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石油をめぐる争い──ヤーギン『石油の世紀』を読む(2) [本]

 日がなぼうっとすごすことが多くなっているので、本をめくってもなかなか頭にはいってこないし、いつのまにかうとうとしてしまうといった毎日がはじまっています。何もかもすぐに忘れてしまいます。以下は例によって、備忘録。
 きょうは第2部「世界的紛争の時代」を読んでみます。あつかわれているのは、第一次世界大戦から第二次世界大戦までの、いわゆる「戦間期」ですが、石油開発をめぐる列強間の争いはますます活発になっています。以下はそのダイジェスト。

 第一次世界大戦は人と機械の戦いだった。機械を動かしていたのは石油とエンジン。兵士は自動車やトラックで輸送され、戦場には飛行機やタンクが登場する。イギリス艦隊の燃料は石炭から石油に代わる。アングロ・ペルシャはイギリスの石油需要の2割を担い、イギリス国内の販売窓口だったブリティッシュ・ペトロリアムを傘下に収めた。競争会社のロイヤル・ダッチ・シェルも、ドイツではなく連合国側を支援している。
 ドイツの潜水艦がイギリスの船舶やタンカーをさかんに攻撃したため、イギリスでは戦争末期に物資と石油が不足するようになった。戦争をつづけるには、アメリカの石油がなんとしても必要だった。
 ドイツはルーマニアに石油資源を頼っていたが、イギリス軍の特殊部隊は、その油田を爆発炎上させることに成功する。困りはてたドイツ軍はロシアのバクー占領を画策するが、失敗に終わる。
 第一次世界大戦後、イギリスは敗れたオスマン帝国の一部、メソポタミアを支配したいと考え、そこを信託統治領とする。その狙いのひとつは石油開発にあった。そこでトルコ石油という会社が設立される。この時点で、メソポタミアに石油があるのかどうかは定かではなかった。
 そのかたわら、イギリスではアングロ・ペルシャとロイヤル・ダッチ・シェルとの合併話が進んでいた。だが、この話は容易に進まない。
 そのころ国内油田の生産がピークに達していたアメリカも中東に目を向けはじめる。現在は豊富に産出するとはいえ、天然資源はいつ枯渇するかわからない。それに、石油の価格の上昇が懸念されるようになっていた。
 イギリスは中東へのアメリカの参入を認め、その結果、ニュージャージー・スタンダード(のちのエッソ)が、イギリスのトルコ石油とかかわっていくことになる。
 イギリス委任統治領のメソポタミアは、いまやイラクと呼ばれるようになった。その君主にイギリスはハーシム家のファイサルを据えた。
 イラクでの掘削作業がはじまったのは、ようやく1927年になってからだ。キルクークの北西で、すぐに大油田がみつかる。その利権はトルコ石油創設者のグルベンキアンと、ロイヤル・ダッチ・シェル、アングロ・ペルシャ、フランス、そしてアメリカの新会社によって分割された。

 1920年代末、アメリカでは自動車の台数が激増し、2310万台に達した。ガソリン・スタンドが整備されたのも1920年代である。シェルや旧スタンダード系列の会社は、こぞってガソリンスタンドをつくった。モータリゼーションの時代がはじまる。
 1921年から23年にかけては、カリフォルニアで数多くの油田が発見された。1926年から27年にかけ、こんどはオクラホマやテキサスで油田が発見される。石油は生産過剰となり、価格が暴落した。
 あまりにも巨大なスタンダード石油はいくつもの会社に解体されたものの、その後も石油会社が生産から精製、販売にいたる部門を統合しようとする傾向はやまなかった。
 このころフィリップスやガルフ、テキサスといった独立系石油企業が登場する。加えて旧スタンダード系の各社が激しい争いを繰り広げていた。ニューヨーク・スタンダードはカリフォルニアの石油会社を買収して、のちのモービルへと発展する。ニュージャージー・スタンダードとカリフォルニア・スタンダードも合併話を進めている。ロイヤル・ダッチ・シェルのアメリカ市場への食い込みも相当なものだった。
 そんなさなか、1929年の大恐慌が発生、石油業界もパニックにおちいる。ところが、1930年にアメリカでは、東テキサスで国内需要を全部まかなえるほどのブラック・ジャイアント油田が発見されるのである。(ちなみにジェームズ・ディーンの最後の映画となった『ジャイアンツ』[原題はジャイアントは、この時代のテキサスを舞台にしているはずだ]

「石油は力なり」という時代が始まっていた。世界各地で、石油の発掘に拍車がかかっている。
 メキシコではイギリス人のウィートマン・ピアソン(カウドレー卿)が石油の発掘にあたっていた。だが作業は難航、やっと石油が見つかったのは1910年のことである。その後、次々と油井が掘られ、かれの会社メキシカン・イーグルは世界最大級の石油会社となった。しかし、メキシコの政情は不安定で、イーグルの株式は大半がシェルに売られることになる。
 メキシコの革命政権は、地下資源は国家が所有するという原則を主張した。石油会社とのこれまでの契約が、有効かどうかも問われるようになった。
 メキシコの政情が変化したことにより、石油企業はこんどは大挙してベネズエラに移動する。ベネズエラの独裁者ゴメスは、外国資本を導入して、石油を開発しようと思っていた。
 ロイヤル・ダッチ・シェルは1914年からマラカイボ湖周辺で石油を生産していたが、1922年に大規模な油田を発見する。それ以来、石油ラッシュがはじまり、アメリカの会社が大挙してベネズエラに進出した。
 ゴメスは石油利権を握り、富を増やしていった。1920年代にベネズエラの石油の大半を押さえていたのは、シェル、ガルフ、パン・アメリカンの3社である。パン・アメリカンは、のちインディアナ・スタンダードに吸収され、さらにニュージャージー・スタンダード(エッソ)に売却されることになる。
 ロシアでは革命後、嫌気のさしたノーベル家がその石油利権をニュージャージー・スタンダードに売却しようとしていた。ロスチャイルド家はすでに利権をシェルに譲り渡している。ロシアの石油資産は国有化されようとしていた。ボルシェヴィキとのかけひきがはじまる。
 レーニンは1921年に新経済政策を打ちだし、西側企業との関係を改善しようとした。企業家たちは当初、取引をこばむ。しかし、こばみきれなくなってくる。資産を奪い返すことも次第にどうでもよくなってくる。安いロシア石油を買って儲けようと方針を転換するのだ。

 前に記したように、1930年、東テキサスでは山師のある老人の手にした土地から、思いもかけぬ油田が発見された。いわゆるブラック・ジャイアント油田である。世間が不景気に沈むなか、東テキサスだけは例外で、1000もの油井が掘削された。老人から利権を買い取ったのは「少年」と呼ばれていたハロルドソン・ラファイエット・ハント(通称H・L)で、膨大な油田を手にいれることになる。
 しかし、東テキサス油田の発見で、石油価格は暴落する。テキサス鉄道委員会が生産調整に乗りだし、州知事は一時、油田の操業停止を命じる。
 フランクリン・ルーズベルトは低すぎる石油価格を何とかして上げようとしていた。ルーズベルト政権の内務長官となったハロルド・イキスは市場に介入し、闇石油業者を摘発し、各州に石油の月別生産割り当てを通告するなどして、石油価格の安定化をはかった。外国産石油には関税がかけられた。ニューディール政策のもと、この規制は功を奏し、1934年から40年にかけ、アメリカでは石油価格はほぼ1バレル=1ドルで推移することになる。
 政府とは別に、石油業界もひそかに会合をもち、石油価格を安定させるための方策を練ろうとしていた。業界の協調によって、利潤を確保し、コストを削減しようとしたのだ。ニュージャージー・スタンダード(のちのエッソ)、シェル、アングロ・ペルシャのトップは、秘密協議によって、過剰生産と過当競争を避ける「現状維持」協定を結んだ。
 しかし、その枠組みにしばられない石油生産業者はあまりにも多く、協定はたちまち水泡に帰した。ソ連の石油もためらうことなく安売りをして市場に参入していた。
 それでも大恐慌のもと、石油業界の協定は、次第に他社にも広がり、定着していく。しかし、資本主義の常で、各社間の不信、警戒、敵対がなくなったわけではない。競争はやむことがなかった。
 そのいっぽうで、政府はますます石油市場への介入を強めていた。

 この時代、無視できなくなったのが、産油国ナショナリズムである。1932年、ペルシャのシャー、レザ・パーレビは、アングロ・ペルシャとの契約を破棄すると一方的に宣言する。石油価格が低迷し、利権料が減少したことに腹を立てたのだ。なかでもイギリスがアングロ・ペルシャの筆頭株主であることが気に入らなくなっていた。だが、けっきょくアングロ・ペルシャとのあいだで譲歩が成立し、ペルシャ側は固定利権料と利益の20%を受け取ることで合意が成立する。
 1917年のメキシコの憲法は、土地所有者のいかんにかかわらず、地下資源は国家に帰属すると定めていた。これにより石油会社とメキシコ政府は対立していたが、それでも石油の開発には石油会社を必要としたため、しばらくは何となく双方のあいだで妥協が成立していた。
 メキシコ油田の65%を生産していたのは、メキシカン・イーグルで、その大株主はロイヤル・ダッチ・シェルだった。しかし、ベネズエラ産原油との競争が激しくなるにつれ、1930年代にその生産量は大幅に減少していった。
 石油の生産が落ち込むなか、メキシコではラザロ・カルデナスが大統領に就任、石油会社の接収を打ちだす。これにたいし、イギリス政府はメキシコ産原油の禁輸措置にでる。
 しかし、ナチス・ドイツや日本がメキシコ原油の輸入先であることを考えれば、強硬な措置は逆効果となる可能性があった。中南米諸国との関係悪化はできるだけ避けねばならなかった。
 そこで、アメリカ政府は方針を転換し、所有権の回復を求めるのではなく、補償を求めることにした。イギリス政府も考えは同じだった。イギリスは解決を急がず、しばらく事態を静観し、戦後になってから、有利なかたちで補償交渉を進めることになる。
 メキシコでは国営石油会社ペトロレオス・メヒカノス、すなわちペメックスが設立される。それによってメキシコの石油産業はおもに国内向けとなり、国際市場ではマイナーな存在となった。それでもペメックスはその後につづく国営石油会社の先駆けとなった。

 イギリス人のフランク・ホームズは、長年、ペルシャ湾岸に石油が出ると信じ、中東での商売をつづけていた。ホームズはバーレーンに拠点を定め、首長に取り入って、石油利権を手に入れた。1923年にはさらにサウジアラビア東部にも利権を獲得する。とはいえ資金繰りは苦しかった。手当たり次第に融資を頼むが、なかなか相手にしてもらえない状態がつづいた。
 ところが、アメリカのガルフ社がバーレーンの石油に興味をいだく。ガルフ社はカリフォルニア・スタンダード社(ソーカル)とともに、バーレーンでの石油利権を管理することにし、バーレーン石油という子会社を設立した。1932年、ついにバーレーンで石油が発見される。
 1930年代はじめ、サウジアラビア首長のイブン・サウドは厳しい財政のやりくりに苦しんでいた。そのころバーレーンで石油が発見されたことから、サウジアラビア東部のハサー地区がにわかに脚光を浴びるようになる。
 イブン・サウドは外国資本への規制を緩め、石油の利権に関して、カリフォルニア・スタンダード社(ソーカル)と1933年に60年契約を結んだ。
 隣国クウェートでも首長のアハマドが、1934年にアングロ・ペルシャ、ガルフ社と契約を結び、クウェート石油会社を設立した。
 カリフォルニア・スタンダードは、サウジアラビアで試掘をはじめたが、石油はなかなか見つからなかった。バーレーンではすでに大量の石油が見つかっていた。しかし、硫黄分の多いため、処理がむずかしく、その生産は抑えられていた。
 経営難で苦しむなか、テキサコとソーカルは合弁事業を設立し、カルテックスという新会社をつくる。カルテックスはバーレーンとサウジアラビアの石油を、アフリカとアジアに販売することを目標としていた。
 クウェートでは1938年2月に石油が掘り当てられた。その量は予想より膨大だった。いっぽう失望に次ぐ失望がつづいていたサウジアラビアでも、その翌月、ついに大量の石油が噴出した。
 しかし、すでに第二次世界大戦がはじまっていた。クウェートでもサウジアラビアでも石油の操業は停止され、新しい油田開発は延期される。しかし、その石油埋蔵量が膨大であることが次第にわかってくる。中東の石油が戦後経済の焦点になるのはまちがいなかった。
(以上が第2部の簡単なまとめです。それにしても、石油をめぐるドラマはすさまじいものがあります)

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