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市の発展──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(12) [商品世界論ノート]

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 第2巻『交換のはたらき』にはいります。
 第1巻『日常性の構造』が、15世紀から18世紀における日常生活の物質的基礎を扱っていたとしたら、ここからは市場が取りあげられることになります。
 暑い毎日がつづきますね。ことしは当初、ブローデルの全3巻からなるこの大著を読むぞと意気込んだものの、早くも挫折しそうな気配です。しかし、あせる必要もありません。気まま暮らしの毎日、時間のあいたときに、のんびり気の向くまま、読書を進めていくことにします。
 さて、『物質文明・経済・資本主義』は、日常生活と市場経済と資本主義の3層構造で成り立つ歴史記述といってよいでしょう。もちろん、この3層は現実にはまじりあっているわけですが、それをいちおう区別して考えてみようというのがブローデルの発想です。その考察は、いわば下の層から上の層へと向かいます。
 市場経済が日常生活と日常生活を結びつける媒体だとすれば、資本主義は世界と市場を結びつける媒体だといえます。ブローデルにおいては、市場経済と資本主義はとりあえず別物として扱われています。
 15-18世紀においては、資本主義はまだ成熟しておらず、それが大きな力となるのは20世紀初頭を待たなければならない、とブローデルはいいます。それでも資本主義という用語を使用したのは、明らかに市場経済とはことなる力が生まれようとしていたことを示したかったからでしょう。
 ブローデルは、資本主義がめざすのは「権力の蓄積」であり、それ自体が「一つの社会的寄生物」にほかならない、というきつい言い方をしています。そして、資本主義の本性を解明することこそが、本書の最終目標だとも述べています。
 ところで、経済は消費と生産から成り立っていますが、消費と生産を結ぶ第3項として、交換あるいは流通がなければ、経済自体うまく動かないことは、だれがみても明らかです。
 第1巻の『日常性の構造』では、日常生活の領域、いわば消費の領域が取りあげられました。これにたいし、第2巻が対象とするのは、「市場」、いわば交換の領域です。ブローデルの記述は、綿密かつ膨大なのですが、ここではそれをできるだけ簡単にまとめてみようと思っています。
 交換の場で、まず思い浮かべるのは「市(いち)」ないし「市場(いちば)」だといってよいでしょう。ブローデルもまた、ヨーロッパの市を見直すところからはじめています。
 12世紀にはすでに物価の記録が残っています。ですから、このころから都市に市があったことは確かです。市では、近隣の農村から運ばれてくる食料品が並べられ、都市の住民に売られています。
 市の起源は、エジプトでもメソポタミアでも中国でも、はるか歴史のかなたまでさかのぼります。しかし、ここでブローデルが取りあげようとするのは、あくまでも1400年から1800年にいたる市の様子です。
 都会で市が開かれたのは、当初、週に1、2回だったといいます。もっともパリのような大都会では、早くから毎日、市が立つようになっていました。
 市を監督していたのは、市の当局で、取り締まりはなかなか厳しかったようです。それでも市に大勢の人が集まってくると、そこでは食料品の売り買いだけではなく、さまざまな取引や契約もおこなわれるようになります。そして、次第に常設商店も生まれてくるのです。
 市は都市とともに成長し、次第に門の近くに、さらには城壁の外へと移動していきます。それとともに、都市の城壁もまた拡大して、こんどはふたたび市が城壁内に取りこまれていくという現象が生じます。

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[ヴェネツィア、リアルト橋の周辺]

 生活に食料が欠かせないことから、パリやロンドンでは、無秩序に市が生まれ、交通のじゃまになっていきます。そこで、市当局は間口の広い建物をつくって、その中庭に肉や魚、バター、チーズなどを売る市を封じこめようとします。
 街路では行商禁止令が出されました。しかし、そんなことは気にもかけず、小売商は町全体に広がっていきました。
 パリでは、周辺の地域から、魚介類や肉類、小麦、ワインをはじめとして、ありとあらゆる食べ物が運ばれてきます。運搬にはセーヌ川などの水路が利用されました。
 ロンドンは時代とともに拡大していきましたが、運搬の動脈となったのはテムズ川でした。
 イギリス各地はまさにロンドンのために奉仕しているかのようにみえました。しかし、いっぽうでロンドンから刺激を受けて、イギリス各地の生活も近代化していったのだ、とブローデルは書いています。
 いっぽう、生産者と大商人、大商人と小売商人とのあいだに、新たな流通の仕組みがつくられていくと、旧来の市は壊滅していきました。
 16世紀、17世紀に定期的に市をもつ都市や町は、イングランドで760、ウェールズで50あったとされます。これは6000人から7000人にひとつの市という割合です。
 しかし、13世紀に市の数はもっと多かったとともいわれ、中世からエリザベス女王の時代に、こうした市は多くが統合され、消滅していったのです。
 市が発展するのは16世紀後半からです。市の専門化もはじまっています。小麦や肉、皮革製品、魚、糸、麻だけを扱うような市も増えています。
 そのいっぽうで、行商人による商業活動も活発となり、ブローデルにいわせれば「村落へ向かって、市があふれだす」状況がはじまっていました。
 村では宿屋が市の役割をはたすようになり、村から村へわたって食料品を買いつける卸売商人も登場します。
 公認の市だけではもはや不十分でした。不正や密貿易なども増えていき、プライベート・マーケットも広がっていきます。旅から旅の行商は、イギリスでも大陸でも、それなりに魅力的な職業でした。
 市は経済を揺さぶる、とブローデルは書いています。取引は衣食住関係だけではなく、土地や不動産にも広がり、貨幣が行き交い、高利貸しや手形まで登場するようになります。
 この時代、奴隷制がまだ残っています。しかし、それとは別に労働市場も生まれます。商人に雇われる鉱夫や、農村の賃労働者も、めずらしくありませんでした。穀物やぶどうの取り入れ時には、臨時の人足が集まってきました。家事使用人も遅くとも15世紀には誕生しています。傭兵は大きな雇用を生みだしました。都市では、料理人や石工、大工、指物師、靴職人、鍛冶、画家などが勤め口を探して、街をさまよっています。
 市は一種特別の祭りだった、とブローデルは書いています。もちろん、この時代は「自家消費し、自給自足し、自分の殻に閉じこもっている地域」も多く、そこでは農民的暮らしがつづいています。かれらもあまった玉子や野菜を売ったり、犂に必要な刃先を買ったりするために、市場にやってきますが、それは市との軽い接触にすぎません。
 しかし、最初から収穫物の商品化をめざしている大農場主は、市と深く結びつき、大都市の暮らしを取り入れるようになっていました。
 商業経済が発達するにつれ、金銭が人の心性を変えていきます。土地財産は少数者の手に集中し、農民はますます貧困化し、働き口を求めて狭い労働市場へと流れていきました。
 産業時代以前のヨーロッパでは、人口の8割から9割が農民でした。農村社会はまだ多くが自給自足状態にあって、市は現在のように大きく発展していなかったといえるでしょう。
 しかし、市に競合するかたちで、すでに商店も誕生しています。市とちがって、商店はいつも開かれています。都市の出現とともに、ただちに姿をみせる最初の商店は「パン職人、肉屋、靴職人、木靴職人、鍛冶屋、仕立師、その他小売りを行う職人の工房」だったといいます。かれらも最初のうちは、自分の仕事場でつくった品物を市にもっていっていましたが、やがて自分の店で商売をするようになります。
 さらに、自分ではものをつくらず、交換の仲介だけをする商人も店をかまえるようになります。18世紀の食料品店兼雑貨店は、日本でいえばよろず屋、現代風にいえばコンビニやスーパーといったところでしょうか。なかには、販売する製品を近在でつくらせるだけでなく、ほかからも仕入れる、事業家兼商店主も登場します。
 さらに経済が発達すると、専門店があらわれます。食料品店、仕立屋、金物商、薬局、質屋、両替商、銀行、宿屋、居酒屋といった具合です。これらの店は同業組合によって統制されていました。
 そして力をつけてきた大商人は、やがて都市の権力を握るにいたります。
 しかし、ブローデルにいわせれば、重要なことは、商店が都市を征服し、やがては村々さえ征服してしまったということだといいます。
 17世紀後半には、商店は目をみはるほど増殖していきます。高級店は室内装飾をほどこし、ショーウインドウに商品を並べ立て、道行く人びとをひきつけます。商店は街路を浸食し、ひとつの地区から他の地区へと進出していきます。
 すでに一種の消費社会が生まれようとしていました。ロンドンでサンドイッチマンが登場したのは、1815年のことでした。
 供給の異常な増大、交換の加速、第3次部門の勝利があった、とブローデルはいいます。とはいえ、商店の数が飛躍的に増大するいっぽうで、零細商店の破産もまた日常的でした。
 商店は小型の劇場で、店にはいるのは買い物ばかりではなく談論するためでもある、とブローデルは書いています。そして、商店が躍進した最大の理由は、信用売買にあったとも。
 小売店は、顧客、とりわけ裕福な顧客に掛け売りをしました。しかし、掛け売りをするというのは、一種、資本家の立場になるということであり、貸したカネを回収できない危険性を背負うことでもあります。
 決済のとどこおりは、困難を引き起こします。とはいえ、信用貸しの連鎖こそが商業の基本だったのです。
 行商人はごくわずかの商品を背負って運ぶみすぼらしい商人でしたが、かれらは無視できない交換の担い手だった、とブローデルは書いています。都市でも農村でも、かれらは供給の欠落した部分を埋める役割をはたしています。その仕事は多種多様です。研ぎ屋、運び屋、売り子、配達屋、その他もろもろ。
 農村に大衆読み物と暦が普及したのは、行商人のおかげだったとされます。したがって、行商人は遅れた存在だったとはかぎらず、市場拡大の担い手でもあったのです。かれらは売れ残り品をさばく技術ももっていました。行商人はあらゆる場所にしのびこみ、あらゆるものを売りさばきました。
 季節によって移動する行商人もいます。たとえばサヴォワ人は、時にフランスへ、時にドイツへ、季節行商にでかけたといいます。突然、多数の行商人が都市に殺到することもあります。
 経済発展が進むと、行商は自然に衰えていくと思われがちです。しかし、ブローデルはこの説には疑問を呈し、行商はきわめて適応性に富むシステムなのではないかといいます。パリでは1813年に、露天商人が大通りに屋台をつらねていることへの苦情が、警視総監のもとに寄せられています。
 戦中から戦後にかけて、フランスでは「闇市」が出現したことをみても、行商はいつだって復活する可能性がある、とブローデルは断言します。
「なぜなら、行商は、神聖にして侵すべからざる市場の既成秩序をすり抜け、時の権力者の鼻を明かす一つの方法だからである」
 このあたり、ブローデルの反骨心がたっぷりにじみでていますね。
 つづきは、また気が向けば。

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