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1967年の「6日戦争」 [われらの時代]

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 大学にはいった年、1967年の年表を何気なく見ていると、6月に中東で「6日戦争」があったと記されている。ぼくにとって中東は遠い場所で、いまでもなかなか実感としてとらえにくいのだが、当時はほとんどこの地域に関心をいだいていなかった。6日戦争についても新聞やラジオで報道されていたはずなのに、どういう戦争だったのか、まるで記憶がよみがえってこない。
 そこで、折にふれてページをめくってみる海野弘の『二十世紀』をみると、こう書かれている。

〈1967年5月、シリアとイスラエルが衝突の危機にあり、シリアの要請で、エジプトがシナイ半島に出兵し、チラン海峡を封鎖した。シリアとヨルダンはイスラエルを包囲した。これらのアラブ諸国は、いずれも、ソ連からの援助を受けていた。
 イスラエルは6月5日、一気に反撃に出た。イスラエルの爆撃機がエジプト、シリア、ヨルダン、イラクの空爆を行い、アラブ連合軍に大打撃を与えた。そして、イスラエルの戦車隊がシナイ半島のエジプト軍を撃破した。
 次にイスラエルは東のヨルダンに向かい、旧エルサレム市街を占領した。さらに北東のシリアのゴラン高原に侵入し、占領した。
 6月10日、国連による停戦が行われた。〉

 簡潔な描写から、シリアとヨルダンに包囲され、エジプトに威嚇されたイスラエルが反撃に出て、あっという間に敵国に打撃を与え、シナイ半島(のちエジプトに返還)、ゴラン高原(のちシリアに一部返還)、旧エルサレム市街、ヨルダン川西岸、ガザ地区などを占領したのだ。国連があいだにはいったため、わずか6日で戦争は終わる。イスラエルがまざまざと強さを見せつけた戦争だった。
 だが、これですべてが決着したわけではない。中東での戦争(と革命)の火種は消えるどころか、いまでも大爆発の様相をみせている。その火種のひとつがイスラエルという国の存在にあることはまちがいない。
 ぼくにとって中東は遠い存在だった。だから、大学に入学してすぐに起こった6日戦争のこともはっきりおぼえていないのだ。そう思っていた。でも、なぜか頭にひっかかるのはどうしてだろう。
 先日、ユージン・ローガン著『アラブ500年史』(白須英子訳)をめくっていると、この戦争の経緯が詳しく描かれていることに気づいた。ぼんやり読み進むうちに、そこに登場してくるある人物の名前が、枯れかかった頭を刺激する。
 イスラエル国防相のモシェ・ダヤン。そう、伊達政宗のように黒い眼帯をした人物、かれこそが、イスラエルの奇襲作戦を成功させた張本人だったのだ。ぼくが6日戦争のことをかすかながらでもおぼえていたのは、ダヤンの印象が強烈だったからだ。
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[モシェ・ダヤン。ウィキペディアの画像より]

 イスラエルは1948年に建国された。周囲をエジプト、ヨルダン、シリア、レバノンに囲まれている。イスラエルを国家と認めないアラブ諸国と1948年、1956年と二度にわたり戦い、いずれも勝利を収めてきた。したがって、「6日戦争」は第3次中東戦争でもある。
 イスラエルという国は地勢的にふたつの弱点をかかえていた。地中海に抜ける中央部の回廊はわずか12キロしかない。エルサレム旧市街と東エルサレムはヨルダン領となっていた。さらにシリアのゴラン高原からガリラヤ湖まではあっという間の距離だ。そこで、建国当時から、イスラエルはエルサレム旧市街からヨルダン川西岸、さらにゴラン高原をなんとか手中に収めたいと思っていた。
『アラブ500年史』には、6日戦争の詳しい経緯とともに、意外な事実が書かれている。
 エジプトはシリアと軍事同盟を結んでおり、ともにソ連から武器を供給されている。いっぽうイスラエルはおもにアメリカから武器を得ていた。
 1967年春、イスラエルとシリアのあいだでは、緊張が高まっていた。イスラエルは、パレスチナ人がシリア経由でイスラエルに侵入しているとみて、シリアを非難しつづけていた。
 4月、シリア上空で、イスラエル空軍とシリア空軍が偶然、衝突し、シリアのミグ戦闘機6機が撃墜されるという事件がおきる。
 このとき通説では、シリアが同盟国であるエジプトに軍事出動を要請し、それに応じてエジプトがシナイ半島に大軍を送ったことになっている。だが、実際はその前に、ソ連がイスラエルの部隊がシリア前線に集結しているとのニセ情報を流して、エジプトの参戦をあおったのだという。
 エジプトのナセル大統領は、実際にはイスラエル軍に動きがないことを知っていながら、イスラエルを威嚇するためシナイ半島に大軍を送った。しかも、国民にアピールするため、カイロの街頭で兵と戦車のパレードをおこない、その様子をテレビで放送させた。イスラエルはそのテレビを見て、エジプト軍の動きをつかむことになる。
 加えて、エジプトはシナイ半島から紅海への出口にあたるチラン(ティラン)海峡を封鎖したから、イスラエルの船はそれまでのように自由に紅海に出られなくなった。
 ちなみに、ぼくはイスラエルがシナイ半島の東のつけ根にあたるアカバ湾にエイラートという港を有していることを知らなかった。スエズ運河を通行できないイスラエルの船は、エイラートから紅海を通って、インド洋方面の通商路を確保していた。そのことも知らなかったのだから、いかにぼくの中東知識がいいかげんかということだ。
 テレビで軍がパレードする様子をみたエジプト国民は、エジプトがアラブの友邦とともにイスラエルに勝利する日は近いとだれもが信じていた。ところが、ナセルは本格的に戦うつもりはなく、イスラエルを威嚇すればじゅうぶんだと思っていたのだ。イスラエルはその甘さをついた。
 エジプト、シリア、ヨルダンが、たいした打ち合わせもないまま、反イスラエル感情だけで軍を動かし、イスラエルを包囲したのにたいし、イスラエルはこれを絶好の機会ととらえ、反撃にでる。
 6月5日、イスラエル空軍は、エジプト空軍基地を同時奇襲攻撃し、爆撃機すべてと戦闘機の85%を破壊した。3時間でエジプトにたいする制空権を確保したというからすざまじい。それに引きつづいて、イスラエル空軍は、弱小のヨルダン空軍を壊滅させ、シリア空軍機の3分の2を破壊した。
 制空権を握ると、イスラエルはすぐに地上軍部隊を投入する。二正面、三方面で戦闘になるのは避けたかった。できれば個別撃破がのぞましい。
 そこでまず向かったのがエジプト軍の駐留するシナイ半島だった。10万のエジプト軍にたいし、イスラエル軍は7万の歩兵と700両の戦車を投入する。激しい戦闘の末、まずガザ地区を占領し、地中海沿岸部に展開するエジプト軍部隊を打ち破った。ついでシナイ半島東部の要所を占拠、逃げ惑うエジプト軍の戦車部隊は空からの格好の標的になった。
 エジプト軍を無力化したあと、イスラエル軍は次にヨルダンの前線に向かい、まずエルサレム旧市街を確保し、それからヨルダン川西岸を占拠した。そして最後にシリア軍を攻撃し、ゴラン高原を掌握したのである。
 わずか6日で戦争は終わる。
 この世界じゅうが驚いた奇襲作戦を指揮したのが、イスラエルのダヤン国防相だった。ダヤンの名前を知ったのは、戦争が終わって、しばらくたってからだったかもしれない。それでも、ぼくはダヤンというのはすごい軍人だと思って感心していたのだから、あのころはあまりに単純だったとあきれるほかない。
 ところで、『アラブ500年史』には、ほかのアラブ諸国が、この戦争を手をこまぬいて見ていたわけではなかったことが記されている。
 戦争がはじまった翌日6月6日、アラブ諸国の石油相が集まり、イスラエルを支持するアメリカ、イギリス、西ドイツに対する石油輸出停止措置を決定した。サウジアラビアとリビアは石油生産を完全にストップし、これによってアラブ石油の産出量は60%減少する。
 サウジとリビアはどうして自分で自分の首をしめるようなまねをしたのだろう。イスラエルを支援する先進国に圧力をかけようとしたのはまちがいない。しかし、この作戦はもののみごとに失敗する。
 アメリカをはじめとする先進国は、増産やら非アラブ諸国からの調達によって、石油減産の危機をしのいだ。それどころか、その後の石油のたぶつきによって、石油価格はむしろ低下し、中東産油国の収入を減少させる結果となった。
 こうして石油を武器とするアラブ諸国の作戦は完全に失敗したのだが、それですべてが終わったわけではない。石油はやはり大きな武器にちがいなかった。のちに石油ショックをもたらす中東産油国の石油戦略は、6日戦争の失敗から得られた教訓をもとにして発動されたのである。

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