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エネルギー革命と高度成長 [われらの時代]

 1967年の「6日戦争」に際して、中東産油国が石油の生産をストップし、イスラエルを支持するアメリカやイギリスなどに打撃を与えようとして、失敗したことは前にふれた。そのとき中東諸国は石油が「武器」になりうることを知った。
 1960年代後半には、それほど世界じゅうで、石油が経済生活に欠かせなくなっていたといえるだろう。
 いま中村隆英の『昭和史』によって、60年代後半まで戦後日本の経済社会の流れを追ってみる。
 あのころのことが思い出せるだろうか。
 1950年代前半、日本の産業を担ったのは、繊維、セメント、紙パルプ、硫安、砂糖だったという。これらは衣服や建設、新聞、肥料、食べ物の調理にもちいられる材料だったはずだ。
 そのころ4大重点産業とされていたのが、電力、鉄鋼、海運、石炭だった。設立されたばかりの日本開発銀行は、日本経済のボトルネックとされたこれらの産業にたいする重点的な投資をおこなった。日本経済はこのころも政府の成長戦略に沿って動いている。
 このころの電力はまだダム式の発電が中心で、佐久間ダムや黒部第4などの大型水力発電所が計画されていた。鉄鋼の生産体制は、新工場の建設や、大型圧延設備の導入などによって、一気に強化された。海運業界は、アメリカの新技術を導入し、計画造船に取り組んでいる。そして、戦後2000万トン近くまで落ちこんだ石炭生産は、ようやく4000トンまで回復した。
 通産省が機械工業を支援するのもこの時期だ。工場にはベルトコンベアが導入される。アメリカのGE製品をモデルとした大型発電機もつくられた。ナイロンやテトロンの新技術が導入された。岩国や四日市に石油化学コンビナート工場が建設された。
 国民の生活水準が、戦前の段階まで回復したのは1955年前後だ、と中村隆英はみている。その後、日本人の生活様式は徐々に西洋風に変わり、家庭にテレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫などがはいってくる。
 そういえば、子どものころ、家にテレビ、洗濯機、掃除機、冷蔵庫がなかったことを思いだす。
 ラジオはあった。狭い板敷きの部屋にちゃぶ台を置いて家族で食事をするとき、ラジオから「剣をとっては日本一の……」という赤銅鈴之助の歌が流れてきて、ドラマがはじまるのを楽しみにしていたような気がする。あまり筋も覚えていないのだが、千葉周作の娘、さゆりの声を担当していたのが、吉永小百合だったとは当時知る由もない。
 洗濯機もなかったので、当時は洗濯石鹸で、洗濯物を洗濯板を使ってごしごし洗わなければならなかった。母や祖母は寒いときは、さぞかしたいへんだったろう。
 掃除機ももちろんなく、水につけた新聞紙を細かくちぎって、和室にまき、箒で掃除をした。電気冷蔵庫もなかった。でも、冷蔵庫はあった。となりのうちが夏は氷屋をしていたので、氷を買ってきて、冷蔵庫の上の段に氷をいれて冷やしたのである。
 木切れをくべて竈(へっつい)で炊いたご飯は、わらでつくったお櫃に保存した。夏のスイカは井戸に吊して冷やしてから食べたものだ(もっともぼくはスイカが嫌いだった)。
 小学校高学年まではそんな生活だった。それが1960年前後から、だんだんと変わっていった。
 海べりの工場が拡張されて、海水浴ができなくなったのもこのころだ。その以前から海は汚れはじめ、すこし黒っぽくなっている感じがした。
 中村隆英によると、60年前後は鉄鋼、アルミニウム、石油精製、石油化学、合成繊維、機械、電子などの産業が大型の設備投資をおこなっていたという。クラウンを出していたトヨタがコロナを販売すると、ブルーバードを出していた日産がセドリックを販売するなどして、自動車メーカーどうしの競争も激しくなっていた。
 父が教習所に通わないで、自前で車の免許をとったのも60年ごろで、最初はコロナを買って、次にセドリックに乗り換えた。中型車から大型車になったところをみれば、わが家の家計も徐々に上向いていたのだろう。
 自動車、暖房、合成ゴム、プラスチック、ビニール、合成繊維、そして電力──どれも石油と関係する製品だ。60年代は石油の時代になっていた。
 石炭から石油への「エネルギー革命」について、中村隆英はこう書いている。

〈廉価な中東の原油が流れ込むようになってから、石炭の需要は目に見えて減少しはじめた。北九州、山口、常磐、北海道の炭鉱はたちゆかなくなって閉山が相次いだ。1960年代に入って数年のうちに、日本最大といわれた筑豊炭田には操業中の炭鉱はひとつもなくなってしまった。中年以上の者は失業保険や生活保護で生活していかなければならなかった。私は当時の筑豊を訪れたとき、地下での採掘のために地盤がゆがんで橋がななめになっていたことや、パチンコ屋だけが繁昌していたのが目に焼きついている〉

 エネルギー革命が進展するなか、日本では高度経済成長が加速する。1955〜60年の年平均実質経済成長率は8.5%、1960〜65年が10.0%、1965〜70年が11.6%。どんどん成長率が高まる。
 日本の実質GNPは1952年から72年のあいだに、名目で14.5倍(実質で6.0倍)に膨らんだ。名目と実質のちがいは、このかんに物価が2.42倍になったことを示している。
 1960年から70年にかけ、太平洋岸に工業ベルト地帯が生まれ、重化学工業化が進んだ。粗鋼、合成繊維、船舶、自動車などの増産が相次ぐ。消費者物価は毎年5%程度上昇したが、賃金の上昇は15%近くにおよび、実質10%に近い所得増加がつづいていた、と中村の著書にある。
 1960年代が日本人の生活にもたらした変化はめざましかった。洗濯機、掃除機、カラーテレビ、電話、自動車があっという間に普及していく。インスタントラーメン、インスタントコーヒー、ティッシュペーパー、アンネ・ナプキン、台所用合成洗剤などが家庭に入りこむのもこの時代だった。食卓の光景も変わり、だんだんと洋風となる。女性の服装は洋装がふつうになった。都会では郊外に団地が出現した。
 こうした流れは、石油文明と和風西洋化によって支えられていたのだといってよい。だが、それがもたらした荒廃もすざまじかった。60年代は明るさだけではくくれない。破壊と騒音と粉塵に満ちてもいたのだ。

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