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村のおこり [くらしの日本史]

 引きつづき、宮本常一の『ふるさとの生活』を読む。
 村や町はどんなふうにはじまったのだろう。
 宮本はまず今井町の場合を紹介している。
 奈良盆地の今井町には、いまも古い街並みが保存されている。
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[今井町。ウィキペディアより]
 このあたりには、もともと古い村があった。その土地は、古代の条里制によって、きちんと区分されていた。
 そこに中世、今井御坊(称念寺)と呼ばれる一向宗(真宗)のお寺ができて、町が広がる。郷の周囲には土塁がめぐらされた。
 そして、ここに今西家という豪商が移り住み、戦国時代には堺と同じく自治都市として栄えるようになったという。
 これは村というより町のおこりだが、宮本はとくに「堀を村のまわりにほっている村などは古いものだ」と書いている。
 ここで注目されるのは、あとから来た者が、それまでの村の仕組みを変えていくということである。
 村にはよく氏神がまつられている。氏神とは、そもそもなんだろう。
 それは、もともとその土地に住んでいた豪族の祖先をまつったものだといってよいだろう。
 そこで、氏神を調べ、それがどのように祭られているかを知れば、村の成り立ちを探る手がかりになる、と宮本はいう。
 あとから村に来た者は、氏神を祭る宮座になかなか加えてもらえなかったという。宮座とは神社のまつりにかかわる村の組織のことだ。
 ややこしいのは、氏神にもいろいろあることだ。
 村の氏神があるかと思えば、家の氏神もある。
 村の氏神というのは、村を治めていた豪族の神さまだ。これにたいし、家の氏神は家を開いた祖先である。
 案外、村の氏神より、家の氏神があつく祭られていることも多い。これは昔の豪族が、すでに村とは縁遠くなっていることを示している。
 村ではしばしば鎮守の神さまが氏神として祀られている場合もある。しかし、鎮守というのは本来、氏神ではない。荘園を守るために置かれた神だ。
 だから、鎮守の神さまがいるというのは、その村がかつて荘園だったことを示している。荘園とは、だいたい貴族(のちには武士)や寺社が所有していた土地である。
 こうして、氏神をたどっていけば、村の変遷もたどれるのだという。
 荘園を支配した貴族や武士がいなくなったあと、村を管理するようになったのが、大地主でもある庄屋だった。
 ちなみに荘園は西に多かった。
 これにたいし、名田(みょうでん)はのちに開かれた土地である。
 大名は、もともと名田を多く支配する豪族を指していた。大名にくらべ、所有する名田が少ない豪族が小名と呼ばれた。
 名田の地主を名主(みょうしゅ)という。かつて名主は大名や小名にしたがって、戦争におもむいたものだ。
 しかし、近世になると、「みょうしゅ」は「なぬし」と変わり、百姓身分の村役人となった。
 村の百姓代表は、西では庄屋、東では名主と呼ばれる。それは西が荘園、東は名田が多かったことと関係している。
 寺と墓も村の由来を知る手がかりになる、と宮本はいう。
 寺と村が一般に結びつくのは、江戸時代になってからで、さほど古いことではない。幕府はキリスト教の浸透を防ぐため、宗門改めの制度を設け、その運営を寺にゆだねた。それによって、村や町の住人は、だれもがどこかの寺に帰属しなければならなくなった。
 古い墓は石塔や板碑などが多いものの、寺にいまのような墓が立てられるようになったのは、江戸時代のなかばぐらいからだという。
 それまでは死骸は森や河原に埋められていた。
 関東地方では、寺ではなく家の畑の端に先祖の墓がつくられることもあった。そうした墓を調べれば、その村のおこりがわかってくるという。

 縄文時代や弥生時代の遺跡をみれば、家はだいたい固まって建てられていたことがわかる。ひとところに集まらねばならなかったのは、天変地異や外敵に備えたり、協同作業をおこなったりするためだったという。
 ごく最近まで、田畑の周囲には竹垣や石垣がもうけられていることが多かった。イノシシやサルが田畑を荒らすのを、少しでも防ぐためである。
 古代の条里制の敷かれた近畿の村々でも、集落はだいたい固まっていた。
 ところが、次第に家を耕地の近くにつくる傾向が強まってくる。世の中が平和になり、便利さが優先されるようになったからである。
 関東では名田がどんどん開かれていく。
 戦国時代には、戦いに敗れた豪族が、家来をひきつれて、山中に村を開く場合が増えてきた。そうした村では、おどろくほど大きな構えをした家が、中心に居を構えている。
 いっぽう、農家の次男や三男が村を出て、新しい土地を見つけ、そこに村をつくる場合もあった。草分(くさわけ)の村である。
 土佐(高知県)では、江戸時代にはいって、旧主、長宗我部家の旧家臣に新しい土地を開かせ、低い武士身分の郷士にした。
 また幕府や藩に願いでて、村全体、あるいは町や村の金持ちが土地を開墾するケースもでてきた。いわゆる新田である。
 村全体、すなわち村請(むらうけ)で新田を開いた場合は、それを村人のあいだで仲良く分け合って、くじ引きによって交代で土地を耕すやり方もあったという。これを地割制度と呼ぶ。
 地割が多いのは西日本で、東日本はそれが少なかった。
 東日本では、大きな土地を所有する地主が、名子と呼ばれる小作人をおき、作男や下女をたくさん使っていた。
 宮本は、東日本とりわけ東北では気候が厳しく、万一に備えて、中心になる家が必要だったためではないかとしている。
 こうしてみると、村のおこりも一律ではなく、いろいろだったと気づく。

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dendenmushi

@今井町、行きました。おもしろかった!
by dendenmushi (2016-01-23 07:59) 

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