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アムステルダムの時代(2)──ブローデル『物質文明・経済・資本主義』を読む(24) [商品世界論ノート]

 オランダ東インド会社がもっとも気にしていたのは、ヨーロッパの需要がどれくらいあるかという問題でした。ヨーロッパでは競争によって、胡椒や香辛料の販売価格が下がりつつあるのに、現地ではその買い入れ価格が上昇していることも気がかりでした。
 香辛料の独占を維持するのは容易ではなく、オランダはセイロン島に守備隊を配置し、バンダ諸島では、暴力や戦争によって、住民を強制的に排除しなければなりませんでした。バタヴィアの優位を確立するには、マカッサル(スラウェシ島南部)を征服し、バンタムを廃港にし、マタラン(ジャワ中部)を制圧する必要もありました。こうしてみると、東インド会社は単なる商社ではなく、国家の出先機関だったことがわかります。
 18世紀にはいるころから、オランダ東インド会社の収支は、慢性的に悪化していきます。ヨーロッパでは、1670年以降、胡椒が売り上げのトップから脱落します。それでも上質の香辛料は、高値を維持していました。インド諸国の織物(絹、木綿)がよく売れるようになり、茶、コーヒー、漆、中国陶器などが新商品として幅をきかすようになります。
 1700年ごろから1740年ごろにかけて、オランダ東インド会社が次第に衰退していくのは、イギリス東インド会社に押されていったからだといえます。イギリスの会社はすでに17世紀末から直接、中国との通商をはじめていました。これにたいし、オランダはあくまでも間接通商に固執し、バタヴィアを拠点とし、そこに胡椒などを求めてやってくる中国のジャンクから中国製品を受け取っていたのです。イギリスはベンガル(中心はカルカッタ[コルカタ])と中国を結ぶルートを確立し、最初は茶、木綿と銀を交換し、のちには銀に代わって阿片を売るようになります。さらに、オランダはインドの拠点(コロマンデル海岸)からも排除されていきます。
 17世紀の前半、オランダ東インド会社は圧倒的な資金力をほこり、100隻ないし160隻の船を所有し、海員の人数は8000人に達していました。その配当も20%以上だったといわれます。しかし、ブローデルの計算によると、会社の収益は1696年から減少しはじめ、1724年ごろには赤字になったといいます。それでも会社は借金を重ね、株主に配当を支払いつづけました。そして大きな負債をかかえて、1788年に破局を迎えるのです。
 赤字の原因は、大きくいえば、ヨーロッパ市場の変化とイギリス東インド会社との競争にありました。しかし、同時にブローデルはバタヴィアのオランダ人の腐敗と不正を、理由のひとつに挙げています。

〈東南アジア諸島には不服従・密輸・半独立・無秩序が根づいていて、そこではオランダ人居留民がたしかに豪勢な暮らしをしていた。バタヴィアのお屋敷町の派手な贅沢は、17世紀にはすでにありきたりになっていたが、年が経つにつれて大がかりになり、美々しくなっていった。金銭・蒸留酒・女・召使いや奴隷の群れ。……バタヴィアでは会社の赤字の一部が、音もなく個人財産に化けてしまったのである。〉

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[長崎出島、オランダ商館の正月]
 もうひとつ問題は、会社の商品が、オランダ本国において、少数の商人によって買い占められていたことだ、とブローデルは指摘しています。これによって、商人たちは経済的支配者として、独占的な利益を確保していたのです。
 いっぽう、新世界では、オランダが大きな成功を収めることはありませんでした。アメリカ大陸には早くからスペインやフランス、イングランドがはいりこんでいました。しかし、オランダがアメリカへの進出をこころみなかったわけではありません。1621年には西インド会社がつくられています。そのときオランダがねらいをつけたのは、ポルトガル領アメリカ、すなわちブラジルでした。
 オランダは1624年に当時の首都サルヴァドル(バイア)を攻略しますが、すぐにスペインに奪還されました。さらに1629年には、砂糖の確保をねらって、レシフェを占領、1635年にはパライバ北部を奪取して、ブラジル北東部の海岸地方を植民地とします。しかし、皮肉なことに、この占領によって、かえってアムステルダムにはそれまで豊富に入荷したブラジル産の砂糖が届かなくなり、砂糖の値段が高騰した、とブローデルは書いています。
 けっきょくオランダはブラジルの植民地経営に失敗しました。オランダはポルトガルに敗れ、1661年にハーグで講和条約が調印されます。ブラジルはポルトガル領としてとどまる代わりに、その港はオランダの船舶にも開放されることになりました。また、この条約により、オランダはポルトガルから奪ったアジアの領土を保証されるいっぽう、アンゴラなどアフリカ海岸の領地をポルトガルに引き渡すことになります。
 オランダ西インド会社は、その後ギニア海岸とオランダ領スリナム、クラサオ島(キュラソー島)との貿易に甘んじることになります。スリナムはニューアムステルダムをイギリスに譲渡する代わりに、イギリスから割譲された領土でした。そして、イギリスに譲渡されたニューアムステルダムは、ニューヨークという名前に改称されます。
 オランダの野望は新世界ではヨーロッパ諸国と衝突し、ついえました。「オランダは小さくて、インド洋と、ブラジルの森林と、アフリカの役に立つ部分とを同時に呑みこめるほどには太っていなかった」と、ブローデルは評しています。

 アムステルダムが繁栄したのは、何はともあれ物資集積の中心地だったからです。倉庫はすべてを飲みこみ、そして吐きだしていきます。市場にはありとあらゆる商品がそろい、大量の金銭が流通していました。アムステルダムは「世界じゅうの商品を、集荷し、倉庫に入れ、販売し、転売する役割」を担っていたのです。
 倉庫がアムステルダム経済の核心でした。商品を豊富に保存することで、アムステルダムはヨーロッパの物価をコントロールし、商品の出し入れを調整することができました。
 オランダは世界の運送屋であり、倉庫システムはほとんど独占の域に達していました。それに加えて、アムステルダム銀行は、現金に頼らない振替による早急な決済をおこなっていました。「じじつオランダ人は、ヨーロッパ全体に向かって信用貸しをする商人であって、それこそ彼らの繁栄の秘訣中の秘訣であった」と、ブローデルは記しています。
 アムステルダムには商慣行として、委託商取引があったといいます。委託商取引は、注文する委託者と注文を受ける代理業者との取引から成り立っています。ブローデルはオランダで卸売り商人が委託者になって、リヴォルノやセビーリャ、ボルドーなどの代理業者を動かして商品を集める場合と、卸売り商人が代理業者になって、商人から信用貸しで注文を受けたり、逆に商人から預かった商品を売ったりする場合を想定しています。これらの取引は複雑な網の目のようにからまっていますが、いずれにせよ「信用貸しと組み合わせた委託のおかげで、アムステルダムにはかなり大量の商品が押し寄せてきた」のです。
 しかし、中心地への商品の集中と分散という方式は、けっきょくは迂回になり、商品を先方に直接発送するほうが、より効率的であることはいうまでもありません。そこで、アムステルダムの役割は、次第に倉庫から金庫へと移っていくことになります。つまり、商品から銀行への移行です。
 アムステルダムは為替手形による引受商取引を担うようになります。商品がつくられ、届くまでには時間がかかり、また商品がすぐにさばけるわけではないことを考えるなら、卸売り業者は信用で売買せねばなりませんでした。そのさいに発行される手形は決済されるまで、業者のところを転々としました。為替手形はアムステルダムで発行され、またアムステルダムに戻ってきて、決済されます。
 オランダの通商と信用貸システムは、こうして無数の為替手形が交錯するなかで動いていきます。オランダの支払いの差引残高は常に黒字でした。手形の裏づけとなる現金に不足することもありませんでした。資本はじゅうぶんに蓄積されていたのです。
 オランダはカネあまり状態になっていました。国内ではカネがだぶついていたため、利率はことのほか低くなっていました。のちのイギリスのように、新興の発展産業が見つからなかったのがオランダの弱点でした。そのため、オランダは外国への貸し付けに走りました。
「1760年代に入ると、あらゆる国家がオランダの金貸したちの窓口に顔をだした」と、ブローデルは書いています。そのなかには、神聖ローマ帝国皇帝、ザクセンとバイエルンの選挙侯、デンマーク、スウェーデン、ロシア、フランスの国王、さらにはアメリカ大陸の反徒までが含まれていました。もっとも借款には保証が必要でした。土地や国庫収入、装身具、真珠、宝石、王冠のダイヤモンドなどが担保にいれられました。借款にあたっては、公債が発行されることもありました。

 ここで、ブローデルはもうひとつの視座として、アムステルダムが下位経済をどのように支配していたかを、いくつかの例を挙げて説明しています。
 バルト海諸国は広大な森林と湖、泥炭地が広がり、人口が少ない地域です。しかし、沿岸地方の経済は活発でした。その中心はスウェーデンで、かつてはノルウェーやフィンランドを含む広大な帝国を形成し、バルト海という財産をもっていました。しかし、バルト海の海上交通を独占していたのは、まずハンザ同盟であり、16世紀以降はオランダでした。スウェーデンはオランダ資本主義の糸にからみとられていきます。オランダはスウェーデン北部の森林や、銅と鉄の豊富な鉱山を支配します。高炉や製鉄所、大砲・砲弾の製造所もつくられましたが、それらはオランダに従属していました。
 スウェーデンがオランダの影響から脱するのは1720年以降だ、とブローデルは書いています。スウェーデンの商船隊は海外に進出して、直接、必要な商品を手に入れるようになります。ただし、絹や織物に関しては、オランダに依存しなければなりませんでした。
 フィンランドの特産品は、ヴィボルグ(現在はロシア領)近辺でとれるタールでした。ヴィボルグで活動していたのはドイツ人商人です。しかし、それを支配していたのはストックホルムであり、ストックホルムに注文をだすアムステルダムなのでした。
 バルト海で重要な都市としてはグダニスク(ポーランド、ドイツ語名はダンツィヒ)があります。このハンザ同盟の都市もアムステルダムに従属していました。グダニスクにはヴィスワ川を経て、大量の小麦が集積され、倉庫で保管されました。その背後には、農奴制の網にからめとられたポーランドの貧しい農民の群れが存在していました。
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[17世紀のグダニスク。ウィキペディアより]
 17世紀のフランスは、北のちいさなオランダの勢力圏に組み込まれていた、とブローデルは指摘しています。大西洋岸の港にはたえずオランダ船が寄港し、ワインやブランデー、塩、果物、食料品、布地、小麦などを積みこんでいきます。とくにボルドーとナントが中心です。これにたいし、フランスも対抗措置をとろうとしましたが、オランダのほうが一枚上手でした。フランスの産物を売るには、オランダの商業網に頼らざるをえなかったのです。それに、フランスにはじゅうぶんな船舶もありませんでした。
 いっぽうオランダにたいして、イングランドはすばやく反撃しました。1651年にはクロムウェルが航海法を発令し、イングランドの貿易をイングランド船に限定しました。17世紀半ばから18世紀末にかけて、イングランドはオランダ連邦と4度にわたって戦い、その都度、オランダに打撃を与えることになります。しかし、航海法は1667年に緩和され、中継貿易こそ禁止されたものの、自国産ならば外国船による輸入も認められるようになりました。こうしてオランダ産と称する商品は相変わらずイングランドに流入していたのです。それにイギリス東インド会社の商品もロッテルダムやアムステルダムの倉庫に収められ、ドイツに再輸出されていました。
 オランダの通商システムは1680年から1730年にかけ復興します。オランダが陰りをみせるのは1730年以降です。イギリスがオランダの手を離れて、世界の支配権を握るようになります。18世紀にはいると、オランダの余剰資本がイギリスの国債に向かうようになります。「ネーデルラントの金銭が流入したおかげで、イギリスの信用は息をついた」と、ブローデルは書いています。そして、気がついたときには形勢は逆転し、オランダはイギリスに圧倒されるようになっていました。
 ところで、オランダはアジアの支配に成功を収めたでしょうか。オランダ人はモルッカ諸島の胡椒を独占することによって、アジアの通商システムを把握しました。しかし、それには大きな犠牲をともないました。
 ブローデルは次のように記しています。

〈東洋において一切を掌握しようとし、生産を制限し、現地人の通商を破滅させ、住民の貧困化と減少を招いたのは、究極のところオランダ人による搾取の最大の欠陥であった──要するに、金の卵を産む雌鳥を殺してしまったのである。〉

 植民地支配が、アジアの活力を奪ってしまったとみているわけです。
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[17世紀のバタヴィア。ウィキペディアより]
 ブローデルはさらに「さいはての周辺地帯は、武力、暴力、服従の強制によってしか保持しえなかった」と記しています。こうして、オランダはセイロンとジャワで、スペインはアメリカ大陸で、イギリスはやがてインドで、絶対支配をめざして植民地主義の実行に踏みだしていくことになります。
 18世紀末期にはいると、オランダの歴史は精彩を欠くようになり、アムステルダムは世界経済の主導権をロンドンに席を譲り渡しました。しかし、その経緯は、しっかりみておく必要があります。
 オランダは1760年代から1780年代にかけ、3度にわたる信用危機に見舞われました。1763年にはヌフヴィル家、1772年にはクリフォード家、1780年にはアムステルダム市長のファン・ファーレリンクが、それぞれ破産しています。
 1763年の危機は、七年戦争(1756-63)[もともとはシュレジエンをめぐるプロイセンとオーストリアの戦いに、それぞれの側にイギリスとロシア・フランスが加わって拡大した]の終わったあとに発生しました。膨張しすぎた信用が破綻をきたし、連鎖倒産が発生したのです。アムステルダム取引所は一時麻痺しました。
 危機は1773年にも再発します。このときも連鎖倒産が生じて、取引所は機能を停止。アムステルダム銀行は前回と同様、現金を注入することによって、危機を救おうとしました。しかし、この年の危機がより深刻だったのは、それがロンドン発で、イギリス東インド会社の株が暴落したことによって生じたためです。ロンドンでは比較的早く事態は収拾されましたが、アムステルダムの落ち込みはなかなか回復しませんでした。
 そして、1780年代に3度目の危機が生じたときには、アムステルダムはすでに世界経済の中心ではなくなっていました。第4次英蘭戦争(1781-84)がはじまっていたのです。このとき、イギリスはセイロン島を占領し、モルッカ諸島に進入します。この正念場において、オランダ政府はその弱体ぶりをさらけだすことになります。
 オランダはイギリスに敗れました。オランダ国内では愛国派とオラニエ公派(連邦総督派)が激しく対立し、各地で内乱が発生しました。それにフランスとイギリス、プロイセンが介入します。アムステルダムは1787年にプロイセン軍に降伏しました。1788年にプロイセン軍は立ち去りますが、そのあと連邦総督派による反動がはじまります。ところが、そのときブラバント地方(中心はブリュッセル)で、革命の火の手があがるのです。
 オランダ(ネーデルラント)連邦はこうして崩壊の危機を迎えます。オランダがフランス革命軍によって占拠され、最終的にオランダ連邦が消滅するのは1795年のことです。
 こうしてオランダの時代は終わるのです。

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