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政治と死 [われらの時代]

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 政治の理路には、どこか「敵を殺せ」という衝動がひそんでいる。「殺せ」というのが穏やかでないとしたら、「抹殺せよ」でも「追放せよ」でも「無力化せよ」でもよい。要するに、自分の目の前から消えてほしいという願望である。
 1960年代後半から70年代にかけての「われらの時代」をふり返り、いま政治と死というテーマをかかげてみると、まず思い浮かぶのが毛沢東の名前である。だが、気の遠くなるほど多くの人を死に追いやった毛沢東は、1976年に中国の最高指導者の地位を保ったまま天寿をまっとうした。
 米国のケネディ大統領は、1963年11月にテキサス州ダラスで暗殺される。インドネシアのスカルノ大統領は、1965年秋の9・30クーデター事件ののち、権力を奪われて幽閉され、1970に亡くなる。その間、次期大統領となるスハルト将軍による共産主義者虐殺が全土に広がっていた。
 そして、いま頭に思い浮かぶのが、韓国の朴正煕大統領のことである。かれもまた暗殺される。それはいつのことだったのか。
 ぼくの手元にあるドン・オーバードーファーの名著『二つのコリア』をめくって、朴正煕に関する部分を読みなおしてみる。
 その来歴については、こう書かれている。

〈朴正煕は1917年9月30日[西暦では11月14日]、大邱近くの村で、小農の家の息子として生まれる。父親は郡の小役人をしていた。20歳のとき師範学校を卒業し、小学校で3年間教師をした後、日本軍に志願した。彼は成績が抜群だったため、まもなく満州の日本軍官学校に送られ、少尉に任命された。教師時代に培われた規律正しい精神と達筆は生涯を通じての彼の特性となった。軍事教練で学んだ組織力と権力行使の能力も同様に、彼の特性として備わった〉

 簡潔で的確な描写である。その人柄も伝わってくる。
 日本が降伏したあと、韓国軍の将校となった。社会主義革命をくわだてたとされる1948年の麗水(ヨス)事件で、共産党(南朝鮮労働党)細胞の指導者として逮捕され、死刑判決を受けた。しかし、獄中で転向、軍内部の共産主義者のリストを当局に提出することで死刑を免除される。出獄後は陸軍司令部の情報将校となって共産主義者の摘発にあたった。1959年には、韓国陸軍の少将にのぼりつめている。
 そして、1960年、学生運動の盛り上がりによって、李承晩大統領が失脚し、政治的混乱がつづくなか、1961年5月に軍事クーデターを起こし、政権を握った。民政復帰後、1963年、67年の選挙で大統領に選出される。1964年にはジョンソン米大統領の要請に応じて、ベトナムに韓国軍を派遣した。1965年には、わずかなカネで国を売るなという国内の反対を押し切って、日韓基本条約を締結する。これによって日韓の国交が正常化された。
 2期目の大統領選出後、朴正煕は大統領の3選を禁じた憲法を改正し、1971年の大統領選挙に臨むが、野党の金大中候補との票差はごくわずかだった。その後、国会では選挙で野党が躍進し、憲法をさらに改正して4選をねらうのは不可能な状況となった。1972年には非常戒厳令を発動し、大統領直接選挙制を廃止し、国民会議による選出方式を採用、事実上、終身大統領への道を開いた。
 朴正煕の「維新体制」のもと、反対派は徹底して弾圧され、投獄され、拷問を受け、殺害される者もいた。報道機関は統制下におかれた。日本にいた金大中は、73年8月8日に韓国中央情報部(KCIA)によって拉致され、あやうく暗殺されるところを米情報当局の警告により助かり、ソウルの自宅に軟禁された。
 1974年8月15日には、いわゆる「文世光事件」が発生する。日本からの解放記念祝日、いわゆる光復節に、ソウル国立劇場で朴大統領は、用意されたスピーチ原稿を淡々と読んでいた。
 現場に居合わせたオーバードーファーは、そのときの様子をこう記している。

〈突然、ホールの後方からパンという大きな音が響き、単調な空気を破った。振り向くと黒っぽい服を着た男が劇場の真ん中の通路を駆け降りていくのが見えた。銃を発射しながら男は走る。さらに何発かの発射音が響き、大統領の警護官らが舞台の両袖から正面に飛び出してきた。銃が抜かれ、そのいくつかは火を噴いた。修羅場と化したただ中で、韓国のファーストレディーが舞台上の席からがくんと床に崩れ落ち、付き添い人たちに運び出された。彼女の鮮やかなオレンジ色の韓服が血に染まっていた〉

 大統領夫人の陸英修(ユク・ヨンス)は死亡し、大阪に住む在日韓国人の犯人、文世光(ムン・セガン)はその場で取り押さえられ、4カ月後、死刑に処された。
 夫人の死後、「朴正煕は一層、孤独になり、引きこもり、人々から疎遠になった」とオーバードーファーは記している。
 1975年半ば、大統領は国家を戦時体制下に置く。政府批判はすべて禁じられた。
 ぼくがソウルを訪れたのは、ちょうどこのころである。生まれたばかりの長女をつれて、家内といっしょに金浦空港に降り立ったのを覚えている。家内の両親が仕事の関係でソウルに駐在していたため、赤ん坊を見せにいったのだ。
 空港の税関では、頼まれて買っていったラジオをしつこく検査されたが、それほど緊張感は覚えなかった。あのころソウルの町はまだあちこちに古い家並みが残っていて、道路では自動車に混じってリアカーを引くおじさんもいた。
 そうしたことは、またおいおいと記すことにしよう。
 朴正煕の最後もまた劇的だった。
 1979年10月26日、側近のKCIA部長、金載圭(キム・ジェギュ)によって射殺されるのである。61歳だった。
 場所は青瓦台構内にあるKCIAの秘密宴会場。モデルや歌手もまじえて、大統領を囲む晩餐会が開かれていた。
 そのときの様子をオーバードーファーはこう再現する。

〈夕食が進むと、朴正煕は金載圭KCIA部長を批判した。政治、経済の問題をめぐって生じた国内の大混乱を押さえることができなかったというのだった。学生やスト労働者を厳しく弾圧しろと主張していた車[智澈、チャ・チチョル]警護室長もKCIA部長を罵り、あまりに融和的な方針を支持して社会不安を招いたと言った。悪口雑言が数分続いたあと、KCIA部長は部屋を出て建物の二階にある自分の部屋に行き、38口径のスミス・アンド・ウェッソンの拳銃を取り上げ、ポケットに隠した。彼は自分の警護員に、銃声がしたら食堂の外にいる大統領の警護員を撃つよう指示した。
 部下の準備ができたことを確認したあと、金載圭は拳銃を取り出し朴正煕に向かって、「こんな虫けらをどうして相談相手にするのか」と詰め寄った。それから直射距離でまず車智澈、次に朴正煕を撃ち二人に重傷を負わせた。銃が故障したので、KCIAの警護員から別の38口径の拳銃を借り、二人の息の根を止めた。発砲を聞いたKCIAの部下たちは、5人の大統領警護員を襲い、殺した。数分のうちに、18年間の波乱に満ちた朴政権の歴史は銃火のなかで終わりを告げた〉

 朴正熙の独裁体制のもと、韓国経済は急速な発展を遂げた。そのため、韓国国内では朴正熙を高く評価する人が多い。
 しかし、その政治と死は凄絶だった。

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krause

この本を私も入手してみようと思います。
by krause (2014-05-21 12:16) 

だいだらぼっち

krauseさん、いつもお読みいただき、ありがとうございます。これは私が編集した本で、たぶん古本しか在庫がないと思いますが、その後の動きを加えた改訂版もでています(カバーのデザインが少しちがいます)。
by だいだらぼっち (2014-05-21 17:40) 

krause

そうだったんですか!!今日、アマゾンから届きました(古書です)。
by krause (2014-05-22 15:13) 

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