島海(エーゲ海)では、もぐりの小麦取引が横行することになります。
 食料不足がめだってくるのは16世紀後半からです。おそらく人口が増えたことが危機の原因です。そのため、よけいに商品としての小麦が遠方から輸入されねばなりませんでした。
 そこで、北ヨーロッパの小麦が浮上します。ポルトガル人は最初モロッコ平野に進出し、その小麦を押さえましたが、それよりも外から小麦を買ったほうが手っ取り早いと気づきます。そこでとりいれられたのが、フランドルの小麦です。スペインの小麦は世紀半ばまで順調で、むしろだぶついていました。しかし、世紀後半になると変化がおこって、アンダルシアの小麦だけでは国内の求めに応えられなくなり、そこで北ヨーロッパの小麦がスペインにはいってくることになるのです。
 スペイン経済は「おそらく1580-1590年代ごろに全体として急旋回した」とブローデルは書いています。その影響はまず農業にあらわれ、村が衰退し、人びとは都市部や海外に流れていきます。スペインにとって外国小麦の移入は国の衰えの前兆となりました。
 16世紀半ばにはトルコ小麦がブームになりました。これはイタリアの農業が不作になり、人口が増えたうえに物価が上がったためです。このときイタリアは銀を支払って、ヴェネツィアやラグーザの船でレヴァントから小麦を取り寄せます。そこにはトルコのナーヴェ商船も加わります。トルコの小麦は需要過多になり値上がりしました。
 この貿易がうまくいかなくなるのは、トルコで食料供が切迫する時代がやってくるからです。とりわけイスタンブールでは食料難と物価高が町を襲い、ついにペストまで発生するという始末です。1560代以降、トルコには大きな変化が生じ、食料に関するかぎり、レヴァント貿易は一時閉ざされてしまいます。
 そこで1560年代から90年にかけて、イタリアは国内の食料でしのぐことになります。豆類や雑穀が貧乏人の食糧の足しになります。いっぽうで国内の増産がはじまります。「丘陵の整備、山の傾斜地の征服、あらゆる規模の平野の浄化、田畑と放牧地の分割、田畑が放牧地と放牧地の養う家畜を押し退けていく」というわけです。農村の光景が変わっていきました。丘が耕作され、クリやオリーブ、ブドウが植えられ、農業は沼地の平野へと向かっていきます。16世紀後半は大規模な農業開発の時代でした。
 それでも食糧危機は完全に解決されたわけではありません。「取引は必要という星のもとに生まれる」というわけです。フランドルやポーランドから小麦が輸入されます。支払いは銀でおこなわれますが、遠くからの小麦の運搬にはリスクもともないます。
  しかし、とブローデルは書いています。
〈しかし、1590年に始まった危機は、絶え間なく続いたわけではない。新しい世紀に入るにつれて、危機はやわらぎ、イタリアと内海は補助的なものしか受け取らず、相変わらず自給自足を続けている。1600年以降は、トウモロコシが大いに助けになっていくのである〉

(3)北ヨーロッパからの船
15世紀半ばから16世紀半ばにかけて地中海にやってきた北ヨーロッパの船は、イベリア海岸の運輸業者、とりわけスペイン北部のバスク(ビスカヤ人)商人でした。かれらはジブラルタル海峡を越えて、ジェノヴァからキオス島(ギリシャ)まで航行し、さらにイギリス、フランドルまで船を走らせました。ポルトガルの帆船や海賊もまた地中海にやってきます。ビスカヤ人とポルトガル人が運んできたのはおもに砂糖です。
 11世紀から12世紀にかけ、ノルマン人はシチリアを征服しますが、この世紀に地中海にはいってくるノルマン人はきわめてまれになっています。それはブルターニュのブルトン人も同じです。フランドルの船はその9割がオランダの船ですが、その数は16世紀には少なくなっていました。
 逆にイギリスの船は徐々に増えていきます。16世紀はじめ、地中海にイギリスから鉛、錫、塩漬け魚、毛織物などの商品がやってきます。イギリスの船はシチリアやキプロス、トリポリ、ベイルートにまで航行し、地中海からコショウ、香辛料、絹、ワイン、オリーブ油、綿、じゅうたんなどを持ち帰ります。たがいに足りないもの、めずらしいものを、物々交換しているみたいな感じですね。そのイギリス船が集合するのがギリシャのキオス(ヒオス)島でした。
 こうした海運は1511年から1534年にかけてもっとも繁盛し、その後も1552年までつづきましたが、そのあと突然20年間ほど中断されます。中断の理由は、おそらく採算がとれなくなったためだろうと、ブローデルはみています。
 1553年から73年までの約20年間、北ヨーロッパの船が突然いなくなり、地中海はふたたびラグーザかヴェネツィアの船によって満たされたとブローデルは記しています。もちろんジェノヴァやフィレンツェの船も動いています。この時期は経済の後退期にあたっていたのでしょうか。しかし、それがすぎると、以前にもましてイギリスの船が、そしてオランダの船が大挙して地中海に戻ってきます。
 イギリス船が運んできたものは、毛織物、鉛、錫、そしてニシン、タラ、サケの樽といったところです。鉛と錫の需要が高まったのは、このころブロンズの大砲が鉄製の大砲に変わりつつあったからです。イギリス人が地中海に戻ってきたのはトスカーナ大公やジェノヴァの銀行家の要請に応えたからだといいます。ヴェネツィア人もまたこの時期、北ヨーロッパの船と船員を雇おうとしていました。それが地中海に北ヨーロッパの船が戻ってきた理由だといいます。
 地中海に戻ってきたイギリス人の目的はレヴァント貿易を手に入れるためでした。1581年にエリザベス女王は独占的な「レヴァント会社」の設立を認めます。この会社は15隻の船と790人の船員をかかえており、大きな利益を挙げることになります。
 スペインとの敵対、バーバリー海賊の脅威、ヴェネツィアのかたくなさをくぐりぬけながら、イギリス人は持ち前の組織力と誠実さで、レヴァント貿易を成功に導きます。そして、その延長上につくられたのが「東インド会社」なのですが、これはまたその後の別の物語となります。
 イギリス人が地中海に復帰したのは、錫が求められたためですが、オランダが地中海にやってきたのは、食糧危機にさいして小麦を運ぶためだったといわれます。トスカーナ大公がオランダに小麦船を要請するのは1591年のことです。そのとき小麦を集めたのはハンザ同盟加盟都市でしたが、ハンザ同盟はその後、地中海貿易から脱落して、オランダだけが勝利を収めます。オランダは精力的にレヴァントでの絹と綿糸の交易に加わります。イギリスと同じく時に海賊行為も辞しませんでした。
 スペインがアメリカ大陸からもたらした銀を吸い上げていたのはオランダでした。このあたりの構造はもう少し分析してみる必要があります。イギリスがスペインの無敵艦隊を打ち破ると、「オランダはただちにその国民、貿易、船を遠く東インド諸島、中国にまで、そして全世界に送った」とブローデルは書いています。弱体化したスペインの跡目をねらったわけですね。イギリスが地中海にはいりこんでいるうちに、オランダは先駆けてアジアとアメリカに向かいます。そのことが、おそらく17世紀半ばまで、オランダを世界の覇者とするわけです。
 スペインはそのころジェノヴァから見捨てられ、破産寸前になっていました。どうしてこのような事態が生じたかについては、また別の説明が必要でしょう。

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