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饑饉、病気、略奪──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(3) [商品世界論ノート]

 近代が18世紀にはじまるとしたら、それ以前の時代の特徴は、出生率と死亡率がほぼ均衡していたことだ、とブローデルは書いています。しかし、その関係は恒常的ではなく、たとえばペストや戦争などで死亡者が増えると、こんどはそれを追いかけるように大勢の子どもが生まれるという具合だったのです。「上昇と後退は、規則正しく交替し、つまり補う」というわけです。生が死を追い抜くようになるのは、18世紀にはいってからです。
 人が生きていくためには、まず食糧がなくてはなりません。ところが、食糧の供給は不安定で、饑饉は何度もやってきました。ヨーロッパでもアジアでも同じです。たとえば、フランスでは全国的な饑饉が、15世紀に7回、16世紀に13回、17世紀に11回、18世紀に16回も発生しています。フィレンツェも食糧の欠乏に見舞われることが多く、シチリアの穀物に頼らなければ生きていけなかっただろうといいます。
 饑饉になると、窮民は都市に流れこみ、市内に群がりました。都市は貧民に対抗して、かれらを放逐したり、徒刑囚にしたり、ていよく救貧院に隔離したりしようとします。しかし、それでも貧民の数は増えていきます。
 1630年にインドを襲った饑饉は、目もあてられない惨状をもたらしました。多くの貧民が町にあふれ、飢え死にしたり、子どもを身売りしたり、集団自殺したりしました。ときには人肉食のおぞましい光景まで現出したのです。
 1696年から97年にかけて、フィンランドでは饑饉により、人口の4分の1ないし3分の1が消滅したといわれます。フランスでも、饑饉になると、庶民は牛馬のように草を食べて、命をつないだという記録が残っています。
ムリリョ聖ディエゴ.JPG
[貧困者に食べ物を与える聖ディエゴ。ムリリョ作。1645年]

 加えて、流行病が人びとの暮らしをおびやかします。とりわけ、死の舞踏の精粋といわれるペスト。そして100人のうち95人がかかるという天然痘。発疹チフス。インフルエンザ。その他、伝染性の病気は数え切れませんでした。
「これらの大軍の攻撃にさらされていたのが、栄養不良で、無防備で、無抵抗の住民だった」というのは、そのとおりでしょう。
 コロンブスのアメリカ大陸発見のあとは、これに梅毒が加わります。「コロンブス帰国の祝宴時に早くも、この病気はバルセロナで猛威をあらわにし、ついで奔馬のように広がっていった」と書かれています。
 梅毒が中国に達したのは1506年のことです。おそらく、日本でも時をおかず、流行がはじまったことでしょう。
 ペストがヨーロッパで最初に大流行したのは、1348年のことです。しかし、すでに11世紀には、ヨーロッパにはいっていたといいます。黒死病と恐れられたこの病気が後退するのは、18世紀を待たねばなりませんでした。
「たび重なる都市大火災ののちに、木造家屋に代わって石造家屋が建てられたこと、屋内および住民がますます清潔になったこと、小さな家畜が住居から遠ざけられたことなど、蚤の繁殖を温存していた条件がすべて除去されていった」ことが、おそらくペストの勢いを弱めた原因ではないか、とブローデルは推測しています。
 ペストはヨーロッパ全土を襲っています。たとえばフランス東部のブザンソンは、1439年から1640年の200年間に、40回ペストに襲われています。ほぼ5年に1度のペースです。
 ほかの都市も同様です。大きな被害がでたのは10年、ないし20年に1度くらいだったかもしれませんが、いずれにせよ、その都度、膨大な死者がでたのはまちがいありません。
 被害が集中したのは、やはり貧民でした。ペストがはやりはじめると、金持ちたちは、あたふたと別荘に逃げだし、市の役人や軍の将校、高位聖職者もそろって避難したといいます。
「ロンドンで1664年にペストが流行しだしたとき、宮廷は首都を去ってオクスフォードに向かい、もっとも富裕な人たちは荷物をそそくさとまとめて、家族・召使いともども、すぐさま同様にオクスフォードに逃れた」といいます。
 ペストは17世紀になっても収まる気配がありませんでした。
 14世紀、15世紀になると、ハンセン病患者は隔離されるようになりましたが、これは誤ってハンセン病に伝染性があると信じられていたためです。
 コレラの場合も隔離対策がとられ、ヨーロッパでは19世紀にコレラが消滅します。
 天然痘を予防するために、イギリスで種痘が導入されたのは1717年のことですが、1796年にジェンナーがワクチン接種法を発明したことにより、この病気は減っていきます。
 世界じゅうで、感染症による病気は猛威と鎮静をくり返しました。
 本書が取り扱う1400年から1800年にかけて、人類は食物と病気をめぐって、はてしない闘争をくり広げてきた、とブローデルは書いています。人類はこの時代、短い平均寿命しかあてにできず、金持ちの場合でも数年の余命しか与えられませんでした。「寿命はあやふやで短かった」のです。
 前近代の「生物学的〈旧制度〉」について、ブローデルは次のようにまとめています。

〈[それは]大づかみに言えば、生と死の対等、非常に高い幼児死亡率、饑饉、慢性栄養不良、強烈な流行病である。18世紀の飛躍の時期においても、旧制度はその拘束をほとんど緩めはしなかった。……西ヨーロッパのある一定の地域のみが、その状態から脱却しかけたところだったのである〉

 ところで、この「数の重量」という章を終えるにあたって、ブローデルは人間集団の移動についてもふれています。
 蛮族とみられていた満州族が、北京を制したのは1644年のことです。しかし、じつはかれらは、あらかじめ漢民族化しており、広大な中国の経済的・社会的混乱が、かれらの中原への侵入を可能にしたのでした。
 トルコ人もまた12世紀以降、イスラム圏の旗手となり、オスマン帝国を築いています。タタール人は17世紀になってからもポーランド国境をおびやかしていました。インドのパンジャブ地方は、すでに10世紀にモスレムの手中にはいっていました。
 遊牧民は15世紀以降、中国の防備の手薄さに引かれて、東に移動します。
 すると、遊牧民の圧力が軽減したのをみはからって、こんどはロシア人が南部へと進出していきます。
 大遊牧民は17世紀以前に姿を消した、とブローデルは記しています。
 そのあとは、文明が文化にたいして、勝ちを占める番でした。
 ヨーロッパ人はアメリカを、イギリス人はオーストラリアとニュージーランドを、ロシア人はシベリアを占拠していきます。
 難問は人間の征服ではなく、空間の征服だった、とブローデルはいいます。
 シベリアでは「町々が生まれ、要塞・宿駅・橋が築かれ、馬車・馬・橇のための中継地が方々にできた」。これはアメリカでも変わらなかったでしょう。ロシア人がアムール川に到着するのは1643年、カムチャツカを探検するのは1696年、アラスカに住み着くのは1799年のことです。
 しかし、すでにひとつの場所を占めている地域に進出するのは、そう容易ではありませんでした。たとえば12世紀から14世紀にかけての、東ヨーロッパにおけるゲルマン植民地化は、スラヴ人住民のただなかでおこなわれました。ロシア人もしばしばコサックを使って、タタール人と戦っています。
 ブローデルはこんなふうに書いています。

〈文化とは、いまだにその成熟・最適条件に到達せず、あるいは確かな足取りで成長するまでには至らない文明である。成長の時を待つうちに──そして待機期間が長く続くこともある──近隣のもろもろの文明がこの手あの手を使ってそれを搾取する〉

 文明による文化の略奪。
 こうして、かつてはフェニキア人やギリシア人、中国人、アラブ人が、近隣から富を収奪していたのでした。ヨーロッパがこの動きに加わるのも時間の問題でした。
 最後にブローデルは、文明と文明の対決についてふれています。その象徴としてもちだされるのが、たとえば1757年のインドはプラッシーの戦いであり、1840年から42年にかけての不条理なアヘン戦争です。ここでは西洋文明がインド文明や中国文明と衝突したわけです。
 イスラム圏もまたトルコを除いて、19世紀に西側に席巻されていきます。征服がもたらしたものは、奴隷化と従属的経済です。しかし、征服者の経営は、いったん根を下ろしはするものの、「ある日、舞台装置のように崩れ去って」いく、ともブローデルは指摘しています。
 本書でえがかれるのは、15世紀から18世紀にかけての、壮大な世界文明のドラマをはらむ社会経済(生活)史だといってよいでしょう。
 容易には要約しがたいのですが、つづきはまた。

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