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辺見庸『1★9★3★7』(短評) [本]

 戦争はごく些細な事件から発生する。だが、いったんはじまった戦争は、容易には終わらない。その結果は悲惨な災厄を招く。第1次世界大戦、アジア・太平洋戦争、ベトナム戦争、アフガン・イラク戦争、現在のIS戦争もしかり。
 戦後70年はけっして平和な時代だったわけではない。そしていま、ふたたび日本が積極的に戦争に加わろうとする時代がはじまろうとしている。
 1937年7月7日に北京郊外の盧溝橋で発生した日中間の偶発的な軍事衝突も、ほんらいすぐに収拾されてよい些細なできごとだった。ところが、そうならず、それがあっという間に日中全面戦争へと広がるのは、それまでに日中間で根深い対立があったからである。
 1931年の満州事変によって、日本は満州国を樹立した。これにたいし、中国国民政府主席の蒋介石は、日本の不当性を世界に訴え、国際連盟もこの主張に同調する。そこで、日本は国際連盟を脱退し、成立して間もない満州国を力ずくで守ろうとした。
 満州国を安定させるには、華北を国民政府から切り離し、ここに親日政権をつくるという構想が生まれた。さらに、その先には、南京に首都をおき、日本に敵対する国民政府を倒すという戦略が引かれていった。
 こうしてみれば、日中全面戦争は起こるべくして起こったといえるだろう。国家の欲望と不安と虚栄が生んだ、際限のない妄想が暴発した。戦争マシーンはもうどうにもとまらなくなっていた。
 本書はそうした日中戦争のはじまった1937年に焦点を合わせている。盧溝橋事件のあと、日本軍は上海に戦力を投入し、12月に国民党の首都、南京を占領した。そこで発生するのが、いわゆる南京大虐殺である。
 いま日本では、南京大虐殺は忘れられるどころか、そんなものはなかったとされるような雰囲気すら感じさせる。最近は、事件の責任は中国にあるという開き直った主張さえ見かけるようになった。
 もっぱら論議されるのは、犠牲者の数であり、中国側が30万人と主張するのにたいし、日本では4万〜6万人という数字をあげる研究者が増え、日中双方で対立がつづいている。そんなさなか、ユネスコが南京大虐殺を世界記憶遺産に登録したことに、日本政府は強く反発した。
 しかし、中国が南京大虐殺を政治利用していると非難するだけでは、問題は解決しない。1937年に南京で、日本軍が中国人を大量に殺害したことはまちがいない事実だからである。
 虐殺の証言は、日本側からもいくつも出されている。たとえば、12月17日から18日にかけ、日本軍が南京で一万余人の捕虜を大量射殺したという、元日本陸軍伍長の信頼できる証言も残されている。その死体の山は、高さ3、4メートルになったという。軍司令部からは、「捕虜は全員すみやかに処置すべし」との命令が出されていた。殺戮に疑問をもつ兵はいなかった。
 その年、「父祖たちはおびただしい数のひとびとを、じつにさまざまなやり方で殺し、強姦し、略奪し、てっていてきに侮辱した」と、著者は書いている。日本人はやさしい民族だとされ、そのことを自負してもいる。それがなぜ中国では、あのようなおぞましい蛮行に走ったのだろうか。
 同一人物のなかで、慈愛と獣性は共存しうるなどと、気取った言い方をしたところで、なにも意味をなさない、と著者はいう。それよりも、あのとき、あの場所に自分をおいてみること、そして「おい、おまえ、じぶんならばぜったいにやらなかったと言いきれるか」と問うてみること。それは過去に向けられた問いにとどまらない。未来につながる問いになるはずだという。
 本書はあの時代を丁寧に追っている。盧溝橋事件が発生した翌月、近衛文麿内閣は「国民精神総動員実施要項」を閣議決定、「挙国一致」の精神によって、国家総力戦に突入せよとの号令を発した。国民は「皇運」にこぞって寄与するよう求められた。
 国民を総動員するには、マスコミの役割が欠かせなかった。1937年10月にNHKは「国民唱歌」の放送を開始し、その第1回に「海ゆかば」を流した。「なにかただごとでない空気の重いうねりと震えがこの歌にはある」と、著者は書いている。「海ゆかば」は、「大君のための死を美化して、それにひとをみちびいてゆく、あらかじめの『弔歌』」にほかならなかった。
 しかし、そのころ日本の世相は戦争でわきたっていた。マスコミも戦争をあおりたてた。日本各地で、さまざまなイベントやスポーツ大会が開かれ、百貨店や劇場もにぎわっていた。けっして、暗い時代ではない。
 金子光晴は戦争を賛美する詩を書いた。小林秀雄は「日本の国に生を享けている限り、戦争が始まった以上、自分で自分の生死を自由に取扱う事は出来ない」と高らかに宣言した。
 戦争がはじまる前から、すでに思想は統制されていた。特高警察が反逆的な思想をもつ人物を治安維持法によって逮捕し、転向を強要した。小林多喜二は1933年2月に逮捕され、築地署で拷問を受け、その日のうちに殺された。
 埴谷雄高や中野重治は転向の道を選ぶ。転向声明書はいかにも形式的だったが、それでもそれを提出するのは、天皇をいただく国家の方針に逆らわないと誓うことを意味した。国家を批判する言論は封じられ、国民精神を鼓舞する明るく元気な声だけが、メディアを通じて日々流されていた。
 武田泰淳は1937年秋に中国の戦線に送られ、一兵士として1939年まで中国各地を転戦した。南京大虐殺にはかかわらなかったが、上海、徐州、武漢の会戦に加わっている。それは人が人を殺すのがあたりまえの苛酷な戦場であり、泰淳は犯した罪とその苦しみを、戦後、「審判」や「汝の母を!」などの小説に残した。
 著者はこれらの小説を読み解くことによって、天皇の軍隊、すなわち中国で「殺・掠・姦」の代名詞をつけられた皇軍の実態に迫っていく。
 著者は北京特派員時代に、中国人の側から南京大虐殺をえがいた堀田善衛の小説『時間』を読んだという。小説のなかには「積屍」ということばが、何度も出てくる。積屍とは積み重なったしかばね。事実、皇軍は国民党軍にかぎらず、憎き「敵」、すなわち敗残兵や難民、一般人を、命令にしたがって、ところかまわず殺戮した。強姦事件もあちこちで発生していただろう。
 南京では、捕虜の処理がつづいているなか、12月17日に皇軍の入城式が挙行された。式では、君が代が演奏され、日の丸が掲揚され、大元帥陛下の万歳が三唱された。
「つごうのわるい時間はかつてよりぶあつく塗りつぶされたままである」と著者は書いている。日本人は戦争の加害者ではなく、戦争の「被害者」だと思っている(思いこまされている)のではないか、ともいう。加害の記憶は継承されにくいものなのである。
 都合の悪い時間を忘却したままでいると、どうなるだろう。そこに生じるのは過去のくり返しにほかならない。
「過去の跫音に耳をすまさなければならない。あの忍び足に耳をすませ! げんざいが過去においぬかれ、未来に過去がやってくるかもしれない」
 著者はもう戦争がはじまっていると感じている。

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でんでんむし

@いつも勉強させていただいております。今日はnice!ボタンが押せませんでしたので、代わりに…。
日本人の旅行が解禁されてしばらくして南京に一泊したことがあります。そのときも、一人で町を歩き、特別の感慨をもってあの門のある城壁の上に立ちました。
もうその頃には記念館もできていたのですが、そこへは日本人は連れて行ってくれませんでした。日本では「南京虐殺はなかった」という本が堂々と店頭に並ぶようになったのは、その前か後かよくわかりませんが…。
by でんでんむし (2015-11-21 08:08) 

だいだらぼっち

お読みいただき、ありがとうございます。私が中国に行ったのは1972年。もう40年以上前です。それからは行く機会がありませんでした。死ぬまでに、もう一度行ってみたいと思っているのですが、中国もずいぶん変わったでしょうね。
by だいだらぼっち (2015-11-24 06:55) 

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