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商業の発達──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(13) [商品世界論ノート]

 ブローデルは市、商店、行商を束ねる機構について述べていきます。
 それはたとえば銀行であったり、商業会議所であったり、裁判制度であったりするのですが、ヨーロッパにおいて、そうした制度が整えられるのは18世紀になってからです。西洋がアジアにたいして優位を占めることになったのは、直接、国家が市場を制御するのではなく、いわば合理的な市場制度が認められ、それが発展したからではないでしょうか。
 しかし、その前に、ブローデルは大市(おおいち)という、市のうえにできた過渡的な制度に注目します。巨大な市としての大市そのものは、古くから(場合によっては紀元2世紀ごろから)存在したといいます。
 大市には地域の都市や農村から、産品がいっせいに集まってきます。定期市は月に1回程度、都市の郊外、あるいは広場で開かれ、そこに何万もの人がやってきて、お祭り騒ぎになります。占い師や軽業師、遍歴の楽師や歌手までがやってきて、時に劇が上演され、ひそかに賭場が開かれます。王や王妃、貴族や貴婦人の姿が見かけられることもあったといいます。
 ヴェネツィアでも昇天祭のときに大市が開かれ、毎年10万人以上の外国人が押しかけてきました。パリのサンジェルマンの大市は夜店が有名で、そこでは高級な毛織物や綿織物が売られていたといいます。
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[ヴェネツィアの昇天祭]
 大市は商人の集まる卸売市場だというのが通常の解釈です。しかし、ブローデルは、大市にはだれでもくることができたと書いています。農民が大勢やってきて、大市の脇で、大規模な馬市や家畜市が開かれることもあったといいます。
 とはいえ、何といっても大市は大型取引の場であり、信用と決済の場でもありました。大市では為替が決済され、負債が相殺されます。
 ピアチェンツァ(ブザンソン)の大市は、フィレンツェの勢力が強いリヨンに対抗するため、ジェノヴァ人がつくった大市で、1622年まで繁栄しますが、この大市には多量の為替手形が持ちこまれ、決済がなされました。
 大市の目的は流通を容易にすることにありました。そのため、大市と大市はつながり、ひとつの環をなしています。しかし、1622年をすぎると、大市は衰退し、アムステルダムが商業と金融の中心となっていきます。大市は、経済が重い租税や関税にうちひしがれていた時代にあって、いわばつかの間の自由が与えられた特権の場でした。したがって「実際、経済生活の速度が速くなれば、大市という古い時計は、新しい加速についていけない」と、ブローデルは書いています。
 ジェノヴァ人の決済の場だったピアチェンツァの大市は、16世紀末から17世紀初頭にかけて栄えますが、その後、世界の中心はアムステルダムへと移行していきます。アムステルダムの強みは、広大な資本市場を手中に収める取引所を有していたことと、商品の流れ(アジアの胡椒、香辛料、バルト海沿岸の穀物その他)を把握していたことでした。
 アムステルダムでは大市から離れて卸売業が発達し、倉庫が整備されます。倉庫は一段上級の商店ともいえる、とブローデルは指摘します。
 18世紀初頭になると、大西洋の交易とつながりをもつ国が勃興します。ロンドンでは多数の倉庫をもつ卸売商人が大きな力をもつようになりました。中央アメリカの産品はカディスに、ブラジルの産品はリスボンに、そしてレヴァントの産品はマルセイユに、インドの原綿はリヴァプールにというように海外から産品が集まってきます。
 そして海外産品だけではなく、小麦や塩などを収める中継倉庫がつくられるようになると、大市の必要性はなくなっていくのです。
 大商人や銀行家、仲買人が集まる取引所はもともと野外にありましたが、16世紀から18世紀にかけて、取引所の建物がつくられるようになります。トマス・グレシャムがロンドンに取引所をつくるのは16世紀後半で、それはのちに王立取引所となります。しかし、ヴェネツィアやフィレンツェ、ジェノヴァでは、早くも14世紀ごろから取引所の建物があったとされています。
 アムステルダムの取引所は1631年にできあがります。そこは大卸売商と仲介業者の出会う場所で、商業取引のほか、手形が交換され、海上保険なども扱われていました。やがて、そこからは穀物取引所が分離され、さらに証券取引所が生まれてきます。
アムステルダム取引所.jpeg
[アムステルダム取引所の内部]
 アムステルダム証券取引所では、オランダ東インド会社の株が取引されました。しかし、この証券所が新しかったのは「証券取引の量、公開性、投機の自由」がきわだっていたからです。投機は大規模におこなわれ、大資本家だけではなく庶民も巻きこんでいきます。18世紀後半にいたっても、アムステルダム証券取引所での取引は活発で、それはロンドンをもしのいでいたといわれます。
 そのロンドンですが、1695年には王立取引所で、東インド会社やイングランド銀行の株が取引されるようになります。やがて、1700年ごろには王立取引所から分離されるかたちで、証券取引所が生まれます。火事などもあって、あらためて株式取引所が設立されるのは1773年のことです。
 株をめぐる話はそれこそ数かぎりなく、ブローデルもそれをおもしろおかしく紹介していますが、ここでは省略します。
 パリはジョン・ローの時代、株取引が活況を呈します。しかし、それが破綻したあとは沈滞し、ようやく1724年にヴィヴィエンヌ街に本格的な取引所がつくられます。ルイ16世治下、パリの取引所は活況を呈したといいます。公債やインド会社株、割引銀行(フランス銀行の前身)などの株が盛んに取引されました。無秩序な投機売買もはじまります。しかし、その市場はロンドンやアムステルダムにおよばなかったといいます。
 ここで、ブローデルは、活発な市場経済は貨幣なしには存在しない、と注記しています。ところが、貨幣はつねに不足します。鉱山は貴金属をじゅうぶんに産出しません。そこで、イタリアでは13世紀に為替手形が出現しました。これに公債証書や銀行券、さらに紙幣が加わるようになるのですが、ジョン・ローの計画が失敗したあとは、紙幣の信用はがた落ちになりました。
 公債証書や株券を即座に現金に変えることができるという点で、取引所の果たした役割は大きかったといいます。「換金の容易さ、流通、そこにオランダやイギリスの隆盛の秘密──その秘密の一つがあったのではないだろうか」と、ブローデルは書いています。いずれにせよ、銀行や証券取引所による信用の拡大が、活発な市場経済をつくりだす要因となったことはまちがいありません。

 ここでブローデルはヨーロッパ以外の地域に目を向けます。15世紀から18世紀にかけて、そこではどのようなことが起きていたのでしょう。
 人が生産・交換・消費のなかで生きていることは、どこの世界でも変わらない、とまずブローデルは書いています。文明があるところには、市はどこにでもあるといいます。
 16世紀末、スペインがポルトガルを吸収したあと、ポルトガル人の仲買業者はスペイン領アメリカに進出し、各地に店舗を開きました。そこでは小麦、干し肉、インゲン豆、布地などのほか、黒人奴隷や宝石まで売られていました。
 イスラム世界では、人でごったがえす市がめだちます。イスタンブルでも、バグダッドでも、カイロでも、バザールではありとあらゆる商品が売られていました。
 インドでも、あらゆる村に市がありました。というのも、農民は領主と皇帝に現金で税を支払わなければならなかったからです。都市にも市と商店が密集していました。旅の鍛冶屋などの巡回職人が都市や村を回っています。行商の人数も半端ではありません。
 中国では村に市はなく、市があったのは町で、町の市は週に2、3回開かれていました。農民は市にでかけ、こまごまとした商品を買って村に帰ります。行商人や仲買人は、ひとつの市から別の市へと、たえず渡り歩いていました。鍛冶屋、大工、錠前屋、指物師、理髪師なども、仕事場から仕事場へと移動しています。
 インド洋ではモンスーンの力を借りて、数多くの帆船が行き交っています。喜望峰を超えてジャワ島の港にやってきたオランダ人が見たのは商人の大群でした。そこには中国人、トルコ人、ベンガル人、アラブ人、ペルシア人、グジャラート人などが集まってきて、東洋のあらゆる物産を並べていました。オランダ人はその商業ルートに割りこみます。
 遠距離商業は大きな利益を生み出します。アルメニア商人はペルシアとインドのあいだを行き来しており、時にチベットのラサや中国の国境まで足を延ばします。扱う商品は銀、金、宝石、麝香、藍、毛織物、綿織物、ろうそく、茶などです。かれらはイスファハーンのペルシア商人に委託された資本で、商業活動をおこない、その利益の4分の1を受け取っています。
 この時代、ペルシアやイスタンブル、アストラハン、モスクワでもインド人商人の姿を見かけたといいます。
 インドではすべての集落に両替商を兼ねる銀行家がいました。インド人銀行家のなかには信じられないほどの金持ちがいて、運送も引き受け、織物の手工業生産にも携わっています。かれらはバイシャ階級に属していましたが、そのネットワークはインド洋周辺におよんでいました。「ヨーロッパにおいてと全く同様、遠距離商業は極東のもっとも高度な資本主義の中核にあった」と、ブローデルは指摘しています。
 中東や極東では取引所はなかったものの、大商人は16世紀に定期的に会合を開いていました。たとえば、そのような町として、モカやホルムズがあります。そこでも多くの商品が集まり、盛大な大市が開かれていました。
 マグレブ地方(アフリカ北西部)でも金を取引する大市が開かれています。しかし、イスラム世界でもっとも大きな大市が開かれるのは、エジプトのカイロとアレクサンドリア、アラビア半島のメッカ、シリアのムゼビブなどでした。
 インドの大市はガンジス川のほとりにあるハルドワルやアラハバードなどが知られています。しかし、インドの特徴は、ヒンドゥー教徒、シーク教徒、イスラム教徒ごとに異なる大市をもっていたことだといいます。ジャワ島では、オランダ人が本格的にバタヴィア(現ジャカルタ)を建設する以前は、バンタムが最も大きな都市でした。中国人は大量の胡椒を買いつけるために、バンタムの大市にやってきていました。
 中国でも、すでに唐代末期(9世紀)から大市が出現していました。こうした大市は仏教や道教の寺院と結びついていました。王朝による政治的統一が実現すると、市は国家の統制下にはいり、大市は基本的に消滅します。わずかにそれが残るとすれば、国境沿いだけで、たとえば満州との境では、馬の大市が開かれていました。大市は外国通商だけに向けられてはいるものの、イスラム世界のように自由な出会いの場ではなかったといいます。
 日本では大市のようなものはありませんでしたが、オランダ船や中国船を受けいれる長崎が大市の役割をはたしていたとブローデルは述べています。そして、実際、日本から輸出される銀と銅は世界経済にそれなりの影響をもたらしました。
 最後に、ブローデルは西洋と非西洋との隔たり(分岐)は、そう昔からではなく、遅い時期(18世紀末から19世紀はじめ)にはじまったのだと述べています。ヨーロッパとアジアでは商業が同じように発達していたのに、なぜヨーロッパがアジアを圧倒するようになったのかは、まだまだ追求してみなければいけない大テーマだといえるでしょう。

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