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マルサス『経済学原理』 (まとめ)その2 [商品世界論ノート]

[マルサス『経済学原理』のつづき]

   10 賃金論

 賃金とは労働者の骨折りにたいして支払われる報酬のことであり、実質賃金と名目賃金とは区別されねばならない、とマルサスは書いている。
 労働者の発生は、それ自体、大きな歴史的問題といえるだろう。しかし、マルサスの時代、すなわち19世紀初頭は労働者が増え、雇用されて賃金を得、それによって生活を支えるという生き方が一般的になっていた。
 賃金は労働にたいする需給関係によって決まるというのが、マルサスの基本的な考え方である。労働者側からいうと、労働を供給する最低条件は、家族の生活を維持しうる生活必需品を購入しうる価格ということになる。
 アダム・スミスは労働者によって賃金がことなる理由を、職業の性格や熟練度、技術の習得に要する時間や難易度などによって説明したが、マルサスはそれらをすべて需給関係に還元する。需要にたいして、供給が稀少な場合は賃金が高くなるし、逆に需要にたいして、供給があふれるくらいの場合は、賃金が安くなるというのである(どちらの場合も雇用数に影響するだろう)。
 マルサスは賃金においても、商品と同じ需給原則がはたらくというのが、悲しいながら、この世の摂理だと説いている。「しかし、それでも、[賃金は]人民の現実の習慣のもとで停滞的人口を維持するに必要なもの以下には下落しない」。賃金の下落には限度があるとみていた。
 次にマルサスは、労働者階級の生活状態がどのようにして決まるかについて考察している。労働にたいする需要と、衣食住についての習慣が大きなポイントになる。これらはともに変化していく。労働への需要が増え、衣食住に余裕が生まれるときには、労働者は便宜品や娯楽品を買うこともできるようになると書いている。
 生活水準は国や地域によってことなる。子どもが多く生まれる場合は、賃金は家族を養うだけでせいいっぱいとなるだろう。人口が急速に増えるため、職につけない者が増え、賃金は上がっていかない。
 アイルランドでは18世紀にジャガイモがもちこまれ、そのため人口が急速に増え、はたらけど貧苦にあえぐ人びとが多くなった。いっぽう、イングランドでは耕作の改良によって、穀物価格が下落し、実質賃金は上昇した。イングランドでは、人口の増加がわりあい抑えられ、市民的自由と教育が広がったおかげもあって、労働者の生活水準は上昇したという。パンも劣悪なものから、小麦のパンへと変化した。
 こうした事態を、マルサスは「人口の[比例的な]増大をともなうことのない、生活の必要品への支配力の増大」と表現している。
 穀物価格の下落と名目賃金の上昇が同時におこる場合、ふつう人口は増大していくが、まれにそうではないこともある。賃金を人口との関係で考えるのが、いかにもマルサスらしいところである。
 人口が増えると、より多くの食料が必要となる。アメリカの人口が増えているのは、賃金が高いのに比して食料価格が比較的低いからだ、とマルサスはいう。アイルランドの人口が急増したのは、安価な食料(ジャガイモ)が導入されたからである。イングランドでも労働者階級がより大きな分量の食物を獲得する能力をもつことによって、人口が増大した。
 一般に人口が増える要因は、労働にたいする継続的な需要が存在することである。機械の導入による省力化は、労働にたいする需要を減少させるようにみえるが、その生産物がより多く売れることになれば、それにともない労働者への需要がつくりだされる可能性がある。
 マルサスは機械の導入による大量の綿製品の販売が、同時に多くの労働需要を生んだことを例に挙げる。それは綿製品だけではなく、毛織物や金属製品、農業などに関してもいえる。産業革命が軌道に乗りはじめていた。
 過渡的な状況はともかくとして、「固定資本の採用が、労働にたいする有効需要を減少させるであろうと心配する必要はほとんどない」と、マルサスは書いている。
 一国の全生産物の価値は、価格に生産量をかけたものによって決定される。しかし、もし価格だけが上がって、生産量が増えない場合は、賃金も上がるけれども、労働にたいする需要は増えず、人口も停止状態がつづく。逆に生産量だけが増えて供給が過剰になっても、労働への需要を引き起こすわけではないという。
 前者の場合はインフレが生じており、後者の場合は過剰生産と過小消費という状況である。マルサスには、こういうマクロ的な視点もある。
 マルサスは、これらは極端なケースであって、もっとも望ましいのは富の増大と、労働にたいする需要とが、うまく引きあうことだという。「もっとも確実に労働にたいする最大の需要を創造し、最大量の産業活動を刺激し、かつ一般に人口の最大の増加をひきおこすものは、分量と価格両者のこの増大である」
 マルサスは貨幣価値の下落(つまりインフレ)が労働の需要におよぼす影響についても、歴史をさかのぼりながら検討している。
 14世紀半ばから15世紀末にかけては、鋳貨の価値が下落し、小麦価格が上昇、労賃も同じく上昇した。16世紀は実質賃金が下落した時代だった。この時代は、穀物価格が異常に上昇していた。17世紀にはいると、穀物価格は下落し、賃金も同時に下落したが、その下落幅は相対的に小さかった。
 17世紀末に穀物価格は上昇したが、賃金はそれに応じて上昇したわけではない。18世紀の最初の20年間は、穀物価格が下落する。1805年から10年にかけて、穀物価格は倍になるが、それに応じて賃金もまた2倍に上昇している。
 以上のことから、マルサスは次のような結論を導きだす。
 アメリカの鉱山発見は、ヨーロッパに膨大な銀の流入をもたらし、それによって貨幣価値は下落し、賃金も上昇したものの、賃金は実質的には下がった。マルサスは16世紀における実質賃金の下落は、それ以前の異常な上昇にたいする反動だったとみている。その背景には、耕作制度の改善と商工業の発達、フランスの戦争、イングランド国内におけるヨーク家とランカスター家の争い(いわゆるバラ戦争)があった。この時代、穀物の価格はきわめて安価だった。
 15世紀に賃金が上昇したのは、貨幣価値の下落と、おそらくは黒死病による人口減が大きな要因だった。しかし、貨幣が減価し、インフレが進行するなかで、労働者階級の状態は改善されず、むしろいっそう悪化した、とマルサスはいう。この時期、人口はある程度増大したが、賃金はそれに見合ったかたちで上昇していない。天候不順の影響で、穀物価格が高かったからである。
 17世紀にもイングランドでは内乱がおこるが、このとき穀物価格は上昇している。実質賃金が下落するのは、穀物価格が急速に上昇し、賃金上昇がそれに追いつかなくなるときである。
 しかし、長期にわたって実質賃金に影響をおよぼすのは、人口の動向である。労働人口が過剰な場合は、労働の供給が需要よりも大きく、それによって実質賃金は下落する、とマルサスはいう。
 賃金によって、どれだけの食料が得られるかは、人口増加にたいする刺激の尺度でもあり、労働者の生活状態を推し量る尺度でもある。マルサスが救貧法に反対するのは、それが自然の賃金決定の流れをゆがめてしまうとみたからである。
 マルサスは労働者階級に、みずからの生活を維持するための慎重な態度、すなわち勤勉と節制という生活規律を求めた。努力してかせいだわずかな賃金によって、つましく暮らすというのが、かれの描いた理想の労働者像だったかもしれない。

   11 利潤論

 賃金が利潤に影響をもたらすことは、いうまでもない。しかし、マルサス経済学の特徴は、商品の価値が需要と供給の関係によって決定されることを強調した点にある。したがって、利潤は、実現された価値から、労賃を含む生産コストを引いたものとなる。
 労賃は不変ではなく、需要と供給の関係によってきまる。もし実質賃金が生活の必要を満たす以上に与えられるなら、人口は増大し、労働人口も増大していく。だが、労働人口が増えると、こんどは労働の供給が増えて、実質賃金が低下していくことになる。
 マルサスの頭には、商品といえば、まず農産物が浮かぶ。そこで、まず農産物の利潤について考察するのは、とうぜんの道行きだろう。
 土地の大きさにはかぎりがあり、その肥沃度にもちがいがある。人口が増えて、耕作が進むにつれ劣等地に労働が投入されるようになると、とうぜん労働の生産力が落ち、収穫量が少なくなってくる。いわゆる収穫逓減の法則がはたらくのである。そして全体の生産物が少なくなると、実質賃金も下落していく。
 しかし、実質賃金は、一定水準以下に下落することはない。そこで、利潤率が下落していくことになる。これは商工業についてもいえることだという。そして、利潤率と実質賃金が減少していくなかで、生産物にたいする有効需要も限界に達し、供給も壁にぶつかる。収穫逓減の法則にもとづく制限原理がはたらくのである。
 こうした考え方は、リカードとほぼ変わらない。
 次にマルサスは、資本が豊富であるにもかかわらず、なぜか人口が増えず、労働が相対的に稀少であるケースを想定している。この場合は、当初、高い利潤と高い賃金が実現するだろう。そして、資本が増大するにつれ、賃金は上昇し、利潤率は低下していく。その結果、今度は人口が増えて、労働者数が増加し、実質賃金が下落するという経緯をたどる。
 ここでマルサスが強調しているのは、賃金と利潤(そして地代)が対立関係にありながら、相補関係を保っているということである。
 こう記している。

国の土地、資本、および労働によって獲得される巨大な生産物のうち、極小部分がそれぞれかれらの分け前に帰するというのは、当然に労働階級にとって苛酷であるようにみえるかもしれない。しかし、この分配は、供給および需要の必然的法則によって現在規制されており、そして将来においてもつねに規制されるにちがいない。

 地代や利潤、賃金が、あたかも神の摂理であるかのように、収穫逓減の法則によって制限され、需要と供給の原理によって規制されるというのが、マルサスの世界である。
 マルサスによると、人口が増えつづけるときには、賃金は人口を維持できないくらいまでに低下していく。さらに、社会が進歩するにつれ、食物獲得の困難が増すために、利潤は下落する傾向がある。いわゆる収穫逓減の法則がはたらくためだが、それだけが利潤下落の原因ではない。もうひとつ別の原因がはたらいているというのである。
 商品の価値は、それについやされた労働によっては決められない、とマルサスは考えていた。商品の価値が、地代と利潤と労働に分配されるのはあたりまえで、賃金が上昇すれば、利潤は下落するというのは自明の理である。しかし、利潤を決定するのは、賃金自体より、むしろ需要供給の原理による、とマルサスは考えた。
 労働に比べて資本の供給が不足すれば、利潤は高くなるし、逆に労働に比べて資本の供給が過大であれば、利潤は低くなるともいっている。
 ここで、マルサスは利潤に影響を与える原因として、ふたつの原理、すなわち収穫逓減の法則と、需要・供給の原理を統合しようとこころみる。
 土地の耕作が進み、劣等地の開発がなされるにつれて、利潤率は低下する。しかし、農業上の改良がなされるならば、利潤率の下落はある程度抑えることができる。労働階級の努力と労働の質の向上もまた、生産の増加と利潤の維持に寄与する。
 しかし、利潤は生産物のコストと価格の差額であるために、需給による変動をまぬかれない。生産物の価格を決定するのは需要と供給の原理である。したがって、穀物にたいする需要の増大が、穀物価格の高騰をもたらし、それが利潤を上昇させることもある。
 とはいえ、マルサスは同じ食物を獲得するのに、労働量が増加していくために、利潤率が下落するという物理的必然性があることを認めており、そうした利潤率低下の傾向が農業部門だけではなく、産業全体におよぶとしている。この点でも、かれはリカードの見解をそのまま踏襲したといえるだろう。
 しかし、こうした利潤率低下の傾向は長期的に真実だとしても、その途中の過程においては、それを相殺する要因がはたらくこともあるというのが、自身の考え方だとしている。
 マルサスはここで歴史をふり返り、1727年から1750年にかけて、戦争をはさんで、イングランドの利子率はほぼ3%であったと述べている。利子率は利潤率とほぼ等しいため、この時期は利潤率が低かったことがわかる。しかし、その後、1793年になると、利子率はほぼ20年にわたって5%以上となる。このことは利潤率が一般的に下落していくという理論と矛盾する、とマルサスはいう。
 利潤率は、資本の相対的な過剰または不足による影響を受けるのではないか、というのがマルサスの見方だった。たしかに後者の時代はナポレオン戦争のあった異常な時代であり、そのことが利潤率に影響を与えた可能性をマルサスも認めている。
 第一の時期においては、穀物価格が下落したのに、賃金はそれに比例して下落しなかった。そのため、この時期の農業利潤は下落した。加えて、皮革、鉄、木材などの価格が上昇し、農業者の資本支出も増加した。にもかかわらず穀物価格が下落したため、国が疲弊したわけでもないのに、農業の利潤率は下落した。
 いっぽう、1793年から1813年にかけての時期はどうだったのか。マルサスはこの20年間に農業の改良が進展し、また労働効率が上昇したと指摘する。さらに戦争経済によって、労働需要も拡大した。とりわけ大きな影響をもたらしたのが穀物価格の上昇である。こうして、資本の側も労働の側も生産力をあげることによって、利潤率を上昇させることができた。
 しかし、こうした偶然がいつまでもつづくわけではない、とマルサスはいい、こう付け加えている。

将来の時期を考えるにあたっては、われわれは農業上の改良と、労働者階級における骨折りの増大とを期待しえない。これはある程度真実である。同時に、国内産穀物にたいする大きな需要は、農業上の改良を奨励する傾向が大きいにちがいないし、そして労働にたいする大きな需要は現実の人口を刺激してより多くの仕事をさせるようになるにちがいないことを認めなければならない。

 マルサスは労働生産力が増大することによって、将来、利潤率が上昇する可能性に言及する。そして、土地の自然力、すなわち収穫逓減の法則のみを利潤決定の唯一の原因として、利潤率低下の法則を導く考え方を批判するのである。
 マルサスはリカードの利潤論に論評を加えている。
 リカードは利潤が賃金によって規制されるとしているが、それはまちがいだ、とマルサスはいう。たしかに商品の価格が変わらないのに賃金が上昇すれば、利潤は減るだろう。
 しかし、マルサスはこういう。

利潤は、貨物の価格が下落する程度を規定するところの競争の原理または需要および供給の原理によってのみ、規制をうけることは明らかである。そして労働の斉一な価格に比較した貨物の価格がおもに利潤率を規制するのである。

 マルサスはその一例として、海外に穀物を依存している商業都市を想定し、そこで製造品が増産され、その価格が下がるといったケースをもちだしている。この場合は単品ごとの利潤が減少するため、同じ穀物を得るために多くの仕事が必要になってくる。この場合、利潤が減るのは、労働賃金が騰貴するためではなく、需要と供給の原理がはたらくためだという。
 これにたいし、リカードは、外国市場に売られる商品の価格は一定で、国内の穀物や労働の価格が変化するために、利潤がこれに比例して変化すると考えている、とマルサスは指摘する。しかし、外国向けの商品が供給過剰になれば、その価格は下落することもありうるのではないか、とマルサスは反論する。
 さらにマルサスはリカードが農業の改良に重きをおいていないことを批判する。国の産業化をおし進めるために、穀物法を撤廃し、食料品輸入の自由化を認めるべきだというのがリカードの考え方だった。これにたいし、マルサスは輸入穀物に頼らず、農業を改良していくことによってこそ、利潤率の低落をおさえ、地代を確保していくことができるという。
 マルサスは工業製品輸出主導型の経済が、国を豊かにするとは思っていなかった。利潤の下落は、労働賃金が高騰するためだけではなく、生産過剰による商品価格の下落もまた原因ではないかというのである。
 リカードが穀物輸入を推進することによって、労働賃金の抑制をはかろうとしたのにたいし、マルサスは、たとえ収穫逓減の法則(制限原理)がはたらくにせよ、農業の改良によって、農業生産物の増加をはかり、それによって労働賃金の抑制と地代の確保、人口増への対応、さらには需要の下支えを得ようという戦略を示した。このあたりは地主(貴族)の側に立って、穀物法の撤廃に反対したマルサスの考え方がよくあらわれている。

   12 経済成長論

『経済学原理』の最終章には「富の増進の直接原因について」という見出しがつけられている。それをマルサスの経済成長論と名づけることにしよう。
 最初にマルサスは、生産力がそれほど減少しないのに、国によって富が増えたり増えなくなったりする原因は何かという問いを立てている。財産権が保証されているかどうかは、経済にとって大問題だが、それはどちらかというと、政治や道徳、宗教が大きな影響をもっている。だが、その点にはふれず、もっぱら経済面にしぼって、富の創造や増進について考えてみようと述べている。
 そこで、まずマルサスが問うのは、人口の増加が経済成長に寄与するかどうかということである。たしかに人口の増加は、需要を増加させるだろう。しかし、問題は需要があるかどうかというより、有効需要があるかどうかだ、という。つまり、実際に商品を買ってもらえるかどうかが問題だというのである。
 労働者は、利潤を期待する資本家に雇用されないかぎり、賃金を得られない。一般に人口の増加は、賃金を引き下げるから、それによって資本家は労働者を雇いやすくなる。しかし、労働の追加投入によって、生産物の量が増えると、こんどは商品価格が下落してしまうという問題が発生する。そうすると雇用は頭打ちになり、賃金もさらに下がって、経済も停滞してしまう。これは悪循環となる。
 経験上、人口が過剰なため経済成長が緩慢で、貧しさから脱出できない国は数多くある。したがって、「人口だけでは富にたいする有効需要を創造しうるものではない」。
 ただし、人口が増えるのは富が増大しているからだともいえるわけで、その点は一見矛盾しているようだが、現実には経済が停滞しているのに、人口が増大し、貧困にあえいでいる国は、世界じゅうにいくつもある。
 次にマルサスは、資本の蓄積が経済成長に与える影響について検討する。資本の蓄積は経済成長(富の継続的増大)をうながす。しかし、そもそも資本の蓄積とは何を意味するのか。
 ここでも、マルサスは悲観論者である。資本が蓄積されて、多くの労働者が雇われ、商品の生産量が増えると、その価格は下落し、場合によっては生産コストさえまかなえなくなり、資本はなし崩しに減っていくのではないかという。
 セイは「供給はそれ自身の需要を創造する」と主張した。しかし、マルサスはこの学説はまったく根拠がなく、需要と供給の原理に矛盾しているという。供給過剰、言い換えれば需要不足は、おおいにありうることだ。
 供給過剰(需要不足)になると、商品の価値は下落し、増産がさまたげられる。労働の実質賃金も下がっていく。
 人間性が「怠惰、または安易の愛好」におちいりやすいことも、経済成長をさまたげる要因だとも書いている。
 ここで、マルサスは農業部門と工業部門とのあいだに交換がなされる場合を想定する。それぞれの部門が新商品をつくりだし、それが互いに交換されるならば、供給と需要が拡大するはずである。この場合は、経済が発展したといえるのではないだろうか。
 しかし、そうはならないというのがマルサスの見方だった。人は怠惰に走りやすいからである。資本が増大すれば、新商品がつくりだされ、それが需要を喚起して、経済が発展すると思うだろう。だが、そうはならず、余剰が生まれれば、人は努力するより、むしろまどろんでしまう、とマルサスはみる。
 ふつうは、資本が蓄積されれば、商品が増産され、それに応じて有効需要が生みだされると考える。しかし、マルサスは、かならずしもそうはならないという。
 リカードの考え方は、増加した富は、資本として生産に用いられるにせよ、消費に回されるにせよ、いずれにせよ需要となるというものだった。ところが、マルサスはそうとはかぎらないという。たとえば地主はカネがあまっているからといって、必要以上に労働者を雇用して、割にあわない増産をめざしたりするだろうか。それよりも、カネをためこむ道を選ぶだろうという。
 農業者も製造業者も、新商品を生みだす努力をするより、将来に備えて貨幣を貯蓄するのなら、需要は拡大せず、経済は停滞する。
 農業者も製造業者も、労働者を養うことを目的にして、事業をおこなうわけではない。かれらが労働者を雇うのは、最大限のもうけを得るためである。地主はこのもうけによって、奢侈品を買ったり、召使い(不生産的労働者)を維持したりする。これはアダム・スミスの嫌った、経済発展に結びつかない浪費にはちがいない。それでも需要の一部ではある。
 しかし、借地農(農業経営者)にしても製造業者にしても、必要とされる以上に農産物や工業製品を供給することはないだろう。かれらは、労働者の雇用増大が、新たな需要を保証し、利潤率を確保するとはかぎらないことがわかっているというのである。
 商品の価値は、需要と供給の原理によってきまるというのがマルサスの考え方である。そこで需要が少ない場合は、商品の価値は下落し、労働者の賃金を支払うのがせいいっぱいで、利潤率は極端に低くなる。それは農産物についてもいえることで、最大限の増産がおこなわれたときは、供給が過剰となり、かといって農業労働者の賃金はある程度しか下落しないので、農業経営者の利潤は減っていく。
 資本家の利潤が減って、その分、労働者の賃金が増えるなら、需要は減らず、経済成長は保たれるかもしれない。しかし、資本が蓄積され、有効需要をともなわない過剰供給がつづく結果、労働階級が失業することになれば、かえって「富と人口との著しい減退」を招くことになる、とマルサスはいう。
 利潤の資本への転化が、富の増進をもたらす場合もある。しかし、「わたしのいいたいと思うところは、どんな国民も、消費の永続的減少から生まれる資本の蓄積によっては、おそらくは富裕になりえない、ということに尽きている」。
 マルサスの見方はあくまでも悲観的である。資本の蓄積によって、商品が豊かに、また低廉になれば、労働者の消費を増大させることになるが、それはまた利潤率を低下させるので、資本の増大はすぐに壁にぶつかると述べている。一定の需要しかなければ、それ以上の資本の蓄積はむだということになる。
 さらに、マルサスは資本と人口との関係について、こう述べている。

資本の不足と人口の不足という双方の場合に必要とされる第一のものは、貨物にたいする有効需要、すなわち貨物にたいして適当な価格を支払う能力と意志とをもつ人びとによる需要である。そして高い賃金が人口の増大をともなうほど確実には、高い利潤は人口の増大をともなわないとしても、しかも外見よりは一般に比較的多くともなうものであるとわたしは信ずる。

 この一節は、経済の成長を説明しているかのようにみえる。
 しかし、こうした事態は「戦争のあいだの資本の喪失が回復されていく」といった特殊な過程においてしかあらわれない、とマルサスはいう。
 マルサスがほんとうにいいたいのは次のことである。

富を永続的に増大させるために、このような資本の生産物にたいする適当な需要がないときに、収入を資本に転化しつづけることは、労働にたいする需要とその扶養のための基金の増大がないのに、結婚と子供の出生とを奨励しつづけるのと同じようにむだなことである。

 ここでも、マルサスの見方は悲観的である。そのためか、産業革命をへて、近代化が進展するなかで、経済学の主流となったのは、食料輸入の自由化と積極的な資本蓄積を推し進めるべきだというリカードの考え方だった。しかし、マルサスの悲観論は、経済の低成長があたりまえとなった現在では、かえってなるほどと思わせるところがある。よみがえるマルサスとでもいえるだろうか。


   13 なぜ貧しさから抜けだせないのか

 マルサスは経済成長(富の増大)というより、正確にいえば、経済はなぜ成長しないのかを論じている。
 まず取りあげられるのが、土壌の肥沃度である。土壌が肥沃であれば、富は容易に蓄積されるようにみえるが、かならずしもそうではない、とマルサスはいう。たとえば、その場所が市場から遠く離れていれば、そこでの生産は富を生む商品とは結びつかない。
 もちろん大土地の所有者には、利潤だけではなく、権力や享楽が与えられるという楽しみもある。しかし、その土地に多くの労働が投入され、多くの農産物がつくられたとしても、それを売る市場がなければ、それはまったくのむだになってしまう。そこで、マルサスにいわせれば、農業生産の誘因がないところでは、労働者もまた怠惰な習慣を身につけるようになる。そういう場所では、食料が容易に得られるからといって、生活はけっして豊かにはならない。
 食料確保に費やす時間が少なくてすみ、多くの時間を他の商品のための労働に費やすことができれば、社会全体として、生活は豊かになると思えるかもしれない。しかし、そう簡単にはいかないのでは、とマルサスは疑う。そもそも人がはたらくのは、必要品を欠くからであり、必要品を手に入れるために、労働にいそしむのである。必要品が容易に得られるところで、人ははたしてよぶんにはたらくか、とマルサスは意地の悪い疑問を投げかけている。
 インドのような未開発の国では、実際には増加した人口を貧しい土壌で養わなければならず、そのため人びとは貧しいくらしを余儀なくされていた。ところが、イングランドの場合は、それほど土壌が豊かではないのに、農業に従事しているのは小部分で、多くの人が都市に住み、便宜品や奢侈品の生産にたずさわっている。イングランドで、そうしたことが可能なのは、土地の肥沃度が多少劣っていても、勤労と熟練がそれを補って、じゅうぶんな農産物がつくられるためだ、とマルサスはいう。
 ここでマルサスは、フンボルトの著作にもとづいて、スペイン領のヌエバ・エスパーニャ(現在の北米大陸の半分と中米、カリブ海一帯)のケースを取りあげている。ヌエバ・エスパーニャは、土地が実に肥沃で、無限の資源に恵まれていた。にもかかわらず、その住民は怠惰で、貧しさから抜けだせないのは、どうしてなのだろう。
 バナナやトウモロコシがありあまっているため、人びとは1週間に1日か2日しか働こうとしない。その日暮らしがあたりまえで、たまたまトウモロコシが不作になったときなどは、たちまち飢餓におちいってしまう。
 ここにはスペイン人の大土地所有者がいた。しかし、かれらは原住民の耕作者に土地を貸しても地代がとれないために、広大な土地を放置したままにして、そこで数百頭の牛を放し飼いにしているだけだった。
 こうした気まぐれと怠惰が、産業活動の発展を妨げ、財産の不平等をそのままにしている。マルサスは、消費者の欠乏、需要の欠如こそが貧しさの原因だと断言する。
 そのうえで、マルサスは「土地の肥沃度はそれだけでは富の継続的増大にたいする適当な刺激ではない」という結論を引きだす。
 アイルランドについても、マルサスは多くのページを割いている。アイルランドではジャガイモが栽培され、それによって食料生産にかける時間が大幅に短縮された。にもかかわらず、なぜ人びとのあいだでは貧しい状態がつづいているのか。過剰な人口が「過度の貧困と窮乏ならびに怠惰」を生みだしている、とマルサスはいう。
 過剰な人口は安い賃金と結びつく。農村地帯の労働者は怠惰で、農民の衣服は貧弱で、住居はみすぼらしい。収入が少ないために、農民は家屋を建てる材料や衣服をつくる原料を買うこともできない。そのため、けっきょく一日を怠惰にぶらぶらとすごすことが多いという。
 アイルランドでは資本が欠乏しており、もし資本が満たされるなら、多くの人びとが雇用されるだろう。しかし、資本が導入されても、それを売る市場も、有効需要も不足しているなかで、富を創造するのは不可能だ、とまたもマルサスは悲観論に傾く。食料がおもにジャガイモであるため、労働者の賃金は安く、かれらが求めるものも少ない。だからつくりだされた商品は外国市場で売る以外に方法がないのだが、はたしてそうした需要が簡単に見つかるかどうかは、はなはだ疑問だと述べている。「アイルランドの実情では、その製造業がうけた妨げは、資本の欠乏よりはむしろ需要の欠乏によるものである」
 しかし、いっぽうでマルサスがこう述べていることも注目すべきだろう。

その食物の生産に必要な時間と労働を考えれば、アイルランドは商工業の富をつくる能力は莫大であるという状態にある。もし改良された農業組織が、人口に必要な食物および原料を、最善の方法でそれをなすのに必要な最小量の労働をもってつくりだし、また人民の残りが土地をぶらつくことなしに、繁栄した大都市で営まれる商工業に従事するというのであるならば、アイルランドはイングランドよりも比較にならぬほど富裕になるだろう。

 マルサスは多くの資本が投入され、豊富な労働力がうまく活用されれば、アイルランドは豊かな国になりうると述べている。しかし、そのためには需要が必要だった。「肥沃な国における富の不足は、資本の不足によるよりはむしろ需要の不足による」という公式を、ここでまたもマルサスはもちだしている。
 次の問題は、省力化を可能にする発明、すなわち機械が、富の継続的増大(経済成長)をもたらすかいなかということである。しかし、ここでもマルサスのこたえは同じ。「それ(機械)が与える供給能力が市場における適当な拡張をともなわないかぎり、この便宜は十分に利用されえない」。つまり、またも需要が問題だということになる。
 機械が導入されると、商品は低価格で大量に生産され、それにともなって、ふつうは需要も拡大するはずだ。労働者も多く雇用されるだろう。産業革命期のイギリスで生じたのは、たしかに、そういう事態だった。
 しかし、ここでもマルサスは疑問をはさむ。機械によって商品が多くつくられ、その値段が安くなるとしても、そもそもその商品が以前と同じくらいしか売れないとしたら、どうなるか。資本は効率化されるが、労働者は解雇されるだろう、とマルサスはいう。
 有望な海外市場があって、その市場のために、あまった資本や労働力を活用できれば、まったく問題はない。しかし、市場が国内にかぎられているなら、機械をいれても、産業活動への意欲が失われてしまうだろう、とマルサスはいう。
 商品がいくらつくられても、需要さえあれば、それは購入される。たとえば、イギリスでは1817年度に、綿製品、羊毛品、鉄製品が3000万ポンド以上輸出され、コーヒー、藍(インディゴ)、砂糖、茶、絹製品、たばこ、ブドウ酒、綿花が1800万ポンド以上輸入された。これも機械によって、多くの製品がつくられ、それが海外に売られて、海外から多くの嗜好品を買えるようになったおかげだ、とマルサスも認める。
 しかし、もし商品をつくっても、それにたいする市場が拡張されなければどうなるか。その影響は所得にはねかえってくるだろう、とマルサスは懸念する。
 ここでマルサスは海外との貿易が途絶した場合、茶やコーヒー、砂糖その他の代用品を国内で見つけることができるかと問うている。それはまず不可能なことで、外国との貿易がなければ、イギリスは貧しく、人口も希薄なままだろうという。
 イギリスの製造業が、アダム・スミスのいうように、外国製品の模倣、あるいは改良からはじまったことも認めている。蒸気機関は産業の発達を促した。それによってイギリスは綿製品、毛織物、鉄器類で国際的に優位に立ち、海外に多くの製品を輸出できたのだが、それがもし輸出できなかったとしたら、いったいどうなっていただろうかとマルサスは心配する。
 マンチェスター、グラスゴー、リーズは繁栄している。それはこうした都市でつくられる製品にたいして需要があり、またその製品をつくるために多くの人が雇用されているからである。
「しかしもし、適当な市場の拡張をともなわない機械による労働の節約のために、必要とされる人間がはるか少数でまにあうならば、これらの都市が比較的まずしくなり、そして人口希薄になるであろうことは、明らかである」
 この不吉な予言は、その後、おおむね、あたることになる。20世紀にはいるとマンチェスターなどの都市では、綿工業が衰え、人口が半減したからである。しかし、それはマルサスの時代から100年以上あとのことだ。
 マルサスは「どんな国でも疑いなく、量においてどれほど多くても、その生産するいっさいのものを消費する能力をもっている」けれども、実際にその意思があるかどうかは別問題だとも述べている。需要の能力があっても、実際の需要(有効需要)となるかどうかはわからないというのである。
 人びとが懸命にはたらき、商品をつくりだして、その商品をすべて欲するならば、外国市場は無用となるだろうとも述べている。しかし、過剰供給のもとでは、商品価値も、産業活動も、消費も低迷する恐れがある。そして、その場合は、支出が増加するよりも貯蓄が増加する。
 一般的に、機械が富と価値の増大をもたらすことをマルサスも認めている。しかし、それは市場の拡張と消費の増大をともなって、はじめて保証されるというのが、かれの考え方だったといえるだろう。
 これまでの考察について、マルサスはこう総括している。

生産にもっとも好都合な3大要因は、資本の蓄積、土壌の肥沃度、および労働を節約する諸発明である。それらはすべて同じ方向に作用する。そしてそれらはすべて、需要とは関係なく供給を便宜にする傾向をもっているから、それらは、個々にもまたは共同してでも、富の継続的増大にたいする適当な刺激を与えることは、ありそうもない。富の持続的増大は、貨物にたいする需要の継続的増大によってのみ維持されうるのである。

 マルサスは供給より需要が問題だという。だとすれば、需要はいかにすれば増大するのか(少なくとも確保されるのか)という問題が浮上してくる。

   14 需要の根拠

 富が創造されるには、単に物がつくられるだけではなく、人びとの欲求がこの生産物に適応しなくてはならない、とマルサスは書いている。
 富はほんらいストックとしての資産を指すが、商品世界においては、フローとしての商品価値を意味するといってもよいだろう。これを国全体の総計としてあらわすと、国内総生産(GDP)という概念に到達する。
 商品が商品として自己を実現するには、需要の支えがなくてはならない。マルサスは、そのことを強調している。
 その需要はどのようにして得られるのか。マルサスは、需要の根拠となるのは、生産物の分配、言い換えれば、賃金、地代、利潤などからなる所得だと考えた。そして、もし生産物が需要にくらべ過剰に供給されるならば、その商品の価格は下落し、逆に需要が大きければ、価格は上昇するとみた。
 商品に含まれる労働量が2倍になれば、商品価値も2倍になるというのが、リカードの原理だった。しかし、現実にはかならずしもそうはならないのではないか、とマルサスは疑問を投げかける。
 何かの事情で、需要が減るときには、その商品の価値も減少する。そして、それが長く続けば、資本家は次第にその商品をつくろうとする意欲を失い、労働者は解雇されることになる。
 したがって、富、言い換えれば商品の価値が増大しつづけるには、需要もまた増大していかなければならない。そのためには、まず所得の有効な分配がおこなわれ、消費者の数と欲求、能力が確保され、「貨物の供給とそれにたいする需要とのあいだに、妥当な比例が維持されることが必要」になる。
 資本の蓄積が、単に上流階級の消費を減らすことによってなされるのであれば、それは富の増進につながらない。資本の蓄積が有効になるのは、現実に商品価値および収入の増大がもたらされる場合だけである。そうしたことが可能になるのは「収入の年々の増大と、支出および需要の年々の増大とが矛盾することなしに、年々の蓄積がおこなわれうること」によってである。
 マルサスは、経済は需要に応じて拡大するとみていたといってよいだろう。生産と消費の関係はいたちごっこのようなものだ。どんどん消費し、どんどん生産するなかでしか、富の増進ははかれない。知恵と労働によって自然のなかから有用物を取りだし、それによっていのちを保つというのが、人の生き方である。しかし、需要と供給から成り立つ商品世界のシステムは、かぎりない拡大をめざして何かにとりつかれたように自己増殖していく。マルサスはそこに神のはからいをみたのだが、それはいつまで可能なのだろうか。
 それはともかくとして、農業と製造業が、機械化によって、省力化をもたらし、それによって全体としての商品価値を増大させていくことは、マルサスも認めている。省力化とは、労働を節約するだけではなく、労働の熟練度を高めていくことをも意味している。
 そのうえで、マルサスは「労働の賃金によって生きるものは、社会のもっとも重要な部分と考えられなければならない」と付け加える。増大する生産物にたいする需要のうちで、賃金が占める割合が大きいことはわかっていた。
 こう述べている。

生産と分配は富の二大要素であって、これが正当な比例で結合されるならば、地上の富と人口とをまもなくその可能資源の最高限界にまでもたらしうるが、しかしそれが別々にされ、または不当な比例で結合されるならば、数千年を経たあとでも、現在地球上に散在している、貧しい富と乏しい人口とを、生みだすにすぎないものである。

 このことは、文明の高度な発達段階である商品世界が、産業社会であると同時に消費社会でなくてはならないことを意味する。そして、その社会をリードしていくのが、地主(貴族とジェントリー)や資本家だけでなく、労働者でもあることを、マルサスは意識しつつある。
 この社会においては、地主や資本家と同様、いやそれ以上に労働者が、消費者としての役割をはたさなくてはならないと思っていた。ところが賃金がまったく、もしくは、不当に低くしか支払われなければ、商品世界の発達はありえない。
 それが、この節の表題となっている「富の継続的増大を保証するために、生産力と分配手段とを結合する必要について」の意味するところである。もっともマルサスが、労働者により多く賃金を払うべきだと考えていたととらえるのはまちがいである。かれは労働者への過剰賃金は、人口と窮乏の増加を招くとみていたのだから……。

   15 貴族層の擁護

 次の節にも「全生産物の交換価値を増大する手段と考えられる、土地財産の分割によってひきおこされる分配について」という長たらしい表題がつけられている。平たくいえば、土地財産の分割が、生産や消費にどのような影響をもたらすかが、ここでのテーマといってよいだろう。
 マルサスが評価するのは、アメリカ合衆国の場合である。アメリカが急速に発展したのは、分割された土地がうまく利用され、わずかな労働で得られた粗生産物を、多くの労働を費やすヨーロッパの工業製品と交換できたおかげだという。
 新興国アメリカの強みは、数年間、勤勉な労働と節約をつづければ、「新定住者となり土地の小保有者となりうる」ところにあった。ヨーロッパの場合はそうではない。ヨーロッパでは、封建時代を通じて、土地が不平等に分割され、大土地所有者の地所のまわりを、きわめて貧しい農民が取り囲んでいるのが実情だった。
 アダム・スミスは大地主にたいし、批判的な立場をとったが、マルサスの場合は、むしろ貴族層である大地主を擁護する。かれらはたしかに耕作はしないものの、土地の改良者だったというのである。貴族が大邸宅を維持し、馬車や調度品、衣服をそろえ、多くの召使いをかかえ、森を保護し、狩猟を楽しむといった生活を送っているのは、農業生産の効率という点ではたしかによくないかもしれないが、かれらが土地の資源を保全し、多くの有効需要を生みだしていることも認めるべきだとしている。
 少数でしかない大土地所有者の消費はかぎられている。しかし多くの商工業者が、労働者向けではなく富者のために商品をつくっているのも事実だ、とマルサスはあくまでも貴族層擁護の立場を堅持する。そして、土地財産の分割と、商工業資本の拡充が、国全体の富を増大させることはまちがいないけれど、それが一定限度を超すと、かえって富の増進を阻害することにもなると、貴族層を批判する当時の風潮に、むしろ疑問を投げかけている。
 とりわけマルサスは土地財産の細分化に神経をとがらせ、それに反対した。というのも、この時代、大陸側のフランスでは、フランス革命の影響を受け、貴族の土地の分割が進行していたからである。
 マルサスも、ある程度までの財産分割が望ましいことは認めている。しかし、フランスのような異常な財産平等思想は、かえって貧困と困苦を招き、ひいては軍事的専制政治に行き着くとみていた。これはたぶんにナポレオンを意識した批判である。
 マルサスはかならずしも商工業の発展を否定しない。それによって、中流階級が生まれ、地位と出生にもとづく差別がなくなり、個人的な成功を競うことのできる「公平な舞台」が開かれるからである。ただし、中産階級の上層をになう役割を、貴族の2、3男に期待するのは、いかにもマルサスらしいところではある。
 マルサスには、イギリスの国制と自由と特権を守ってきたのは土地貴族だという思いがある。長子相続権を廃止するのは賢明ではない、とかれがいうのは、そのことが土地の細分化を促し、貴族の力を弱めることにつながるからだった。イギリスの政治が、勃興しつつある商工業階級に牛耳られるようになれば、この国は民主政治か軍事的専制のどちらかに向かうようになるだろう、と懸念していた。
 マルサスにとって、民主政治とは「専制的暴徒」による政治の壟断であり、軍事的専制とは「専制的統治者」による暴政にほかならなかった。いずれの暴政を避けるにも、貴族の穏健な保守思想が欠かせなかった。
 マルサスはあくまでも懐疑論の立場を崩していない。土地財産の分割が、富の分配にプラスの影響をもたらし、ある程度、需要を喚起することは認めている。しかし、それが行きすぎると、イギリスのような商業国では、農業生産力の低下を招き、物価を上昇させて、資本の蓄積に不都合な影響を与えるだろうと述べている。ロシアのように、いまだに農奴制のもとで大土地所有がなされている国はともかくとして、イギリスでは長子相続制を廃止して、土地分割を進めようとする考え方はまちがっている、とマルサスはいう。事実、イギリスでは、いまも貴族の影響が色濃く残っている。貴族に関しては長子相続の考え方が、いまでもつづいているのではないだろうか。

   16 商業と貿易の発展

 次に取りあげられるのは、国内商業と外国貿易の発展が、富の増進といかに結びつくかという問題である。
 最初にマルサスは、たとえば山奥の途絶した別々の場所に銅と錫の鉱山があったとして、もしこれが町と交通路で結ばれたとしたら、銅にたいしても、錫にたいしても大きな需要が生じるだろうと書いている。需要を拡大するには、交通網の発達が欠かせないと考えていた。
「あらゆる国内取引は直接国民生産物の価値を増大する」。これがマルサスの基本的な考えである。
 商品が通常に交換される場合は、その商品に含まれる生産コスト(とりわけ賃金)が回収されるだけではなく、利潤が得られる。商品が資本によってつくられることはまちがいない。しかし、生産された商品は市場において一定の価格で販売されねばならず、それが売れるかどうかはあくまでも「社会の欲求と嗜好」、すなわち需要に依存する、とマルサスはいう。
 もし、需要が供給より大きければ、市場価格は実際の商品価値よりも高くなり、生産過程でさらに多くの労働が投入されることになる。ところが、その逆であれば、雇用は削減され、国富の成長は停滞する。そんなふうにマルサスは想定した。
 だとすれば、労働を維持するための基金を潤沢にし、労働者に支払う賃金を高くすれば需要が増えるではないかと思うかもしれない。しかし、そうではないとマルサスは断言する。というのも、賃金をむやみに上げれば、利潤が減少し、生産者が「貨幣上の損失」を招くことにもなりかねないからである。そうなると商品にたいする生産意欲も失われ、けっきょく労働者は職を失うことになる。
 貨物の単なる増大は、国富の増大にはつながらない、とマルサスは考える。貨物は分配されてこそ意味をもつという。
 物資の生産レベルが限界に達すれば、国は沈滞期にはいると、よくいわれる。しかし、マルサスは「国内で生産された財貨を多量に消費しようとする志向がなく」、「内外の市場がきわめてかぎられている国」も発展することがないという。そこでは「需要の増大をひきおこすのに絶対に必要な、欲求および嗜好と消費の願望」が形成されるのが、妨げられているからである。
 ここでも需要に重点を置くマルサスの姿勢が鮮明である。

 次に取りあげられるのが外国貿易である。外国貿易は生産物の販路を海外に広げ、「国民生産物の価値の比例的増大」をもたらす。これがマルサスの基本的な考え方である。
 マルサスは外国との貿易が需要を拡張し、時に生産コストを大きく超えた商品価値を実現しうることに注目した。そこで、外国との貿易は一般に社会の富を増大させるという。
 輸出入が均衡しているときには、国富は増えていないようにみえる。しかし、海外との貿易が拡張すれば、労働にたいする需要も増大し、経済成長を刺激することはたしかだし、外国貿易による財貨の増加は、交換価値自体の増大をもたらす、とマルサスはいう。かれは一国だけでは需要の限界にぶつかる生産物が、輸出の場合でも輸入の場合にも、新たな需要を喚起するとみていた。
 マルサスは、機械の改良、もしくは外国貿易によって、ある物品の価格が下がったとしても、それらがより多く売れて、全体としての交換価値は、むしろ増大する場合があるとして、綿製品をその例としてあげている。またワインなどの場合も、自国でつくるよりも海外から輸入したほうが、はるかに効率的だという。こういう考え方は、穀物法をめぐって対立するリカードとも変わらない。
 しかし、外国からの輸入品が国内産業を駆逐する場合もある、とマルサスは論じている。その場合、資本はほかの進路をみいだして、国民所得を維持するにちがいないが、一時的にはそれが実現しないために国民所得が減少し、困窮が生じるケースもありうるとしている。
 多くの有効需要が形成されるには、正しく生産物の分配がなされること、すなわち所得の適正な配分がおこなわれること、加えて、商品が「社会の欲求ならびに嗜好」に適合していることが前提になると述べている。
 どの国でも、国内の生産物の増大は、外国貿易に負うところが大きい、とマルサスはいう。外国貿易のメリットは「国内においては価値のより少ないものをより多くの価値をもつものと交換することから生じる」とも書いている。それによって、商品の生産が、一時的な供給過剰と、需要の一般的不足におちいりやすいのを防ぎ、国民所得を増大することができるというのである。
 マルサスはリカードの比較優位説は、取るになりない論点だという。そもそもシェリー酒やワイン、オレンジ、レモン、綿花、茶、砂糖などを、イギリスでつくろうという者はいないはずだし、それをつくること自体不可能だと断言して、比較優位説をしりぞけている。
 そのうえで、こんなふうに述べている。

[貿易の利点は]すなわちより少なく欲求されるものをより多く欲求されるものと交換することによって生みだされる価値の増大これである。われわれが内国商品を輸出してそれと引き替えに必要なすべての外国商品を獲得したあと、われわれは自分たちの商品の分量を増やしたのかそれとも減らしたのかを確定するのは、なかなかむずかしい。しかし、たしかにいえることは、輸出した貨物よりも自分たちの欲求と嗜好とにはるかに適した商品をわれわれが手に入れたということである。こうして新たに生じた生産物が分配されることによって、われわれは所有物や享楽手段、富といった交換価値を決定的に増やしたことはまちがいないのである。

 マルサスは、リカードとはちがう観点から、外国貿易のメリットをとらえていたとみるべきだろう。

   17 不生産的消費者の重要性

 経済が成長するためには、生産と分配が相携えて拡大していかなければならないというのが、マルサスの考え方だった。そのさい、ネックになるのが、とりわけ分配面、すなわち需要である。供給が増加していくのに、需要はなかなかそれに追いつかない。そのため、マルサスは「莫大な生産力をもつ国は不生産的消費者の一集団をもつことが絶対に必要である」という。
 アダム・スミスは不生産的な貴族層こそが、社会の発展を阻害するとみた。これにたいし、マルサスは不生産的階級の存在を擁護する。
 貧弱な土地と住民しかいない場所で、不生産階級を維持するのは無理である。供給にたいして、じゅうぶんな消費がおこなわれている場合も不生産的消費者は必要ないだろう。しかし、資本家はすべての利得を消費に回そうとせず、その大部分を財産のために貯蓄しがちである。労働者は生活を維持するのが精一杯で、その需要には限度がある。そこで、マルサスにおいては消費者階級として、地主(貴族)が浮上するのである。
 ほんらい貯蓄の目的は貯蓄自体ではなく、支出と安楽であるはずだ、とマルサスは書いている。この貯蓄の一部は、資本の蓄積に回され、生産の手段となるけれども、それによって増大した供給は、消費者の需要によって満たされねばならない。消費の欲望は限界がない。しかし、有効需要の不足が経済成長にブレーキをかける、とマルサスはいう。

富[商品]は欲求を生みだすことは疑いもなく真実である。しかし欲求が富を生みだすことはさらにもっと重要な真理である。おのおのの原因はおたがいに作用し反作用をおよぼすが、しかし、どちらが先行しまた重要であるかの順位は、産業活動へと刺激を与える欲求のほうが先である。

 供給より需要のほうが重要だとみるのである。
 ところが、資本家はみずからが消費することより、自分の富を増やすことを優先する。そして、労働者はたとえ消費の意志をもっていたとしても、消費の能力をもっていない。
 すると労働階級のために、より多くの支払いをすることが、大衆の幸福につながることになるのでないだろうか。でも、マルサスはそうは考えない。労働者への支払いが増えると、資本家の利潤が減り、資本を蓄積しようという意欲が失われ、その結果、国富の成長がストップしてしまうというのである。
 労働階級にたいするマルサスの見方は、どちらかというと冷淡さを感じさせる。これにたいし、地主は「需要と消費の不足を満たすことができる」存在だとみられている。かれら不生産階級による不生産的消費が「農業、商工業の生産物にたいする需要」をつくりだすことになるからである。
「あらゆる社会は、不生産的労働者の一団をもっていなければならない」と、マルサスはいう。不生産的労働者には、政治家や兵士、裁判官、弁護士、僧侶、医者、さらには召使いなどが含まれる。そして、かれらを大きく支えるのが、国王と地主貴族だといってよいだろう。かれらは不生産的ではあるが、「一国の統治、保護、保健、および教育にとって必要」であるばかりか、一国の生産と勤勉に刺激を与える需要の源でもある。
 こうした不生産階級の一部は、租税によって扶養されている。課税は乱用されがちなので、注意深くなされねばならない。だからといって、国債を減らし、課税を廃止しても、労働階級の雇用が増えるかどうかは、はなはだ疑問だ、とマルサスは述べている。
 たしかに国債はやっかいで危険な手段だった。国債の利子は課税によって徴収されるほかなく、また国債の大量発行が生産力を阻害する可能性もある。また通貨が下落するときには、国債にもとづく年金受領者が、その正当な分け前を不当に奪われる事態も生じる。したがって、国債は徐々に減らし、その増大を阻止することが望ましいとも記している。
 とはいえ、マルサスは国債をなくしたとしても、労働者は豊かになるどころか貧困化するだろうという。というのは、その分の需要を、地主や資本家がすぐに生みだせないからである。地主がそれまで国債を買っていた分をさらに多くの召使いの雇用にあてるとは考えられない。資本家は国債がなくなったことによって、租税からのがれ、それによって資本を蓄積するかもしれないが、そのことによって、かえって不況の到来をもたらすだろう、とマルサスはあくまで悲観的である。
 生産的階級は、自分たちの生産するすべてのものを消費する能力をもっているが、その意志をもたない、とマルサスはいう。そして、不生産的消費者が必要なのは、この意志を満たすためだというのである。「富を奨励するさいのかれらの特別の効用は、生産物と消費とのあいだに、国民的勤労の成果に最大の交換価値を与えるような均衡を維持するにある」
 つまり不生産的消費者が存在することによって、供給にたいする需要がようやく満たされるというのである。生産的消費者と不生産的消費者のあいだに一定の割合が保たれて、はじめて需要と供給の関係は安定する、とマルサスは考えていた。
 そのバランスは国によって異なる。「もっとも好都合な結果は、生産的消費者と不生産的消費者との比例が、土壌の天然資源と人民の後天的嗜好および習慣とにもっとも適合していることに、明らかに依存している」
 マルサスが「経済学原理」を刊行した1820年は、産業革命がまださほど進行しておらず、富の大部分が土地によって成り立っている時代だった。ナポレオン戦争は終わったばかりで、イギリス王室は大量の国債を発行していた。その国債を保持していたのが、おもに地主貴族だったといってよいだろう。マルサスは、地主層を維持することが経済の根幹だと考えていたにちがいない。しかし、産業革命の進展は、いよいよ資本の時代を到来させていくことになる。

   18 労働階級の困窮

 最後の節に到達した。ここで、マルサスは1815年以来の労働階級の困窮についてふれている。
 18世紀半ばから19世紀初めにかけて、イギリス経済は大きく発展したといわれる。しかし、そのころの経済成長率は、ならしてみると0.5%程度(産業革命が進展してからも0.8%程度)。20世紀半ばのような高度成長は、むしろ異常な事態だったといわねばならない。
 それはともかくとして、1815年から20年にかけ、イギリスはナポレオン戦争後の不況に突入していた。
 マルサスは、最初に労働者困窮の原因は、資本の不足が原因だといわれるが、それはほんとうだろうかと問うている。実は資本の不足ではなく、需要の不足が原因なのではないか。
 たとえば戦争や自然災害によって資本の4分の1が失われたとすれば、それによって、労働階級は困窮するだろう、とマルサスはいう。しかし、資本が不足しているということは、商品が少ないということでもある。商品が少なければ、その価格は高騰し、資本家は大きな利潤を得ることができる。こうした場合には、商品が増産されて、資本が蓄積され、労働者に対する雇用も次第に増えていくだろう。
 ところが、何らかの事情で、消費と需要が減退する場合は、商品価格は安くなり、資本家の利潤も低いままとなる。その場合は、資本を追加投入しても逆効果となり、資本家をかえって苦しめる結果となる。多くの労働者が解雇され、賃金も低いままにとどまるだろう。
 マルサスは1815年以降の不況は、あきらかに後者、すなわち需要不足が原因だと断言する。ナポレオン戦争は異例の支出を要し、大きな需要を生みだした。しかし、1815年以降は、その反動で、需要が一気に収縮したのである。農産物の価格は一気に下落し、倉庫は売れない商品の山でいっぱいになった。動員を解除された陸海軍兵士が町にあふれ、賃金は下落した。好景気のときに増えた人口が、さらに賃金の下落に拍車をかける。
 国外では利潤が低いため、資本は海外に流出する。それは国内に有効需要がないからである。マルサスは大量に穀物が輸入され、大きな減税がなされる以前のほうが、貧窮の度合いが少なかったと指摘する。
 いずれにせよ、1815年以来の不況は生産力不足によっては説明できないというのがマルサスの見解だった。資本を過剰な部分から足りない部分へと移せばよいという意見もあるが、不況の根本的な理由がわかっていないから、そういうことがいえるのだ。現今の不況は「消費および需要の総額の大きな減少」が原因なのだ、とマルサスはいう。支出を超える個人利得の超過分は、いま貯蓄されており、これが需要減少の原因ともなっているとも指摘している。
 消費と需要の減少が、富の増進を妨げ、資本家にも労働階級にも深刻な影響をもたらしていた。
 戦争によって失われた資本は、蓄積して取り戻す以外にないだろう。しかし、いま必要なのは資本をさらに蓄積して、生産力を高めるより、需要の増大に努めることだ、とマルサスはいう。
 マルサスによると、需要を増やす方策は、土地財産の分配、国内商業と外国貿易の伸張、そして不生産的労働の維持しかないという。生産のために労働者を雇用することは、かえって供給過剰をもたらし、商品の交換価値全体を減少させる、というのがマルサスの見解だった。
 とはいえ、前に述べたように、長子相続制の廃止によって、土地財産を細かく分割することにマルサスは反対していた(ちなみにイギリスで長子相続制が廃止されるのは、なんと1920年になってからである)。国内商業や外国貿易が拡大することには賛成する。ただし、安価な外国製品が国内市場に一挙にあふれる場合は、労働階級の職を奪い、労働階級をいっそう困窮させる恐れがあるから、注意しなければならないとも述べている。しかし、一般に商業と貿易の促進が、全生産物の交換価値を増大させることはまちがいなかった。
 さらに、労働階級を助けようとするならば、かれらを道路建設や公共事業などに使用するのが望ましいとも述べている。これは除隊された陸海軍兵士や失業者を、とつぜん生産労働者に転換して、需給のバランスをみだすよりも、はるかによい方策だという。そのために国債を発行することは、けっしてムダにはならない、とマルサスは考えていた。
 紙幣の自由発行は、貨幣価値を下落させ、それによって信用の便宜をもたらし、資本の回復に寄与するというのが、当時も一般的な考え方だった。しかし、需要が不足しているなかで、通貨発行量を増大させることは、取引に刺激を与えるにしても、それは一時的でしかない、とマルサスは述べている。通貨量の拡大は、いっそう商品の供給過剰を招き、けっして価格の維持につながらない、とマルサスはここでも悲観的な見方を示している。
 バランスのとれた需要と供給があってこそ、富は増進するという考えをマルサスは示した。しかし、富裕になるための通則は定立できないという。つまり、経済はそう簡単には成長せず、労働者はそう簡単に貧窮から脱出できないというのが、マルサスの見方だった。
 マルサスは戦争が過大な支出をもたらし、それによって一時的に商品価格と労働賃金が上昇したとしても、その間に労働人口が増えていけば、戦争が終わり、支出が削減されたときには、労働者が解雇され、労働者の窮乏が増大していく結果となるとも述べている。
『経済学原理』は、次のような一文でしめくくられている。

労働階級は一般的好況にあやかるといっても、残念ながら、その程度は一般的不況を帳消しにするほどのものではない。かれらは賃金低落の時期には最大の困窮をこうむるであろうが、賃金騰貴の時期に適当な償いをうけるわけではない。労働階級にとって、変動がつねに福利よりも害悪をより多くもたらすことはまちがいない。したがって、公衆の幸福のためには、できるかぎり、平和を維持し、かつ平等な支出を維持することを、われわれはめざすべきである。

 労働階級にはあくまでも困窮がつきまとう。守旧を旨とするマルサス経済学の特徴は、どこまでもつづく陰鬱な色彩である。それでも、ここには意外にも現代の商品世界を理解するための多くのヒントが隠されていることも事実なのである。
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