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ヴェネツィア、アンヴェルス、ジェノヴァ──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(22) [商品世界論ノート]

 第2章では、都市国家型の経済として、まずヴェネツィアが取りあげられます。なぜ海に浮かぶ小さな都市が、あれだけ広範囲の支配をなしとげることができたのでしょう。
 ヴェネツィアは多くの内紛をかかえながらも、網状の支配地域を守ってきました。占拠したカンディア(クレタ島)やコルフ島、キプロス島にも要塞を築いています。
 ヴェネツィアの権力が長くつづいたのは、「都市の対外的優位と、富裕層や権力層が都市内部で占める優位」とが保たれてきたためだ、とブローデルは書いています。
 ヴェネツィアなどの都市が優位に立てたのは、他の諸国より一歩先んじた近代性をもっていたからです。
 都市と領域国家は、潜在的に敵対関係にありました。そして、ヴェネツィアは、ビザンチン帝国とトルコ帝国を餌とすることによって発展していきます。
 しかし、ヴェネツィアをみる前に、まずヨーロッパにおける都市の形成に焦点をあてましょう。時代は11世紀から13世紀にさかのぼります。
 もちろんローマ時代も忘れてはならないでしょう。ゲルマン人による5世紀の大侵略のあと、ヨーロッパはローマ帝国の境界を越えて、ゲルマニア、東ヨーロッパ、スカンディナヴィア、ブリテン諸島の方向にも広がっていきました。さらに、のちには、南のほうで、イスラム圏、ビザンチン方面への再征服がこころみられます。
 人口が増えると森林や沼沢地が開発されるようになり、交通もさかんになり、都市ができてきます。都市は城壁で囲まれていました。国家はまだ緩慢にしか形成されていなかった、とブローデルはいいます。
 都市の生命は街道と市、職人、そして金銭でした。市が立つと、農民はあまった農産物をもって、都市にやってきます。13世紀以降、ヨーロッパは家内経済から市場経済へと移行します。
 ブローデルは「人口が増大し、農業技術が改良され、商業が復活し、産業が初めて手工業段階での飛躍を遂げるという事態が同時に起こったからこそ、ヨーロッパの全空間にわたって、都市網が、また都市の上部構造が究極的に作りだされた」と記しています。
 都市の発展と都市間、都市と農村の活発な交換は、いやおうなく市場経済をつくりだしていきます。
 ヨーロッパの経済圏には北と南の両極がありました。北の極がバルト海と北海を擁するネーデルラントだとすれば、南の極は地中海を擁するイタリアです。北がより産業的だとすれば、南はより商業的でした。13世紀のシャンパーニュの大市は、この南北が出会う場となっていました。
 地中海がヨーロッパの中心を占めていた16世紀までは、南のイタリアが優位に立っていました。ところが1600年ごろ、ヨーロッパは大きく揺らいで、北に有利な状況が生まれます。
 そこで、まず北の経済圏をみていくと、ネーデルラントで諸都市が生まれたのは中世になってからでした。カロリング王朝はアーヘンに首都をおきました。その後、戦乱がありましたが、それが収まると、ネーデルラントは活気づき、いたるところに要塞や城壁都市ができていきます。
 11世紀になると、織物業者たちが北方の都市に住み着くようになり、とりわけフランドル(現ベルギー北西部とフランスの一部)のブリュージュ(ブルッヘ)が繁栄することになります。
 ブリュージュはイングランドやスコットランドから羊毛を仕入れ、毛織物を加工しました。町にはノルマンディの小麦やボルドーのワインも到着します。そしてハンザ同盟加盟都市の船舶が入港するようになって、ブリュージュは繁栄します。1277年からはジェノヴァ船、1314年からはヴェネツィア船がやってきます。ブリュージュにはレヴァントの香辛料や胡椒がもたらされ、代わってフランドルの生産物や工業製品がイタリアに輸出されることになります。
 ブリュージュには各地から物産が集まってきました。織物産業も盛んとなり、人口も増え、金融の中心地がつくられます。しかし、ブリュージュは北方地帯の点にすぎませんでした。面全体で見ると、バルト海、北海、英仏海峡に、ハンザ同盟がその翼を広げていたのです。
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[ハンザ同盟の通商圏。本書より]
 ハンザとは、商人組合という意味です。そのハンザ同盟が勢力を確立するのは13世紀後半になってからです。その中心都市がリューベック(北ドイツ)でした。ハンザ同盟の海域では、木材や蝋、毛皮、ライ麦、小麦、塩、毛織物、ワインなどが移送されていました。
 ハンザ同盟には70ないし170もの都市が加盟し、共通の経済的利害によって結ばれていました。注目すべきは、そこに国家が加盟していなかったことです。商人たちのあいだでは、相互のコミュニケーションをはかるため、低地ドイツ語を基礎とする共通言語が話されていたといいます。
 海外支店ももうけられていました。たとえばロンドンやパリ、ブリュージュ、ノヴゴロド[ロシア]、ベルゲン[ノルウェー]など。
 リューベックがもっとも栄えるのは1370年から1388年にかけてです。しかし、やがて後退がはじまります。黒死病の影響で、西ヨーロッパで穀物価格が低落したのを皮切りに、さまざまな危機が訪れるなか、デンマーク、イングランド、ネーデルラント、ポーランド、モスクワ公国など、領邦国家の力が強まっていきます。
 さらにはイギリス人やオランダ人、ニュルンベルクの商人などが、ハンザ同盟の勢力圏にはいりこんできました。こうしてハンザ同盟は徐々に衰えていきます。
 それでは南の経済圏はどうだったのでしょう。
 7世紀には地中海でも、イスラムが勢力を伸ばしていました。しかし、8世紀になると、イタリアでも少しずつ海上交易が復活し、イスラム諸都市、ビザンチン、ヨーロッパを結ぶ三角通商に取り組んだアマルフィなどの群小都市が、活気づきます。アマルフィの最盛期は12世紀から13世紀にかけてです。その後ノルマン人やピサ市民による征服や略奪がつづき、アマルフィは衰退していきます。
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[アマルフィ。ウィキペディアより]
 海と山に狭小なアマルフィと同様、ヴェネツィアも海に浮かぶ風変わりな都市でした。町には真水も食糧もありませんでした。小麦、肉、野菜、ワイン、石材、木材、生存に必要なものすべてが交易頼みです。だとすれば、生きていくには、効率よくもうかる商品を動かすほかありません。
 ヴェネツィアはビザンチン帝国の隙の多い巨大市場にはいりこんでいきます。しかし、ヴェネツィアがみずからの勢力を確立するには、アドリア海を支配し、北に向かうブレンナー街道を確保し、商船、軍艦を増やしていかねばなりませんでした。政治制度や金融制度の改革も求められていました。
 ヴェネツィアの商業を躍進させたのは十字軍だ、とブローデルはいいます。13世紀になると、ビザンチン帝国は弱体化し、ヴェネツィアはレヴァントの香辛料と胡椒を優先的に手に入れます。しかし、そのころからジェノヴァとの競争がはじまっていました。
 ネーデルラントとイタリアのふたつの経済圏の中間には、シャンパーニュ(フランス北東部)の大市がありました。12世紀から13世紀にかけ、この一帯では、トロワなど各都市の持ち回りで年6回、大市が開かれていたのです。ここにはヨーロッパの北と南の商品が集結しました。北からは羊毛、毛皮、蝋、木材、そして南からは胡椒や香辛料、医薬品、絹織物などがやってきます。
 しかし、ブローデルは、「シャンパーニュの大市の新しさは、商品があふれるほどあったということよりは、むしろ金銭の両替が行われ、信用が先駆的に活用された点にあったといってよい」と述べています。ここでも信用決済の場で活躍したのはイタリア人商人でした。
 シャンパーニュの大市が衰退するのは、13世紀末に地中海と北海を結ぶ航路ができたからといってよいでしょう。さらにアルプス東部の山越え道が優勢になってきたことも影響しています。これはイタリアと南ドイツを直接結ぶルートでした。
 13世紀に大商業都市となり、またフランス君主政治の中心地となったのは、パリでした。しかし、シャンパーニュの大市が衰退すると、フランス経済も活気がなくなります。時代はまだイタリアやネーデルラントの都市国家に傾いており、領域国家には、まだ経済を動かしていく力はなかったのです。
 14世紀になると、イタリア経済が躍進します。フィレンツェ、ミラノは工業都市となります。黒死病が蔓延したあと、西ヨーロッパ全体の経済は低迷しますが、イタリアはこの難局を乗り越えていきます。
 14世紀後半、ヴェネツィア艦隊は、アドリア海の出口にあるキオッジャを占拠したジェノヴァ艦隊を粉砕しました。これ以降、ヴェネツィアはアドリア海を完全に制覇します。しかし、ジェノヴァとは最後までとことん戦うより、棲み分けるほうが賢明でした。
 ジェノヴァの資本主義は、ヴェネツィアより、ずっと近代的でした。しかし、ヴェネツィアはジェノヴァほど冒険をせず、目の前のアドリア海を守ることができさえすれば、容易にシリアやエジプトに達することができるという利点をもっていたのです。
 14世紀末には、ヴェネツィアの優位が確立されます。アドリア海の出口、コルフ島を占領し、パドヴァやヴェローナ、ベルガモなどに陸上領土を広げ、レヴァント・ルートに沿って植民地を築きました(キプロスは15世紀末にヴェネツィア領になりました)。
 15世紀初頭のヴェネツィアの予算規模は、イングランドやスペイン、フランスなどの予算を凌駕するほどだったといいます。ヴェネツィア商人は胡椒、香辛料、木綿、小麦粉、ワイン、塩などの交易品を扱っており、その商業所得は圧倒的でした。その富が増えるにつれ、ヴェネツィアでは、商船や戦艦が増強され、都市も整備され、美しくなっていきました。
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[ヴェネツィアの光景。カルパッチョ「聖十字架の奇蹟」。ウィキペディアより]
 ヴェネツィアの経済圏は、イタリア北部からバルカン半島、そしてアルプスを越えて、アウクスブルク、ウィーン、ニュルンベルク、ストラスブール、ケルン、ハンブルク、リューベック、ブリュージュ、ロンドンへと広がっていきました。唯一の気がかりは、オスマントルコが勢力を広げていることでした。
 ヴェネツィアの交易は、政府によってすべて管理されています。レヴァントなどからの商品はすべてヴェネツィアに集められました。
 ヴェネツィアは「一種の汎用倉庫」だった、とブローデルはいいます。ヴェネツィア商人は、自由にドイツ人商人と取引することを禁じられていました。ドイツの商人は、ヴェネツィアの「ドイツ商館」に閉じこめられ、そこで共和国政庁の監視のもと、商品(鉄や金物、銀など)を売り、ヴェネツィア商品(毛織物や木綿、絹、香辛料、胡椒、黄金など)を買い入れなくてはなりませんでした。
 ヴェネツィアにとっては、貴重な商品をヨーロッパにどう配達するかというもうひとつの問題がありました。そのときに考えられたのが商業ガレー船です。これは国有船で、貴族はそれを賃貸し、商人から積み荷に応じた用船料を徴収して荷を運んでいました。この制度が全盛期を迎えたのは15世紀後半で、このとき船は地中海を越えて、ブリュージュまで航路を広げます。しかし、16世紀になると、この方式も衰退していきます。
 資本主義がヴェネツィアで生まれたという見方にたいして、ブローデルは批判的です。金貨を鋳造したのは、ヴェネツィアよりジェノヴァやフィレンツェが先でした。小切手や持ち株、複式簿記、海上保険を発明したのはフィレンツェでした。マニュファクチュアをつくったのもフィレンツェであり、ジブラルタル海峡経由でフランドルとの定期航路を開いたのはジェノヴァです。
 そういう点では、ヴェネツィアはけっして先進的ではありませんでした。にもかかわらず、ヴェネツィアは経済の総合力でまさっていた、とブローデルはいいます。ヴェネツィアは隅から隅まで、よく組織された商業都市だったのです。
 ヴェネツィアの経済風土は独特でした。商業活動は多種多様な小規模取引に細分されています。そのため、巨大会社はついに出現しませんでした。もうひとつ特異なのは、ヴェネツィアの商業活動が、すべてレヴァントに動機づけられていたことです。レヴァント交易がすべてでした。「結局ヴェネツィアは、そもそものはじめに、みずからの成功による教課のなかに閉じこもってしまったのだ」と、ブローデルは評しています。
 ヴェネツィアの人口は、15世紀には10万人あまり、16世紀から17世紀にかけては14万ないし16万人に達していたといわれます。しかし、特権階級は数千人で、あとは労働者と貧乏人、浮浪者でした。
 労働者はふたつの階層に分かれていました。ひとつは同業組合に属する者。ここには親方や職人も含まれています。もうひとつは未熟練労働者で、運送業者や荷揚げ人足、水夫など、ほかに絹や羊毛の組合で雑用をしていた労働者がいました。ほかにも、さまざまな職業があります。ブローデルは人口15万のうち労働人口は3万4000人程度で、そのうち3分の2が同業組合に所属し、3分の1が未組織労働者だったとみています。
 ヴェネツィアでは賃金が高く、社会は驚くほど平穏だったといいます。政庁が町の治安を保っていました。
 しかし、繁栄を誇ったヴェネツィアも徐々に没落していきます。大航海時代を迎えた15世紀末、ヨーロッパは世界にむけて進出していました。領邦国家も態勢を立て直しています。オスマントルコは1453年にコンスタンティノープルを陥落させ、さらに征服地を広げようとしていました。ヴェネツィアはトルコ帝国との戦いのなかで、徐々に活力を吸い取られていきます。
 16世紀初頭にはすでにヴェネツィアの没落がはじまっていました。
 ヨーロッパの西端にあったポルトガルは、航海王子エンリケ(1394-1460)の時代に大航海に乗り出し、つづくジョアン2世(在位1481-95)の時代に喜望峰に到達。その後、バスコ・ダ・ガマがインド航路を発見しました。
 その間、スペインに雇われたジェノヴァ人、クリストフォロ・コロンボ(クリストファー・コロンブス)は1492年にアメリカを発見しました。当初は、アメリカ航路よりインド航路のほうにより高い経済的価値が認められていました。
 ポルトガルが成功を収めた背景には、活発な貨幣経済があった、とブローデルはいいます。いかんせんポルトガルは経済の中心から外れていました。とはいえ、13世紀末には、地中海とバルト海を結ぶ航路ができたため、リスボンは国際的な交易地となります。
 1415年のセウタ(モロッコ北岸)遠征以降、1443年から82年にかけ、ポルトガルはブラック・アフリカの沿岸を掌握していきます。象牙や砂金、奴隷売買がポルトガルの交易の中心となりました。マデイラ島にはサトウキビが植えられています。
 ポルトガルはインド航路の開発に力をいれます。そのことによってアメリカ(ブラジルを別として)にたいしては手薄となります。
 しかし、ヴェネツィアに代わって、世界の新たな中心となったのはリスボンではなく、アンヴェルス(アントウェルペン、アントワープ)でした。その理由は、胡椒や香辛料の消費者の大部分が、ヨーロッパの北部に住んでいたからだとされます。
 アンヴェルスはハンザ同盟の盟主、ブリュージュの後継者でした。アンヴェルスに自前の船団があったわけではありません。
 ブローデルは次のような言い方をしています。

〈アンヴェルスのほうが世界を掴み取ったのではなく、その逆であった。大航海時代の数々の発見によって世界の軸が移動した結果、世界は大揺れに揺れて大西洋に向かって倒れかかり、ほかに仕方がなくてアンヴェルスにしがみついたのである。〉

 アンヴェルスは神聖ローマ帝国のブラバント公国の一部で、ブリュッセルの政府の管轄下にありました。ほとんど自由都市のようにふるまっていたものの、アンヴェルスはヴェネツィアでもジェノヴァでもありませんでした。「アンヴェルスはその場しのぎだった」と、ブローデルも再三強調しています。
 それでは、なぜアンヴェルスが浮上したのでしょう。
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[アンヴェルスの通商路。本書より]
 ヴェネツィアの最盛期は1378年から1498年の100年間でした。これにたいし、アンヴェルスは1500年から1569年にかけて、波乱に富んだ歴史を経験します。
 ブローデルによると、その飛躍的発展は3段階によって成し遂げられました。
 最初の段階。1500年ごろ、イングランドの商人がアンヴェルスの大市を、毛織物の交易地として利用するようになります。そして、この地に多く住んでいたドイツ人が、アンヴェルスにライン川を経てワインや銅、銀を運んでくるようになります。
 そこにポルトガル船が胡椒を積んで、入港するようになるのです。胡椒の消費地がヨーロッパ北部と中部だったからです。その見返りとしてポルトガルはドイツの銅と銀を手に入れました。その銅と銀を扱っていたのが、フッガー家やヴェルザー家でした。
 次の段階は、1530年代から50年代にかけてです。スペインはアメリカ大陸を開発するために、多くの商品を必要としました。食糧や布地、毛織物、金物、手工業製品などです。その輸出港が、当時スペイン国王でもあるカール5世の支配する神聖ローマ帝国に位置していたアンヴェルスだったのです。
 その見返りとして、アンヴェルスには、羊毛や塩や明礬、ワイン、油、それにアメリカ産の染料(カイガラムシやブラジル木からとったもの)やカナリア諸島の砂糖などが届きます。
 しかし、それだけでは輸出分に足りませんでした。そこで、スペインは貨幣や、アメリカの銀塊をアンヴェルスに送ったのです。この時期がアンヴェルスの最盛期でした。
 とはいえ、まもなくスペインが破産し、フッガー家も倒産します。
 最後の段階は1560年代です。ハプスブルク家とヴァロワ家(フランス)との戦争が終わり、カトー・カンブレジ和約(1559年)が結ばれたあと、アンヴェルスの商取引は、ふたたび活発になります。
 イギリスはアンヴェルスを避け、毛織物の交易地としてハンブルクを選びました。そこで、アンヴェルスは毛織物や布地、つづれ織りなどの産業活動に活路を見いだすのです。
 それが長く続かなかったのは、ネーデルラントで生じた反乱が、ブラバント(現在のベルギー東部とオランダ南部)のアンヴェルスにも波及するからです。これにイングランドが関与して、スペインとネーデルラントの海上連絡が途絶します。戦乱は長引き、それによってアンヴェルスの盛運も次第に衰えていくことになります。

〈アンヴェルスの世紀は、フッガー家の世紀であった。あとに続く世紀は、ジェノヴァ人の世紀となった。〉

 ブローデルはそう総括していますが、たしかにそうだったのかもしれません。ただし、世紀というのは正確ではなく、実際には70年ほどだともつけ加えています。
 アンヴェルスの世紀が1500年から1569年だったとすれば、ジェノヴァ人の世紀は1557年から1627年の70年でした。
 ジェノヴァの町は猫の額ほどの海岸沿いにつくられています。狭い地所に人びとは寄り集まって暮らしていました。防衛にはおよそ不向きな町です。ジェノヴァは、外界に頼らずに生きていくことはできませんでした。
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[15世紀のジェノヴァ。クリストフォル・グラッシの絵。本書より]
 ブローデルはジェノヴァの柔軟性を指摘しています。

〈ジェノヴァは、何度も何度も進路を変え、そのたびに必要な変貌を受け入れた。自分がそれを保有するために外界を組織立て、ついで、そこが住めなくなったり使用不能になったりすると捨て去ってしまう。そして、もうひとつの外界を創案し、構築するのである〉

 ジェノヴァの変転きわまる歴史に言及していては、きりがありません。そこで、「ジェノヴァの世紀」と呼ばれる時代だけに話を限定すると、そのはじまりは、1557年にジェノヴァ人が、フェリペ2世のスペイン政府に金銭を前貸しする仕事を引き受けたことにありました。
 ジェノヴァの世紀は、アンヴェルスの世紀やその後のアムステルダムの台頭とも時期が重なっていて、画然とはしません。しかし、ジェノヴァの重要性はやはり無視できない、とブローデルはいいます。
 ジェノヴァはスペイン国王に前貸しをするという金融業務に踏みこむことによって、多額の利益を得ました。つまり、ジェノヴァが成功を収めたのは、何よりも金融によってだったのです。
 ジェノヴァ人はスペイン国王に融資することによって、アメリカからセビーリャに運ばれる銀を手に入れていました。そして、その銀を、交易で銀を必要としているポルトガル人とヴェネツィア、フィレンツェの商人に売ったのです。ヴェネツィアとフィレンツェは商品を北の諸国で売り、その代金として為替手形を受け取り、その為替手形でジェノヴァの銀を買うというかたちです。
 スペイン政府は、ネーデルラントの反乱を制圧するために送りこんだ兵士の給料支払いを金でおこなっていました。そのさい、銀貨を金貨に両替する仕事もジェノヴァが担っていました。こうして、おのずから、スペインがアメリカ大陸で得た銀が、ほとんどジェノヴァに流れこむ仕組みができていました。
 ブローデルがいうように「ジェノヴァの盛運の支えになっていたのは、アメリカ大陸におけるスペインの盛運であり、またイタリアの盛運そのものだった」のです。つまり、ジェノヴァはヨーロッパの金融空間を掌握することによって、経済の覇者となったということができるでしょう。
 しかし、ジェノヴァの盛運にもかげりがでてきます。1627年にスペインは破産し、ジェノヴァはマドリッド政府と手を切ります。その後、スペインの銀の多くは、しばらくのあいだロンドンに送られ、さらに1647年ごろから皮肉なことにオランダに運ばれるようになるのです。
 とはいえ、スペイン政府と手を切ったことにより、ジェノヴァは資本の相当部分を救いだしました。その後もセビーリャやカディスからは、アメリカ産の銀がジェノヴァに届いています。
 18世紀になっても、スペインはジェノヴァの織物を数多く輸入しています。要するに、ジェノヴァ商人は変わり身が早かったのです。
 ジェノヴァの商業活動がやむことはありませんでした。1627年後も、ジェノヴァ資本はあらたな顧客を見つけて、金融の仕事を再開しています。その主な取引先はフランスでした。
 最後にブローデルは、こうまとめています。

〈しかしジェノヴァ資本主義の再転向、あるいはむしろ数次にわたる再転向にもかかわらず、ジェノヴァは世界=経済の中心に立ち戻るに至らなかった。国際舞台でのジェノヴァの《世紀》は、まだ1627年にもならないうちに、おそらく1622年に、ピアチェンツァの大市の調子が狂ったさいに完了したのであった。〉

 そして、つづいてはじまるのが、アムステルダムの時代でした。

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