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「日常生活の政治学」を読む(2)──論集『消費の歴史』から [本]

 戦後になって、日常生活の研究が本格化した背景には、技術や進歩なるもの、あるいは正統マルクス主義の考え方にたいする疑念が広がるいっぽうで、1960年代から70年代にかけて、ジェンダーや自己存在への関心がもたれるようになったからだ、と著者のトレントマンは書いています。加えて、人類学やカルチュアル・スタディ(文化研究)、オーラル・ヒストリー(人生体験の聞き取り)、消費の研究が進み、日常生活への関心がさらに高まっていきます。
 このなかで、ぼくが興味をもつのは、とりわけ消費の問題でしょうか。消費生活は、商品を購入するところからはじまるのですが、消費がどのように日常生活を変えていったかをみることができれば、商品世界の広がりがもたらした意味についても理解が深まってくるだろうと思います。
 著者はとりわけ戦後ヨーロッパで、日常生活についての研究が、どのように進められてきたかを紹介していきます。
 正統(レーニン流)マルクス主義への疑念が広がるなかで、フランスでは、人間主義的なマルクス主義の構築がこころみられました。社会哲学者のアンリ・ルフェーヴルは、早くから初期マルクスの『経哲草稿』に着目し、疎外論に新たな方向性を見いだしていました。
 フランスでは、1968年の5月革命以前から、消費文化論が広く取りあげられていました。さまざまな論議があり、日常生活は消費資本主義に取りこまれてしまったという見方もあれば、いや日常生活は資本主義が結局は取りこめない独自の領域だという見方もあって、意見はけっしてまとまりませんでした。
 いっぽう、歴史家のフェルナン・ブローデルは、日常生活をほとんど変化しないもの、政治や資本主義からまったく切り離されたものと考えていました。
 戦後ドイツでは、1970年代に日常生活が取りあげられるようになりますが、それは民衆史(下からの歴史)の分野においてでした。ドイツの歴史家は、とりわけファシズム期の日常生活に注目し、生活の場に政治がはいりこんでいく様子を考察しただけではなく、日常の場ではたらいていた政治とはまったく無関係の規範や論理に注目しました。
 アンリ・ルフェーブルは3巻からなる著書『日常生活批判』で、社会哲学的観点から日常生活の考察を大きく前進させました。ルフェーブルにとって、日常生活とは、何か特別の領域ではありませんでした。それは、相も変わらぬ日々のくり返しと、特別な決断や出来事の領域のあいだにある、一種の「水準」でした。この「水準」は、常にシフトしていきます。たとえば新しい商品や技術が生活のなかにはいってきて、人びとのニーズを満たし、新たな生活様式をつくりだしていくにつれて、日常生活はこれまでとは少しちがった様相を呈してくるのです。
 ルフェーブルの社会哲学はなかなか難解です。ですから、著者が紹介している難解な部分は大幅にカットして感想だけを述べると、ルフェーブルは、資本主義の進展によって、日常生活も進歩したとはけっして思っていなかったようです。むしろ、かつて存在した人のつながりのようなものが失われて、日常生活はますます忙しく、孤立し、細切れになっていったとみていたのではないでしょうか。
 1950年代から60年代にかけての消費文化と技術進歩は、人に便利さと安楽をもたらし、それがいっとき幸せを感じさせたものの、日常生活では何かだいじなものが失われていました。広告と流行が、時代遅れになるなといわんばかりに、人びとを消費に駆りたてます。近代化はひたすら進歩を追求する過程で、人びとの時間とリズムをスケジュール化し、細切れにしていきます。それと同時に、人の生活は、ますます、くり返しと単調さ、安直さのなかに封じこめられるようになります。
 のちにルフェーブルは、トレーナーに調教される馬を思い浮かべて、社会に順応させられる人も同じだと考えたりもしています。人は朝起きてから、夜寝るまで、さまざまなしきたりや礼儀を教えられ、反復的で自動的な動作を身につけていきます。これをルフェーブルは社会的な調教ととらえました。こうした動作が習慣になると、それを変更するのは、ほとんど不可能となります。日常性のなかに継承されて形づくられる習慣というのは、頑固なものなのです。その点からみれば、日常性はきわめて保守的な性格をもっているといえるでしょう。
 日常性のなかには、経済だけではなく、政治も入りこんできます。しかし、公的生活は以前にもまして私的になろうとしている、とルフェーブルはいいます。テレビや新聞雑誌によって、民衆も王室の動向やスキャンダル、首相のとんでもない発言、映画スターやタレントの恋愛沙汰などを、毎日知らされるようになったのです。身の回りの事物に関しても、やたら商品知識が増えていきました。だれもが世の中にどんなキッチンやバス、インテリアがあるかに興味をいだくようになったのです。メディアが生活の中心を占めるようになった社会は、いったいどういう社会なのだろうという疑問がわいてきます。
 さらに、消費社会が広がるなかで、国家が市民に、税金に応じた「サービス」を提供するようになります。これもまた、これまでの国家にはない新たな側面でした。国家は単なる「暴力装置」でなく、いまや日常生活に欠かせないパブリック・サービスを約束する装置へと転じたのでしょうか。そこにも、何か隠された意図があるのかもしれません。
 しかし、日常生活も支配の単なる受動的対象ではありません。そこには解放の潜勢力が含まれており、ルフェーブルはその力によって、政治のあり方を変え、商品世界のもたらした疎外と機械化、区別化が克服されることを期待するわけです。
 ルフェーブルの消費社会批判は、人間主義的マルクス主義のさらなる探求と並列して、さらに深まっていきます。1957年にルフェーブルはロマン主義的革命という政治信条を打ちだします。
 ルフェーブルに大きな影響を受けたのが、アンテルナシオナル・シチュアシオニスト(IS)のギー・ドゥボールです。著者によると、ドゥボールは、現代の生活は「スペクタクル」の侵入によって、精神的にも物質的にも「貧困」を強いられている、と論じたといいます。スペクタクルとは、メディア消費社会のめくるめくような幻想を指しています。
 こうして日常性は革命行動の領域へとせりあがっていきます。ルフェーブルにとって、日常生活批判は現代生活の全面的な変革を求めるものでした。「世界を変えるとは、日常を変えることだ」と書いています。分断化と疎外は克服されねばならない。古いスタイルの、トップダウン式の、党主導の「外からの」革命にかわって、生活自体の「内からの」革命が強調されました。
 アメリカ流の大量消費は批判の対象となり、ディストピアとして論じられています。重要なのは、いきいきとした日常性を修復することでした。消費のあり方が新たに提示されます。ルフェーブルは、労働ではなく消費こそが人間のアイデンティティと自由の源なのだと論じました。
 こうして、労働ではなく消費が、社会変革のテコとして登場することになります。消費主義のもと、流行や広告によって植民地主義的に支配されようとしている「消費」を取り戻すことが課題になりました。こうした考え方は、『消費社会の神話と構造』を出したジャン・ボードリヤールにも引き継がれていきます。
 フランスでは、ラカン流の精神分析も消費社会批判にあらたな視座をもたらした、と著者は書いています。ラカンは日常性とは、一連の新たな、みずからを解き放つ経験を通じて、おのれを再発見していくステージだととらえました。
 1970年代にはいると、「全面的変革」の野望は、ミシェル・ド・セルトーによって打ち砕かれることになった、と著者はいいます。ド・セルトーは日常生活を個人の行動(読んだり、食べたり、歩いたり)の総体に拡散していきます。日常生活の研究は、それまで初期マルクスの思想に依拠していたのに、かれによってマルクスとは切り離されたのです。
 しかし、全面的変革という考えはなくなったものの、諸個人は日常生活に徹底的にこだわることによって、順応に抵抗することができる、とド・セルトーはいいます。それは消費自体を、別種の政治的次元におくことになります。かれが強調したのは、それまでまったく思いつかなかった創造的な商品の利用法、いかに個人が商品を操作し、みずからになじませていくかということでした。そこからは、行動的な消費者のイメージが生まれてきます。
 著者によると、歴史家が日常性の問題に着目するのは、しばらくたってからでした。それは1970年代にはいってからですが、そのときルフェーブルがロマン主義的革命を構想したような政治的コンテキストは、もっと相対的で懐疑的な調子へと変化していました。
 革命的ユートピアに変わって、心の問題と日常生活が大きく取りあげられるようになります。革命の国フランスでは、アイデンティティ・クライシスが叫ばれるようになり、「新しい歴史学」が、政治に嫌気のさした国民に、過去の時代に自分自身を発見する機会を与えるようになっていました。過去の日常を知ることが、不確実な現在の慰めともなったのです。
 1970年代から80年代にかけ、歴史家は日常性を広範囲にわたってとらえるようになります。料理や食事、睡眠といった、およそ政治とは関係しない分野が歴史に組み入れられます。かといって、政治にからむ研究が排除されたわけではありません。戦時の食料品統制にたいする庶民の猛烈な抗議についても、研究がなされました。
 ブローデルは全3巻からなる『物質文明、経済、資本主義』の第1巻として、1979年に『日常生活の構造』を出版します。ここでは、日常生活は商業資本主義や世界支配とは別次元のものとして描かれています。みずからのライフワークをふり返って、ブローデルはこう記します。
「人間は日常生活につかりきっており、そこで引き継がれる数々の行為、日々くり返される時間が、われわれの習慣を形づくっている。その習慣によって、われわれは生活し、そこに閉じこめられながらも、自分たちの暮らしのなかで、何らかの決断をしている」
 ブローデルにとって、日常性が重要だったのは、人びとが組織や政治によってではなく、まさに日常性によって引っぱられていることを認識したからだった、と著者は指摘します。
 いっぽう、イギリスでは、ニューレフトの歴史家、E・P・トムソンの影響を受けた歴史社会学者が、パンや食料品価格、欠乏、闇市場などに焦点を合わせた研究に取り組みました。こうした研究は戦時中のベルリンやロンドン、モスクワ、ヴィシー政権下の消費がどういうものだったかを明らかにしました。しかし、ここでは日常性はいつもと同じ毎日ではなかったのです。それはむしろ緊張と危険に満ちた日々であり、それまで引き継がれてきた習慣や信念が失われていた時期なのでした。歴史の舞台は、いまや政治的な場から、庶民の生活の場へと拡張されていました。
 下からの歴史はさらに一歩前進します。ジェンダー史の先駆者、ドロテー・ヴィアリングは「日常生活とは、人びとがみずからの行動を通して、自分たちの状況に直接の影響をおよぼしている領域のことだ」と記しています。これはブローデルと同じ見解です。ターゲットとなったのは旧来の社会史でした。ふつうの人びとをひとかたまりにして、反逆者としたり、順応者としたりするのは、あまりに画一的だというわけです。
 ドイツの歴史家、ハンス・メディックは18世紀における庶民文化と商業資本主義の対立というトムソンの考え方に反論しました。民衆もまた流行や酒、商業文化に関与していたというのです。産業資本主義が勝利したとしても、民衆の日常生活が消滅したわけではありません。それは存続し、家族や仕事場でそれなりの意義を見いだしていました。
 こうした「自己意志」は、それ自身、ミクロ政治的な世界を生みだしていました。禁止されているコーヒーブレークにいつもどおり出かけたり、口ひげを引っ張り合ったり、悪ふざけをしたりするのも、一種の政治だ、とアルフ・リュトケはいいます。これはルフェーブルの日常の政治とは、ずいぶんちがった光景です。私的なものと公的なものとの相互関係というのではなく、ここにはまったく別の世界があります。民衆は国の政治と距離を保っています。ザクセンの工場の研究において、リュトケは避難場所的なミクロ政治の光景を再現しています。そこでは労働者がたがいに尊重しあい、工場の規律や政党や労働組合からも自立した自己意志を保っているのでした。こうした政治世界からの分離は、ヒトラーが政権を掌握した1933年に重大な転回局面を迎えることになります。
 日常生活の研究に、フェミニズムは大きな問題を提起した、と著者は指摘します。買い物や料理、家事を担っているのは女性でした。学者の認識では、これらの消費活動はとうぜん主婦の仕事とみなされ、そう深くは考えられていませんでした。イギリスでは、ラファエル・サミュエルが、こうした考え方にはじめて疑問を投げかけます。かれは、女性のやっていることは、ささいなことではなく、これまで黙々とすごしてきた時代にたいする挑戦なのだといいます。
 民衆史は歴史をさらに民衆の立場からとらえることを求めました。ふつうの人びとの声をひきだし、かれらを歴史ワークショップやオーラル・ヒストリー・プロジェクトのなかに取りこもうとしたのです。
 もうひとつは、民衆の側から消費資本主義と戦う方向を示したことです。ベンヤミンばりのエッセイで、サミュエルはすばらしいとたたえられる商品の魔力にメスを入れ、そのインチキぶりをあばいています。
 とはいえ、著者は日常生活をめぐって、これまで歴史家と社会科学者のあいだで、ほとんど交流や対話がなされてこなかったことを指摘しています。1970年代に、相互の橋渡しをしようとしたのはド・セルトーだけだったといいます。
 ルフェーブルはのちにアメリカで再評価されるようになりますが、ドイツの歴史家にはほとんど受け入れられませんでした。かれらは構造主義者のピエール・ブルデューのほうにずっと引きつけられていたのです。いっぽう、アングロサクソンの文化史家は人類学者から示唆を得ることになります。
 ドイツの急進派はよく「消費テロ」に言及していました。しかし、懐疑的な歴史家は、足元の状況にさほど興味をいだかず、もっぱらナチス時代を取りあげていました。かれらはナチス統治下で民衆がどういう役割を果たしていたかを研究することによって、ナチズムと日常生活というテーマに行き当たったのです。とりわけ、かれらは同意と強制を単純に分けることに疑問を呈しました。
 イタリアでもオーラル・ヒストリーによって、同様の研究がなされました。新社会史の学者は、たいていが元左翼や労働史研究者だったので、かれらが仕事場や子供、庶民などに目を向けたのはよくわかる、と著者はいいます。
 ルフェーブルは女性雑誌にも注目しましたが、ドイツの歴史学者の関心は、ものにあふれた現在の家ではなく、失われたものに向けられていました。リュトケは、日常生活を研究するのはドイツファシズム下で、しいたげられ、殺害された人びとの姿を取り戻すことが目的なのだ、と書いています。
 オーラル・ヒストリーと歴史ワークショップが盛んになったのは、人びとを構造的な解釈という拘束着から解放したいという民主的な衝動からだった、と著者は述べています。歴史家が人びとから聞き取りをおこなわなければならなかったのは、自分たちの生活を知っているのは、まさにその人びとだったからです。それと同時に、日常生活は研究対象となり、記憶媒体となりました。
 そう考えれば、日常の慣行には、人びとの意識の痕跡が刻まれている、と著者はいいます。人びとから話を聞くことは、まさに隠された記憶を解き放つことでした。
 いっぽう「人びとは概して、みずからの生活をよくわかっていない。いいかげんにしかわかっていないのだ」と、ルフェーブルは記しています。人びとが社会学者や哲学者を必要とするのは、みずからを理解するためなのだ、と著者はコメントしています。
 ここで、著者はこれまでの論点を整理し、次のようにまとめています。
 まず、歴史家が日常生活という、もっとも隠された領域にスポットをあてるようになったことが意義深いといいます。以前のフランスでは、消費といっても、商品やイメージ、欲望、交通などがエッセイ風に論じられているだけでした。ここで、著者は社会学と歴史学が結合されることによって、日常生活の場が、どのようにして生まれ、また時とともに変わっていったのかが明らかにされることに期待を寄せています。
 ルフェーブルにとって、日常性は断片的で矛盾したものとして、とらえられていました。しかし、かれもまた、日常性には歴史があり、そこには全面的な真理が隠されていることを信じて疑わなかったのです。ルフェーブルはたとえば、観光や旅行、料理、セックス、家族計画などについても論じています。その論議が正しかったかどうかについては、議論の余地があります。さらにまた、20世紀の進展とともに、家庭は技術と商品の波によって侵略されていったというルフェーブル得意の言及にしても、そのまま信用するのは禁物だろう、と著者はいいます。
 ルフェーブルはどうやら、田舎暮らしや、自然のなかの生活といった、田園風の光景にあこがれていたようだ、と著者はいいます。暖炉やシチューなべ、ティーポット、ガス、風呂、トイレなどについてもルフェーブルは考察を広げ、それが長い時間をかけて改造されてきたことを明らかにしています。論理の飛躍や空疎な主張があるとしても、日常性の起源を問うルフェーブルから学ぶべき点は多いというのが、著者の当面の結論です。さらに、日常生活における余暇と労働の変遷を、資本主義やナショナリズムとの絡みで追求するなら、われわれがどういう時代に生きているのかが、よりはっきりとわかってくるのではないか、と考えているようです。
 以上は要約です。
 だいぶ話がややこしくなってきましたが、まだつづきがあります。気が向けば、このつづきを要約したいと思います。
 ぼく自身の考えは、また別に述べなくてはいけないでしょう。

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