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『「若者」の時代』(菊地史彦)をめぐって(3) [本]

 ぱらぱらと斜め読みしている。
 半分ほど読んだところで出てくる若者は、著者自身だ。
 1969年には高校闘争がはじまろうとしていた。
 著者はそのころ、都立井草高校の2年生だったという。
 全共闘運動というと1968年を思い浮かべるが、高校闘争が盛りあがったのは、それよりも1年あとだったと再認識する。
 すると、高校闘争が遅れてやってきた波だったのかというと、そうではない。
 1968年は日大闘争と東大闘争の年だ。
 東大の安田砦が陥落するのが1969年1月。そのときに神田カルチェラタン闘争もあった。
 しかし、安田砦の陥落で全共闘運動が収束したわけではない。
 全共闘運動はそれ以降、むしろ全国に広がり、1969年には大学の8割が学生たちの手によってバリケード封鎖されていた。
 ぼくのいた早稲田大学もその例外ではなかった。そして、全共闘運動は学内にとどまることなく、大学の外へも広がっていった。
 だから高校闘争もまた、全共闘運動の盛りあがりのなかで、たたかわれていたのである。
 著者によると、高校闘争はまず関西からはじまり、次に東京に中心が移り、急速に全国へ波及していったという。卒業式を粉砕し、事務室や校長室を占拠するのが、そのスタイルだった。
 高校生たちは、文部省と学校が結託して進める教育政策を弾劾し、高校のあり方そのものを問うていた。
 高校闘争のピークは69年9月から10月にかけてで、青山学院高等部などでは機動隊が校内に導入され、11月には収束の動きがはじまっている。
 著者のいた井草高校でも、10・21の国際反戦デーには屋上で集会が開かれ、11月には校内で討論集会がもたれた。12月9日にはバリケードが組まれたという。しかし、昂揚した運動の波はすぐに消え去っていった。
 あのつかのまの昂揚はなんだったのだろう。
 著者は当時、高校生の置かれていた状況をふり返る。
 1950年代以降、教育民主化に逆行する政策が進められていた。それは「戦後民主教育」に代わる「産業人材教育」だったといってよい。教育委員会が任命制になり、学習指導要領が改訂され、教科書検定制度も改定された。
 60年代になると、高度経済成長にふさわしい人材育成が求められるようになる。
 1965年には高校進学率が70%を超えた。66年には「期待される人間像」が打ちだされる。それとともに技能的な職業のための教育訓練が重視され、普通科と職業科の分離が打ちだされるようになった。
 さらに、学校群制度への振り分けが、不本意な入学者を大量につくりだし、それが高校生の不満をつのらせていたとも、著者は指摘している。
 自分を変えることも、闘争に参加した動機だったのではないか、と著者はいう。高校闘争が沈静化したあとも、生徒会に介入し、集会を呼びかけ、街頭デモに出かけるようになった。「教育相談」を専門とする中学教頭だった父と衝突するようになる。
 教育者だった父の経歴をふり返るくだりは、せつない。
 そして、著者は自分たちの「闘争」も「個的な体験ではなく、世界史的な共通体験だった」と信じるようになる。
 こう述べている。

〈69年の高校闘争は、国家から仕掛けられた教育策動に対する抵抗であり、正当防衛だった。なぜなら、国の政策は合意を外れていたし、学校の現場は工夫を欠いていた。……異議申し立てを貫こうとすると、それが暴力的な色合いを帯びるのは、必定だった〉

 当時は、学校を学園と呼ぶ言い方がはやっていた。
 学園のイメージが定着するのは、舟木一夫の歌を通じてだったかもしれない。
 学園は学びの園であり、戦後の民主教育、自由教育を体現した聖域のように思えた。
 しかし、それは幻想だった。
 1950年代の教育政策がそれをなし崩しにしていったからである。
舟木一夫.jpg
 著者はテレビドラマや映画、マンガなどを素材にとりながら、学園の崩壊を追っている。
 学園ドラマが人気を呼びはじめたのは、1960年代半ばからだという。
『青春とはなんだ』では、夏木陽介が英語の熱血教師を演じる。そのあとも、『これが青春だ』、『でっかい青春』、『飛び出せ!青春』、『われら青春!』などと、青春学園ドラマはつづく。
 少女マンガでは、学園ラブコメが大ヒットし、「乙女チック」という言い方がはやった。
 1970年に放送がはじまった『おくさまは18歳』も変わり種の学園ドラマで、石立鉄男と岡崎友紀のハラハラドキドキの関係が、コメディタッチでえがかれる。
 しかし、なんといっても、学園のイメージを変えたのは、そのころの「学園闘争」だったにちがいない。その闘争は学園の自由と民主主義が幻影でしかなかったことを明らかにした、と著者はいう。
 1970年代半ばになると、高校進学率は95%、大学進学率は35%となったが、そのいっぽうで学校嫌いが増えはじめた。
 不登校、校内暴力、いじめなどの問題が深刻化していくのだ。
 学校が退屈なだけでなく、自由を束縛していると感じられるようになったのは、いわゆる管理教育による締めつけが強くなっていたからだ。
 81年以降、校内暴力が減少に転じたのは、学校側がてきぱきと摘発と処分をくだすようになったからにすぎない、と著者はいう。
 それに代わって急増するのが、いじめと不登校であり、いじめをめぐる自殺や殺人は、現在まで後を絶たない。
 そうしたなか1979年にスタートした『3年B組金八先生』先生は、かつての学園ドラマではなく、著者にいわせれば「学校という問題群」に取り組む「異例の社会ドラマ」となった。薬師丸ひろ子が主演した『翔んだカップル』や『ねらわれた学園』などの映画にも、管理教育へ反撥する気分があふれている。
薬師丸ひろ子.jpeg
 70年代後半からは、いわゆる「ゆとり教育」が提唱されるようになった。詰め込みをやめて、個性を重視するという方針は、それ自体すばらしいと思われた。
 しかし、実際には、それは新自由主義的な「教育改革」と結びついていた、と著者は指摘する。「ゆとり」教育は、成績下位者の学習離れを促進し、できる生徒とできない生徒との格差を拡大したというのだ。「個性重視」のもとに、教師の生徒への接し方はすっかり変わり、「教育の機会均等」という考え方は後退していった。
 そして、1990年代末になると、学力低下論争がまきおこり、四半世紀にわたる、ゆとり教育路線に幕がおろされる。「特色ある学校づくり」と「確かな学力」が叫ばれるようになった。しかし、著者によれば、そこに「残されたのは、方向感覚を失った『学園』の抜け殻だった」。

 そのころ、東京の外縁で、若者はどんなふうに生きていたのだろう。
 ここで著者は〈遠郊〉という概念をもちだしている。「〈近郊〉が都市のすぐ外側に位置するなら〈遠郊〉はもう一回り外側にある」
〈遠郊〉とは、たとえば、市原、宇都宮、下妻、木更津などの場所だ。
 そこで何がおこっていたかを探るには、小説や映画、テレビドラマなどを参考にするのがいちばんだ、と著者は考えている。
 そこで、まず取りあげられるのが1976年の映画『青春の殺人者』だ。原作は中上健次の小説『蛇淫』。中上は、この物語を千葉ではなく、関西のある場所に設定しているが、市原で実際におきた親殺しがもとになっている。
 映画では監督の長谷川和彦が、実際に事件の起きた市原に舞台を戻している。主演は水谷豊、相手役は、おさない感じの残る原田美枝子が演じている。水谷も原田もいいが、殺される母親役を演じる市原悦子の怪演が光っていた。
青春の殺人者.jpeg
 著者は、この映画のえがいた事件について、「東京に出ようとする寸前で、父親の制止を受け、それを振りきることができなかった」若者が、「腹いせのような遊興活動」に走り、その「恋」をも制止されたあげくに、とうとうきれてしまった、と紹介している。
 宇都宮を舞台にした映画が根岸吉太郎監督の映画『遠雷』だ。1980年に発表された立松和平の同名の小説をもとにしている。主演は永島敏行、相手役は石田えり、主人公の友人をジョニー大倉が演じていた。
遠雷.jpeg
 この映画を紹介しながら、著者は立松の小説について、こう書いている。

〈小説の趣意は、小さな土地にしがみつき、勝算のない闘いを続ける男への共感であり、穏やかな田園をずたずたに切り裂いた「開発」への反感である。立松は、故郷に出戻りながら、どこが腰の坐らない自身のあり方の対極で、骨太い満夫を描き、併せてその閉塞感に耐えきれなかった広次を描いた〉

 映画は完結するが、じつは小説『遠雷』には『春雷』(1983)と『性的黙示録』(1985)の続編がある。著者によれば『遠雷』が「どこか楽観的なファンタジー」であったのにたいし、あとの2作には「土から引き離される若者たちの陰惨なリアリティ」が描かれているという。
 そこには「80年代の〈遠郊〉の急速な変貌」があった。

 高度成長期以降、地方の人口は都市圏に流入していった。とりわけ80年代半ばをすぎると、日本経済は混迷をきわめるようになる。日本の製造業の競争力は低下し、製造拠点は海外へ移って、雇用が失われていった。これにたいし、政府が打ちだした対策は都市重視の大規模プロジェクトであり、地方はますます疲弊していった。
 著者はこんなふうにまとめている。
 地方での雇用は、ショッピングセンターやロードサイド店、コンビニのパートやアルバイトしかなくなった。そのため、若者たちは都市へ出ていこうとするが、90年代後半以後は、彼らが都市で正規雇用に就けるチャンスは目に見えて減っていく。
 これが、『遠雷』につづいて、立松和平が描いた遠郊の光景だった。

 70年代のカウンターカルチャーは「ヤンキー」だった、と著者はいう。ヤンキーといえば、「暴走族」と「ツッパリ」だ。
 そして、著者は〈遠郊〉を考えるときには「ジャスコ」を切り離せないという。「ジャスコ」はどこの地域にもあった。にでもあった。
 2004年の映画『下妻物語』は、著者によれば、「茨城県下妻市を舞台に、ロリータファッションに身を包む竜ヶ崎桃子(深田恭子)と、レディース(女性だけの暴走族)の白百合イチゴ(土屋アンナ)の、コミカルで紆余曲折の友情物語」だという。
 そこにも何でも買える「ジャスコ」が登場する。しかし、彼女たちが買い物にでかけるのはジャスコではなく、東京だ。彼女たちがジャスコに行かないのは、地元の住民がそこで服を買っているからだ。ジャスコに行ったら、ツッパリの意味がなくなってしまう。いなかの閉塞感から抜けだすのが目標なのだから。
 著者の展開するジャスコ論が、とてもおもしろい。大都市に出店を続けたダイエーにたいし、「ジャスコが出店したのは、本当に大手競合店不在の人口10万人以下の町、それも駅や中心部から外れた不便な場所だった」という。
 そして、ジャスコの出店戦略に引き寄せられるように、こんどはロードサイドビジネスが急拡大を遂げていく。銀行や病院、学習塾、スポーツ施設なども次第にロードサイドに移行していく。その道路沿いに賑わいが「その本質において、かりそめの時の中にしかない」ことは承知のうえだ。
 2000年代にはいると、ジャスコは「イオン」と名前を変え、さらに「イオンモール」へと発展していく。イオンモールにつくられたのは「擬似的な都市空間のもたらす自由と解放」だ。「そのコンビニエントな快適さこそ、若者たちの新しいローカリズム」だ、と著者はいう。

 地元のユートピアとして、著者が次に取りあげるのがアクアラインをかかえる木更津であり、木更津を舞台とした、宮藤官九郎脚本の2002年のドラマ『木更津キャッツアイ』だ。
「ドラマの基調は、〈遠郊〉の倦怠に満ちた穏やかさであり、いわばゼロ年代のユートピアである。……視聴者の共感を得たのは、ジモトに居残って、野球と泥棒で遊びつづけ、人生の選択を先送りする若者たちの、底抜けではない明るさだった」と、著者はいう。
 しかし、この先送りは強制終了を予定されている。というのも主人公が余命半年を宣言されているからだ。
(このドラマをぼくは見ていないので、以下は本書の要約だ。少しくたびれたので、私見はまじえず、要約は最後までつづく。)
 評論家の宇野常寛は、そこから「終わりのある(ゆえに可能性に満ちた)日常」という新しい郊外像を受け取ったという。そこで、郊外の「終わりなき日常」を抜けだすには、伝統的な共同体に包摂されないよう「拠るべき共同体(キャッツ的なもの)」をつくりださなければならない。
 宮藤官九郎は、みごとに何もない木更津に、サブカルチャーとポップカルチャーの雑多な断片を組み込み、クドカン・ワールドをつくりだした。
 ここに登場する地元の若者たちは、敗北の「後」を生きている。それはふつうに生きるための準備運動だった。著者はこのドラマのほんとうの主人公は、精神に異常をきたしてホームレスになった「オジー」(古田新太)だという。かれは暴力団になぐりこんで殺される。その死は「まるでゴミのように、たちどころに処分され、眼前から消え去っていく」。
 それが2000年代の社会のリアリティだったという。
 ジモトとフルサトのちがいはどこにあるか。錦を飾って、フルサトに帰った人はほとんどいなかった。「つまり、ジモトは外部の者を排除し、フルサトは外部へ出ていった者を排除する」のだ。
「そして、若者はいつの時代も、ジモトとフルサトの間を行き来しながら、ヨソモノになることに憧れ、かつ怖れ続けた」と著者は書いている。

 終章で著者が取りあげるのが「東北と若者たち」である。
 無着成恭の『山びこ学校』と、その後が描かれている。
 山形師範学校を卒業したばかりの無着成恭は、1948年に山形県の山元村の中学校に赴任する。そこで、はじめたのが、生徒たちに自分たちの村の生活について書かせる綴り方教室だった。
 その活動は全国に知られるようになり、無着の著書『山びこ学校』はベストセラーとなった。
 佐野眞一は『遠い「山びこ」』(1992)で、『山びこ学校』の生徒たちのその後を追った。
 42人の卒業生のうち、高校に進学したのは男子の4人にすぎない。多くの者が村を去り、90年代の初頭、村に残っていたのは5人だけだった。
 1992年の時点で、5人がすでに亡くなっていた。
 追われるように村を出た無着は、駒澤大学仏教学部にはいったが、実家の寺には戻らず、三鷹市の私立明星学園に勤めた。
『山びこ学校』の大きな反響によって、生徒たちは、世間の過剰な期待を背負っていたという。
 そして、自分たちの虚像をつくった、無着本人が村に戻らなかったことを恨んだ。
 綴り方をはじめとする生活記録運動は失望そのものでしかなかった。ある生とは、いくら「人間としての正しい生き方」を学んでも、暮らしが成り立たなければ、しかたがないと思うようになる。だいじなのは山間の農村が自律的に生き延びるための技術や政策だと考えるようになったという。

 常磐炭鉱は1951年をピークとして、1976年に閉鎖された。エネルギー源が、石炭から石油へと転換したことから、60年代から人員整理は進んでいた。1964年に、会社は、常磐ハワイアンセンターをつくり、事業の転換をはかった。
 福島県がエネルギー産業を地域経済の柱にしようと考えたのは、常磐炭鉱の記憶があったからではないか、と著者はいう。
 50年代末には只見川電源開発、そして1964年には原子力発電の誘致がはじまる。
 大熊町は「原子力ムラ」に変わろうとしていた。それに反対した若者がいなかったわけではない。しかし、その若者も多くが次第に賛成派に身を転じていく。原発反対を貫いた者はごく少数だった。
 東日本大震災後、いわば東北では「戦後」がはじまっている。
 希望となるのは東北の人びとが築いてきた「自助の仕組み」だ、と著者はいう。
「移動を宿命づけられてきた東北の若者たちは、わが身と後続の世代のために、包摂的なネットワークを張りめぐらしてきた」。それがいま救いとなりつつある。
 著者はこう述べる。

〈誰にも、フルサトを夢見る権利がある。……そして、この権利は、東北の若者たちだけに許されているものではない。我々は、東北を“開かれたフルサト”として、志を持つ者たちを迎え入れる場所として捉え直す必要がある〉

 東北復興への思いである。

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