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第二次世界大戦と石油──ヤーギン『石油の世紀』を読む(3) [本]

 引きつづき「石油の世紀」を読んでいます。読んでいると、20世紀最大の商品は石油だったかもしれないと思えたりもします。今回のテーマは、その石油からみた第二次世界大戦ということになりましょう。日独伊の枢軸国は、石油のネットワークを掌握する米英などの連合国をどうしても打ち破ることができなかったという現実が、冷酷にも浮かびあがってきます。
 以下は、例によってごく簡単なダイジェストです。

 1931年の満州事変をへて、日本は傀儡国家「満洲国」をつくった。
 1920年代の日本は米英との協調路線を保っていた。しかし、その後、東アジアへの帝国主義的な拡大をめざし、西側列強を排除して、「大東亜共栄圏」を築いく方向へと踏みだす。その第一歩になったのが、満州事変だったといえる。
 非常事態を迎えて、日本国内では「国防国家」がつくられようとしていた。
 日本のエネルギー消費のうち、石油の占める割合は当時7%にすぎなかった。しかし、軍事と船舶輸送にはどうしても石油が必要で、その大部分は輸入に頼らざるをえなかった。しかも、80%がアメリカからの輸入だった。
 当時、日本の石油市場を握っていたのは、ライジングサン(ロイヤル・ダッチ・シェル系)とスタンバック(スタンダード・バキューム、スタンダード系2社の合弁会社)で、そのシェアは60%にのぼる。残りの40%を日本の会社30社が扱い、アメリカのさまざまな業者から石油を輸入していた。
 日本政府は国内資本による石油精製事業を育成して、できるだけ海外企業への依存を減らそうとしていた。こうした統制色の強い政策に欧米企業は反発、一時は禁輸をちらつかせて日本をおどかすという案もだされるほどだったが、これはアメリカ政府の反対もあって、立ち消えとなった。
 1937年7月、盧溝橋事件が発生し、日中間に全面戦争が勃発する。孤立政策をとっていたアメリカは、しばらく事態の推移を見守った。しかし、1939年になると、はっきりと日本の動きに反対する立場をとり、石油の禁輸を含め、経済制裁を検討するようになる。
 ヨーロッパで戦争がはじまり、ナチス・ドイツがイギリスを除いて大陸をほぼ制覇するにいたると、日本は南方への進出を開始し、オランダ領東インド諸島(現インドネシア)の石油をねらいはじめた。この状況をみたアメリカ政府は、鉄に加えて石油の禁輸に踏み切る。
 日本は袋小路に追いこまれた。日本の機動部隊がハワイの真珠湾を攻撃し、日米戦争がはじまる。シンガポールを攻略したあと、日本軍は東インド諸島侵攻をめざした。東インド諸島の油田を手に入れることが目標だった。

 ここで、ドイツの事情を見ておこう。
 ドイツのエネルギーは、その9割が石炭に依存していた。しかし、ヒトラーは石油を抜きにした経済は考えられないと思っていた。そのためI・G・ファルベン社に石炭を原料とする合成石油を開発させようとする。
 1933年に首相の座につくと、ヒトラーは自動車普及のキャンペーンを張り、アウトバーンの建設に着手する。国民車フォルクスワーゲンの開発もはじめた。
ヒトラーは石油を外国に頼ることのあやうさを自覚していた。外国への石油依存を減らし、合成石油の生産を拡大することが、目標となった。
 I・G・ファルベンは企業というより、もはや国家の一産業部門だった。原油にも応用できる画期的な技術、水素添加法が開発される。いっぽう、ヒトラーは1939年の電撃戦によって、ヨーロッパの大半を制し、西部戦線の戦いで、大量の備蓄石油を手にしていた。
 次の標的は宿敵のソ連だった。1941年、ソ連侵攻が開始される。ヒトラーはバクーをはじめとするコーカサス油田の占領をめざした。コーカサスの油田とウクライナの穀倉を収めることができれば、ドイツの「新秩序」は万全のものとなるはずだった。しかし、まもなくモスクワを前にソ連軍の反撃がはじまる。
 1942年、ヒトラーはブラウ作戦を発動する。コーカサスの油田を目標とし、イランとイラクの油田を収め、さらにインドに進撃するという誇大妄想めいた作戦だった。しかし、この作戦もソ連軍の妨害と燃料不足によって挫折を免れなかった。
 さらにスターリングラードでの18カ月におよぶ消耗戦が、戦いの流れをすっかりと変えてしまう。ソ連軍はドイツ軍を領土から駆逐したあと、ベルリンへの進軍を開始する。
 北アフリカで驚異的な勝利をおさめたドイツの名将ロンメルも深刻な燃料不足をかかえるなか、イギリス軍との戦いで敗れた。ロンメルはイタリア、フランスでも戦うが、最後は自殺強いられる。「じゅうぶんな石油を積んだ車両がなければ、銃も弾丸も役に立たない」と語っていた。
 ドイツ国内では合成石油の生産に全力が注がれた。ユダヤ人はI・G・ファルベンの水素添加プラントと合成ゴムの工場に送り込まれ、無給で働かされ死んでいった。ドイツの合成石油は、その3分の1が奴隷労働によってつくられていたという。
 大戦末期連合国軍の戦略爆撃は合成石油のプラントを集中的にねらうようになった。
 1945年3月以降は、ドイツの航空用ガソリンが底をつく。ヒトラーは総統官邸の地下で自殺し、その遺体はロシア人の手に渡らぬよう、ガソリンをかけて焼却された。

 1942年3月、日本軍は東インド諸島を完全に制圧していた。ボルネオ、バリクパパンにあるシェルの石油施設は、撤収前に破壊されていた。だが、その被害は予想より軽微で、日本側はさっそく石油施設の再開をはかり、じゅうぶんな石油を獲得する。日本軍はスマトラ島でも、カルテックスの開発していたミナス原油を掘り当てた。石油の問題はこれで解決されたかに思えた。
 1942年6月のミッドウェーの戦いは、太平洋戦争の転機となり、日本軍の攻勢はここで終わりを告げた。
 東インド諸島で石油を獲得しても、日本には致命的な欠陥があった。船舶での輸送態勢が万全ではなかったのである。とりわけタンカーは、潜水艦の格好の標的だった。日本への石油輸送は1943年半ばにはピークに達するものの、1年後にはほぼゼロになってしまう。
 日本の本土では石油がなくなるにつれ、日常生活に支障がでるようになる。ガソリンで走る自動車は木炭や薪を原料にしなければならなくなった。工業用の油は大豆やピーナツ、ココナツなどからつきられた。砂糖、酒がアルコールの原料となった。
 合成石油もわずかしか生産できなかった。しかも、その生産施設はおもに満州にあったため、船舶輸送路が切断されたあとは、せっかくの合成石油もはいらなくなった。
 石油が欠乏すると、日本の軍事能力は急速に衰えていった。米軍は巨大な工業力を背景に、圧倒的な軍事力で日本の本土に迫った。
 燃料不足は日本軍の行動を制約し、空母と戦艦は分断され、戦闘機パイロットの訓練もままならなくなった。松脂からつくられたガソリンは劣悪で、戦闘機はいったん離陸すれば帰還できないものがほとんどだった。
 1944年10月、帝国海軍はすべての艦隊をフィリピンのレイテ沖に集結し、最後の決戦をいどんだ。しかし、燃料不足のため中途半端な作戦しか展開できず、逆に壊滅的な敗北をこうむる。この海戦では戦闘機による神風特攻という自殺攻撃もおこなわれた。
 日本軍はアメリカの補給線にほとんど攻撃を加えられなかった。アメリカはどんなに補給基地が離れていようと、前線にたえまなく燃料や物資を送りつづけた。タンカーと護衛駆逐艦からなる移動補給部隊が、アメリカ海軍の長い足となって、戦闘海域を行き来していた。
 1945年はじめには米軍がマニラを奪還、さらに硫黄島も占領した。イギリス軍もビルマで攻勢に出る。日本はバリクパパンをはじめとする東インド諸島の石油基地からも撤退する。1945年3月には、シンガポールから最後のタンカーが出航するが、すべて撃沈され、日本には到着しなかった。
 日本国内ではガス、電気、石炭、木炭も不足していた。自宅では風呂をわかせなくなり、公衆浴場は雑踏となった。燃料はなくなり、東京の人びとは焼け跡の廃材や木炭を集めて煮炊きをした。食糧の配給は必要最低限を下回った。
 4月、戦艦大和が沖縄に向けて徳山湾沖から出航する。燃料は片道分しか積んでいなかった。大和は撃沈され、帝国海軍は消滅する。
 燃料の欠乏に見舞われた軍は、松根油の生産拡大に乗りだした。日本じゅうで松の根を掘る作業がはじまった。しかし、油のとれる量はごくわずか。しかも、その質は劣悪だった。
 敗戦は時間の問題だった。日本はソ連に和平工作の仲介を要請し、あわせてソ連から石油を買おうという構想を思いつくが、ソ連はヤルタ会談の密約にもとづいて対日参戦した。
 1937年4月に2960万バレルあった日本の石油備蓄は、1945年7月には80万バレルに落ちこんでいた。多くの犠牲を払った沖縄戦はすでに終わっていた。それでも陸軍は戦争を継続するつもりだった。8月6日と9日に広島と長崎に原爆が投下される。8月15日、日本は降伏、戦争は終わった。

 最後に連合国側の事情をみておく。
 イギリスの政治家で早くから石油の重要性に気づいていたのはチャーチルだけだった。ドイツとの開戦前から、イギリスでは石油政策の再検討が進められていた。石炭から合成石油をつくる案も検討されたが、費用がかかりすぎるため放棄された。
 イギリスの石油は85%がロイヤル・ダッチ・シェルとアングロ・イラニアン(アングロ・ペルシャが改称)、それにニュージャージー・スタンダード系子会社の3社によってになわれていた。イギリス政府は3社と綿密な連係をはかる。石油の戦略備蓄も進められていた。
 シェルには問題があった。オランダ系のこの会社は、ナチス側につく可能性があったのだ。しかし、それも杞憂に終わる。
 戦争がはじまるとイギリスの石油企業は、政府の管轄下におかれた。国内の石油供給も配給制となった。万一、ドイツ軍がイギリスに侵攻した場合は、備蓄施設を破壊する計画が立てられていた。1万7000あったガソリンスタンドは大部分が閉鎖され、2000のスタンドに集約された。
 アメリカからはイギリスに石油を送る支援体制がとられていた。しかし、最大の弱点はタンカーが大西洋を渡らねばならないことだった。ドイツは潜水艦Uボートによって、アメリカのタンカーの航行を脅かした。
 Uボートによるタンカーの被害は甚大だった。さまざまな対策がとられ、護衛部隊も創設されたが、Uボートによる攻撃はやまなかった。イギリスへの石油輸送が切断されかねない情勢となった。日を追うごとにイギリスの備蓄は減っていく。1942年にアメリカが失ったタンカーは、全保有トン数の4分の1に達した。
 Uボートを壊滅させないかぎり、新大陸と旧大陸を結ぶ補給線が確保できないのはたしかだった。そこで連合国側はUボート専門の護衛部隊をつくり、ドイツ側の暗号を解読するとともに、Uボートの動きをつかむ新型レーダーを開発する。これによって状況は一変。Uボートは撃沈され、46カ月にわたる戦いは幕を閉じ、1943年5月に連合国側が大西洋の安全を確保するにいたった。

 いっぽう、アメリカ国内では政府の戦時石油管理局のもと石油の増産がつづけられていた。アメリカ国内で、戦時中、深刻な石油不足が発生することは一度もなかった。1940年には日量370万バレルだった石油は、1945年には日量470万バレルに達している。
 ルーズベルト政権は天然ガスにも強い関心をもっていた。そのかたわら、消費の節約をはかるため、配給制が実施された。深刻なのはゴムの輸入がとまったことで、民生用より軍事用のタイヤを優先せざるをえなかった。自動車は35マイルの時速制限が実施された。最初、反発の強かったアメリカ人も、戦時であることを勘案して次第に政府の要請にしたがうようになる。

 何と言ってもアメリカとイギリスの強みは、国際的な石油の供給体制をつくりあげていたことである。
 とりわけアメリカは国内の南東部で産出した石油を、大西洋を越えてイギリスやソ連に送り、太平洋を越えて前線に送っていた。
 第二次世界大戦は予想以上に膨大な石油を消費した。アメリカから送られた物資のうち、半分が石油と石油製品だった。
 戦争は技術開発を促進する。パイプラインが引かれ、便利な石油缶がつくられた。航空機のためにオクタン価の高いガソリンが新技術によって抽出されるようになった。
 イギリスのスピットファイアがドイツのメッサーシュミットを圧倒するようになったのは、高オクタン価のガソリンによるといわれている。
 連合国が勝利した背景には、燃料不足による作戦の遅滞がなかったためだ、と戦後、アメリカの石油理事会は誇らしげに発表した。唯一の例外はノルマンディ上陸後に、猛烈な勢いで進撃したパットン戦車軍団への石油の供給が間に合わず、そのためソ連軍にベルリン占領を許してしまったことだと、反共主義者は悔しがったという。

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