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きれぎれの感想──松浦寿輝『明治の表象空間』散読(4) [本]

 本書第Ⅲ部「エクリチュールと近代」、終章「総括と結論」は、いわば文芸評論と哲学的考察に該当する。文学と哲学の素養がないぼくとしては、敬遠せざるをえない。
 いちおう最後まで読んだ。でも、よくわからなかったと正直に告白する。そのうえで、断片的に頭に浮かんだことを脈絡もなく並べ立てておく。たあいもない感想である。
 ひとつは開化というのは競争だということだ。競争には相手がある。相手を見てしまったということは大きい。明治国家が見たのは西洋諸国だった。西洋諸国に負けまいと思った。そこで西洋諸国からさまざまな文物をとりいれ、制度をまねるところからはじめた。
 明治政府は有無を言わせぬ専制体制を打ち立てるいっぽう、国の大もとに天皇をすえ、国民に君主としての天皇のイメージを植えつけた。こうして開化した明治国家が発足する。
 開化とは新しいシステムを導入することでもある。しかし、それによって古いシステムは排除されることになる。村や町や人情も変わっていく。だが、そのシステムは政治や経済、教育の分野にとどまらず、言語の分野にもおよんだ。
 こうして千年以上にわたって練り上げられてきた文体は失われて、言文一致体が世をおおうようになる。平安から江戸にかけての文体はあっというまに失われ、われわれはもはや文語で景色や人情を写しとることもできなくなっている。これはたしかに進化だったのかもしれないが、はたして単純にそうだと言いきれるのか。進化によって失われたものも大きい。進化はある面では退化をもたらした。
 著者はぶっきらぼうにこう書いている。

〈かくして、日本の近代小説史はきわめて単純な風景で覆い尽くされることになる。実際、極論するなら『破戒』も『ねじまき鳥クロニクル』も、『それから』も『燃えつきた地図』も、『或る女』も『半島を出よ』も、『旅愁』も『夢の木坂分岐点』も、若松賤子訳『小公子』も亀山郁夫訳『カラマーゾフの兄弟』もおよそのところ似たり寄ったりの文章で書かれているのだ。これは驚くべきことではないか〉

 言われてみればそのとおりで、著者のいらだちはわからぬでもない。
 著者はさらにたたみかけるように書きつなぐ。

〈その[正岡子規の]創意と努力によって、普通の書き手の前に平準化された表現の途が開かれた。そして、この「普通」の概念こそ、近代的な「国民(ネーション)」の創出という政治的出来事に不可欠の要素にほかならなかった〉

 子規にはじまって、夏目漱石や島崎藤村、はたまた安部公房や村上春樹が、切り開いた近代文学がどうしようもないというのではないだろう。金太郎飴のような日本語システムへのいらだちと見るべきだ。自分自身がもはや文語の表現を持てなくなってしまった哀しみといってもよい。
 漱石や藤村にしてみれば、とんだとばっちりだろう。しかし、システムへの抵抗という面で、著者が評価するのは北村透谷であり、樋口一葉であり、幸田露伴のほうなのである。
 透谷は政治運動に関与して敗れたのち、おのれの内部を発見する。外界には空虚があり、内界には欠如があった。その空白のマス目を埋めていくように、透谷は文語によってしか表白できない内面をえがいていく。
 一葉は下流社会の女をえがくなかで、女のよるべなさと狂気をみいだし、それを「みずからの身体と精神に真正面から引き受け」ながら作品を発表していく。「死生を賭して、言語によって、恐るべきものにまみれること」が、近代のとば口に登場した一葉という作家の営みだった、と著者はいう。
 いっぽう露伴は小説から次第に考証へと力点を移していく。露伴は自然主義的リアリズムにはまったく背を向けて、反時代的な考証の世界に沈潜する。露伴にとっては「国語でもって遊び戯れる」ことが、システム化され合理化された言語に徹底してあらがう力業だった、と著者は評している。
 透谷、一葉、露伴にたいするこうした評価が、どこまで正鵠を射ているのか、ぼくにはわからない。透谷、一葉、露伴、いずれもほとんど読んでいないことを恥じるばかりだ。
 ただ、本書をここまで読んで、思うことがある。より近代=現代化を求めて、システム化をいくら推し進めても、そこにはシステムに収まらない「穴」がそれこそ無数に生じてくるということだ。それは空間や時間のずれとしてあらわれたり、はたまた内面の沸騰として表出したり、底辺からの視線として露出したり、さらにはエクソダスの軌跡となって出現したりする。
 近代の衝撃によって生じた明治という時代は、その制度においても、発想と行動においても、現代と地つづきの空間を切り開いた。明治体制は敗戦をへて雲散霧消したわけではない。天皇をありがたがる風潮も、「国民のため」をもちだす家族主義的な上から目線も、監視=管理システムの強化も、優勝劣敗の競争主義も、富国強兵の思想も、いまだにこの国では根強いではないか。だとすれば、依然として問われるべきなのは、戦後レジームからの脱却ではなく、明治システムからの脱却なのである。

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