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経済成長論(2)──マルサス『経済学原理』を読む(13) [商品世界論ノート]

 前回に引きつづき、マルサスは経済成長(富の増大)について考察します。というより、正確にいえば、経済がなぜ成長しないのかを論じています。
 まず取りあげられるのが、土壌の肥沃度です。土壌が肥沃であれば、富は容易に蓄積されるようにみえますが、かならずしもそうではない、とマルサスはいいます。たとえば、その場所が市場から遠く離れていれば、どうでしょう。そこでの生産は、富とは結びつきません。
 もちろん大土地の所有者には、利潤だけではなく、権力や享楽が与えられるという楽しみもあります。しかし、その土地に多くの労働が投入され、多くの農産物がつくられたとしても、それを売る市場がなければ、それはまったくのむだになってしまいます。そこで、マルサスにいわせれば、農業生産の誘因がないところでは、労働者もまた怠惰な習慣を身につけるようになります。そういう場所では、食料が容易に得られるからといって、生活はけっして豊かなにはなりません。
 食料確保に費やす時間が少なくてすみ、多くの時間を他の商品のための労働に費やすことができれば、社会全体として、生活は豊かになると思えるかもしれません。しかし、そう簡単にはいかないとマルサスはうたぐります。そもそも人がはたらくのは、必要品を欠くからであり、必要品を手に入れるために、労働にいそしむのです。必要品が容易に得られるところで、人ははたしてよぶんにはたらくか、とマルサスは意地の悪い疑問を投げかけます。
 インドのような未開発の国では、実際には増加した人口を貧しい土壌で養わなければならず、そのため人びとは貧しいくらしを余儀なくされていました。ところが、イングランドの場合は、それほど土壌が豊かではないのに、農業に従事しているのは小部分で、多くの人が都市に住み、便宜品や奢侈品の生産にたずさわっています。農村人口と都市人口の比率は、当時2対3といったところでした。イングランドで、そうしたことが可能なのは、土地の肥沃度が多少劣っていても、勤労と熟練がそれを補って、じゅうぶんな農産物をつくりだすためだ、とマルサスはいいます。
 ここでマルサスは、フンボルトの著作にもとづいて、スペイン領のヌエバ・エスパーニャ(現在のメキシコとその周辺)のケースを取りあげます。ヌエバ・エスパーニャは、土地が実に肥沃で、無限の資源に恵まれていました。にもかかわらず、その住民は怠惰で、貧しさから抜けだせないのは、どうしてなのでしょう。そう問いかけます。
 バナナやトウモロコシがありあまっているため、人びとは1週間に1日か2日しか働こうとしません。その日暮らしがあたりまえで、たまたまトウモロコシが不作になったときなどは、たちまち飢餓におちいってしまうような状況です。
 ここにはスペイン人の大土地所有者がいました。しかし、かれらは原住民の耕作者に土地を貸しても地代がとれないために、広大な土地を放置したままにして、そこで数百頭の牛を放し飼いにしているだけです。
 こうした気まぐれと怠惰が、産業活動の発展を妨げ、財産の不平等をそのままにしているのです。マルサスは、消費者の欠乏、すなわち需要の欠如こそが貧しさの原因だと断言します。
 そのうえで、マルサスは「土地の肥沃度はそれだけでは富の継続的増大にたいする適当な刺激ではない」という結論を引きだすわけです。
 アイルランドについても、マルサスは多くのページを割いています。アイルランドではジャガイモが栽培され、それによって食料生産にかける時間が大幅に短縮されたにもかかわらず、なぜ人びとの貧しい状態がつづいているのか。過剰な人口が「過度の貧困と窮乏ならびに怠惰」を生みだしている、とマルサスはいいます。
 過剰な人口は安い賃金と結びつきます。農村地帯の労働者は怠惰で、農民の衣服は貧弱で、住居はみすぼらしい、とマルサスは言いたい放題です。収入が少ないために、農民は家屋を建てる材料や衣服をつくる原料を買うこともできない。そのため、けっきょく一日を怠惰にぶらぶらとすごすことが多いというのです。
 アイルランドでは資本が欠乏しており、もし資本が満たされるなら、多くの人びとが雇用されるだろう。しかし、資本が導入されても、それを売る市場も、有効需要も不足しているなかで、富を創造するのは不可能だ、とまたもマルサスは悲観論に傾きます。食料がおもにジャガイモであるため、労働者の賃金は安く、かれらが求めるものも少ない。だからつくりだされた商品は外国市場で売る以外に方法がないのだが、はたしてそうした需要が簡単に見つかるかどうかは、はなはだ疑問だと述べています。「アイルランドの実情では、その製造業がうけた妨げは、資本の欠乏よりはむしろ需要の欠乏によるものである」と、マルサスは断言します。
 しかし、いっぽうでマルサスがこうも述べていることは注目すべきです。

〈その食物の生産に必要な時間と労働を考えれば、アイルランドは商工業の富をつくる能力は莫大であるという状態にある。もし改良された農業組織が、人口に必要な食物および原料を、最善の方法でそれをなすのに必要な最小量の労働をもってつくりだし、また人民の残りが土地をぶらつくことなしに、繁栄した大都市で営まれる商工業に従事するというのであるならば、アイルランドはイングランドよりも比較にならぬほど富裕になるだろう〉

 マルサスは多くの資本が投入され、豊富な労働力が活用されれば、アイルランドは豊かな国になりうると述べているのです。しかし、そのためには需要が必要でした。「肥沃な国における富の不足は、資本の不足によるよりはむしろ需要の不足による」という公式を、ここでまたもマルサスはもちだしています。

 節があらたまります。次の問題は、省力化を可能にする発明、すなわち機械が、富の継続的増大(経済成長)をもたらすかいなかということです。しかし、ここでもマルサスのこたえは同じです。「それ(機械)が与える供給能力が市場における適当な拡張をともなわないかぎり、この便宜は十分に利用されえない」。つまり、またも需要が問題だというわけです。
 機械が導入されると、商品は低価格で大量に生産され、それにともなって、需要も拡大すると考えるのがふつうです。労働者も多く雇用されることでしょう。産業革命期のイギリスの綿工業で生じたのは、たしかに、そういう事態でした。
 しかし、ここでもマルサスは疑問をはさみます。機械によって商品が多くつくられ、その値段が安くなるとしても、そもそもその商品が以前と同じくらいしか売れないものだとしたら、どうなるかというのです。資本は効率化されるが、労働者は解雇されるだろう、とマルサスはいいます。
 有望な海外市場があって、その市場のために、あまった資本や労働力を活用できれば、まったく問題はありません。しかし、市場が国内にかぎられているなら、機械をいれても、産業活動への意欲が失われてしまうのではないか。たとえば農産物でいうと、地主(貴族)から土地を借りる農家(借地農)も小地主も、苦労を要する労働をしなくなるだろう、とマルサスはいいます。
 商品がいくらつくられても、需要さえあれば、それは購入されます。たとえば、イギリスでは1817年度に、綿製品、羊毛品、鉄製品が3000万ポンド以上輸出され、コーヒー、藍(インディゴ)、砂糖、茶、絹製品、たばこ、ブドウ酒、綿花が1800万ポンド以上輸入されました。これも機械によって、多くの製品がつくられ、それが海外に売られて、海外から多くの嗜好品を買えるようになったおかげだ、とマルサスも認めます。
 しかし、もし商品をつくっても、それにたいする市場が拡張されなければどうなるか。その影響は、地代、利潤、賃金のかたちで得られる所得にはねかえってくるだろう、とマルサスは懸念します。
 ここでマルサスは海外との貿易が途絶した場合、茶やコーヒー、砂糖その他の代用品を国内で見つけることができるかと問うています。それはまず不可能なことで、外国との貿易がなければ、イギリスは貧しく、人口も希薄なままだったろうといいます。
 イギリスの製造業が、アダム・スミスのいうように、外国製品の模倣、あるいは改良からはじまったことも認めています。蒸気機関は産業の発達を促しました。それによってイギリスは綿製品、毛織物、鉄器類で国際的に優位に立ち、海外に多くの製品を輸出できたのですが、それがもし輸出できなかったとしたら、いったいどうなっていただろうかとマルサスは心配します。
 マンチェスター、グラスゴー、リーズは繁栄しています。それはこうした都市でつくられる製品にたいして需要があり、またその製品をつくるために多くの人が雇用されているからです。
「しかしもし、適当な市場の拡張をともなわない機械による労働の節約のために、必要とされる人間がはるか少数でまにあうならば、これらの都市が比較的まずしくなり、そして人口希薄になるであろうことは、明らかである」
 この不吉な予言は、その後、おおむね、あたることになります。20世紀にはいるとマンチェスターなどの都市では、綿工業が衰え、人口が半減することになるからです。しかし、それはマルサスの時代から100年以上あとのことです。
 マルサスは「どんな国でも疑いなく、量においてどれほど多くても、その生産するいっさいのものを消費する能力をもっている」けれども、実際にその意思があるかどうかは別問題だとも述べています。需要の能力があっても、実際の需要(有効需要)となるかどうかはわからないというのです。
 人びとが懸命にはたらき、商品をつくりだして、その商品をすべて欲するならば、外国市場は無用となるだろうとも述べています。しかし、過剰供給のもとでは、商品価値も、産業活動も、消費も低迷する恐れがあります。そして、その場合は、支出が増加するよりも貯蓄が増加することになるのです。
 一般的に、機械が富と価値の増大をもたらすことをマルサスも認めています。しかし、それは市場の拡張と消費の増大をともなって、はじめて保証されるというのがマルサスの考え方だったといえるでしょう。
 これまでの考察について、マルサスはこう総括しています。

〈生産にもっとも好都合な3大要因は、資本の蓄積、土壌の肥沃度、および労働を節約する諸発明である。それらはすべて同じ方向に作用する。そしてそれらはすべて、需要とは関係なく供給を便宜にする傾向をもっているから、それらは、個々にもまたは共同してでも、富の継続的増大にたいする適当な刺激を与えることは、ありそうもない。富の持続的増大は、貨物にたいする需要の継続的増大によってのみ維持されうるのである〉

 マルサスは供給より需要が問題だといいます。だとすれば、需要はいかにすれば増大するのか(少なくとも確保されるのか)という問題が浮上してきますね。
 以下ではその問題が論じられますが、また長くなりましたので、つづきはまた次回ということにしましょう。

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