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「南方マンダラ」前置き──南方熊楠アトランダム(4) [本]

 南方熊楠は1900(明治33)年にイギリスから帰国したものの、ていよく和歌山の実家から追いだされて、1902年に那智にこもり、熊野で植物調査をはじめます。
 1903(明治36)年7月18日付の土宜法龍にあてた実に長い手紙──文庫版で70ページ──は、那智時代に書かれたもので、まだ結婚していない熊楠は数えで37歳になっていました。ロンドン時代と同様、日本に戻ってきてからも、京都にいた法龍と手紙のやりとりはつづいています。年上の法龍を「米虫」(ごくつぶし)などと呼んで、口の悪いのはあいかわらず。しかし、ふたりのあいだには仲間意識があり、年下の熊楠のほうが、いろいろ教えてやるとふんぞり返っているのは、ゴーマンというより、どこかユーモラスな印象さえ受けます。
 きょう取りあげるのは、「南方マンダラ」の一節を含む有名な書簡ですが、例によって与太話が満載されています。3日間徹夜作業をした合間に書かれたため、ちょっとトリップ状態になっているところもあって、なかなか難解です。いずれにせよ超長文の書簡ですから、それを細かく解説するのは無理です。できるだけ簡単に紹介するにとどめましょう。
 熊楠はこのところ、イギリスの雑誌に載せる原稿を書いたり、英訳の『方丈記』をブラッシュアップしたりする仕事をしていました。手紙を書きはじめたのは、「滝の祭」の日でした。いわゆる「那智の火祭」ですね。姪っ子の楠枝が14歳になって、歌をよく詠むようになったことを熊楠は手放しで喜んでいます。そのあと女子が優秀なのに、自分の兄弟にはろくな者がいないとバッサリ。兄弟からよほど邪険にされていたのでしょう。
 それはともかく、熊楠はイタリアの説話をひいて、世間のことは表向きに見えることと、裏底の実相とは異なると指摘しています。とくにあやしいのは、小才がきいて、田辺で新聞などを発行し、それにつまらぬことを書きつらね、地元の名士面をしているやつで、そんなやつほど裏でなにをやっているかわからぬと熊楠はいいます。この新聞発行者が、熊楠は春画の愛好家で、酒ばかりくらっているとうわさしているのは先刻承知していました。しかし、わしはイギリスに長くとどまって、英国紳士ぶりを学んだので、礼法の何たるかはよくわかっているつもりだと反論します。
 日本の礼式の欠点は、いわゆる「おもてなし」の押しつけで、それをことわるとかえってうらまれたりする、人の都合をちっとも考えてくれない、と熊楠はいいます。礼式のこまかい国は、実は礼を知らぬ者が多い国なのだ、とも。人から教えられた風儀にこだわるあまり、自分の知らぬことはうそだ、ほらだと思い、自分で考えてみようともしない。そのくせ根掘り葉掘り聞こうとするのだから、警察の尋問を受けているみたいで、会話というものが、まったく成立しない。そして、そのあと人を評して、なにかとうわさをすると熊楠の怒りは収まりません。
 小生は平生、人とむやみに交わるのは好まないけれども、いったん交われば、たとえその人がどんなに落ちぶれても見捨てたりはしない。ところが、わが国の人は調子よく人とまじわり、具合が悪くなるとてのひらを返したように知らぬふりをしたりする。そのくせ、ちょっといい顔をすると、大挙して押し寄せて、あれこれと聞いて、うわさを広める。だから、ついついめんどくさくなって春画などをみせると、それがまたうわさになって広がっていくと、熊楠はいささか困り気味。
 しかし、日本の春画はよくできている、と熊楠はついホンネをもらします。日本が海外にほこるべきものは春画だとまでいっています。日の本は岩戸神楽の始まりより女ならでは夜の明けぬ国だ。人の世から色事を取り去れば、のこるところは枯桑死灰のみ。したがって、わしのように女を知らぬ者でも、人情を知るためには、春画の研究は欠かせない。日本のようなやたら無骨で世知がらい国にあっては、わしは春画を愛好する者が少ないのを残念と思うとまで、熊楠は記しています。
 そんなふうに熊楠の書簡は愉快に思うがままに、あちこち飛びながらつづくのですが、その道筋をこまかく追っていては、とても本論にいきつきません。そこで、大幅にはしょりますが、与太話が多いのはいたしかたありません。
 真言僧の法龍に向かって、熊楠は東西の僧は概して女犯を禁じられているが、それによって性欲がゆがんだかたちで噴出することが多いと論じています。そんなことで教義にも身がはいらぬくらいなら、ある書にいうごとく「これを禁ずるあたわざれば、よろしくこれをほしいままにすべし」とまでいっています。これは淫行の勧めというわけではありません。そうではなくて、おそらく熊楠は人間にとって性という現象はきわめて重要であって、それ自体ひとつの「不思議」だと考えていたのでしょう。
 また熊楠は、海外で学問をするのが忙しかったから、自分は女を知る機会がなかったけれど、できれば女も知り、学問もできるほうがいいに決まっていると断言しています。しかし、人の気持ちも知らぬ破戒僧はくそくらえだ、とも付け加えます。
 熊楠はまた自分がめずらしい植物を見つけたりして、それをちょっとでも口外すれば、その情報がたちまち広がって、カネになるかもしれないとばかりに、稀少植物が取り尽くされてしまう日本の民度の低さを嘆いています。
 そのいっぽうで、田辺の旧家で、大福長者として知られる歌人の人となりをほめたたえたりもしています。この人は熊楠の亡くなった父の友人で、そのため熊楠を田辺に呼んで、歓待してくれたようです。その長女はすでに結婚していましたが、熊楠はその次女にほれこみました。歌もうまかったようで、那智にいる熊楠と歌のやりとりもしています。といっても、話はただそれだけのことで、この女性とは結ばれることがありません。
 ここで熊楠が思い浮かべるのは、いわゆる騎士道精神のことです。騎士あるいは武士が一人の女を胸に秘めて、武道にはげむ。熊楠はそういう修行のあり方も悪くないと思っていました。
 いつまでもぶらぶらしているのはよくないというので、熊楠にはそろそろ結婚話ももちこまれていたようです。実際に結婚するのは3年後の40歳のときですが、この手紙を書いた時点では、それほど煮詰まっていたわけではありません。
 熊楠は田辺の町が気に入っていました。町屋と芸者屋が入りまじっているところもおもしろいといっています。別に自分は芸者が好きなわけではないがとことわりつつ、ある日、友人と酒を飲んでいたら、芸者がやってきたので、踊りを所望したら、それが実に上手だったと書いています。陸奥宗光ともゆかりがあるというその芸者は杉村愛子という名前で、身の上を聞くと、あまりにあわれで、熊楠はつい大阪の豪商からもらったバイオレットの香水を与えたりしています。こんなふうに自分は稲にイナゴがつくように、女に慕われてこまるんじゃと、熊楠が法龍にいささか自慢げに書いているのはほほえましいですね。
 ここで熊楠がもちだすのは、江戸儒教の創始者、藤原惺窩(せいか)の話です。惺窩は出家にはろくな者がいないと思って、還俗し、儒者になったのですが、このときあいつは肉食妻帯したいがために還俗するのだといわれたら、後輩のためにならないと考え、肉食妻帯を辛抱して、勉学修行にはげんだとか。熊楠は自分はこの惺窩の立場とよく似ているといいます。うわさでは、大酒飲みといわれているが、そんなに酒ばかり飲んでいては、多岐の学術を修めることもできないだろう。ただ人が来たときにはしかめつらをしているより、酒など飲んで楽しくするのがいいから、そうしているにすぎないと弁解しています。
 実際、このころ熊楠の生活は、日中いくつもの昆虫を集め、いくつもの植物を標本にして、こまかく描き、彩色することに費やされていました。そのうえ、「ネイチャー」その他のイギリスの雑誌に科学論文を投稿し、さらに『方丈記』の英訳をし、不断に読書し、随筆を書き、書簡をつづっているというのですから、超人的な仕事ぶりといってよいでしょう。それに親から受け継いだ財産のおかげで、金払いもよく、人に迷惑をかけたこともない、どうだえらいもんだろうと、熊楠は法龍に自慢げに記しています。
 そして、手紙はここからが本論だというわけです。
 ぼくはこのあたりで疲れてしまいました。でも、この手紙はルソーの『告白録』にも似た、熊楠の「告白録」かもしれませんね。イギリスから戻って、縁者からも邪険にされ、日本社会にそこはかとない違和感を覚えていた熊楠は、自分をわかってくれそうな法龍に、いまの心情を打ち明けたかったのでしょう。
 肝心の本論は次回にまわすことにします。

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