SSブログ

生産性をめぐって──ミル『経済学原理』を読む(4) [経済学]

 労働、資本、自然が生産要因であることを論じたあと、ミルは生産性がどのように決まるのかについて考察をめぐらせていく。
 生産性を考えるうえで、最初に想定されるのは、自然の特典である。土地の肥沃度や気候、それに資源の豊富さ、地理的な位置などが、生産の促進に大きな影響をもたらすだろう。
 次が労働のエネルギーである。ミルは怠惰を嫌い、人は「当面の仕事に熱心に秩序立って専念するという性質」を養うべきだとした。
 技能と知識も欠かせない。技能と知識が、道具や機械の発明と使用につながり、人間の活動効率を高めるからである。
 ミルは普通教育によって、民衆の知性や徳性が高まることを期待していた。それによって、人びとはたがいに信頼し、理解し、助けあえるようになるのであって、なにか共同作業をおこなうさいには、こうした相互信頼が欠かせなかった。
 さらにミルが重視するのは社会の安寧である。社会において、人びとは安心して生活できねばならない。そのためには「政府による保護」と「政府に対する保護」が必要になってくる。人間社会において、生命、財産の安全と言論の自由は、守られなければならない最低条件であり、それを脅かす暴虐な政府は否定されねばならないということである。
 そのうえで、ミルは協業について論じる。
 協業とは労働の結合であり、協業が労働の生産性を増大させることはまちがいない。単純な協業は目に見えるが、複雑な協業は目に見えない。しかし、協業のネットワークはからみあうことによって、いつしか最終的な生産物(商品)をつくりあげている、とミルはいう。
 中間的な生産の場は、そのネットワークの結節点であり、そこで作りだされた生産物は市場を通して次のネットへと流れていく。
 そのネットワークは、農村の労働と都市の労働、ないし国内の労働と国外の労働を結びつける仕掛けでもある。
 近代の特徴のひとつは、職業や職種の多様化だといってよいだろう。
 多様化といえば、工場内の分業が知られるが、これも協業のひとつの側面だといってよい。アダム・スミスが例に挙げたピン工場での分業をみるまでもなく、分業が労働効率を高めていくのは事実である。
 スミスは、その理由として分業が熟練の度合いを高め、時間の無駄を省くことを挙げているが、加えてミルは、分業が能力に応じた労働者の配置を可能にすることも見逃せないとしている。
 そして、市場の規模が大きくなると、断然、大規模生産が有利になってくる。大規模生産の場合は、多くの機械が必要になってくるし、それに応じて労働者を配置しなければならなくなる。
 雇用する労働者の数が増えると、それを監督する者がいなくてはならないし、仕入れ係や販売係、会計係なども任命しなくてはならない。
 大工場をつくるのは、商品の大量生産と大量販売を可能にするためである。そうしたシステムは、労働の生産性を高めていく。そして、小規模生産の事業所が何もしないのなら、大規模生産をおこなう大資本が、小資本を徐々に駆逐していくのは必定だ、とミルは述べている。
 ミルの時代から、大資本をつくるには、小額の出資を集めて株式会社をつくるという方式が考えられるようになっていた。鉄道、郵船、銀行、保険などもそのひとつである。しかし、政府が頑固に特許会社を守りつづけている分野も残っていた。
 ミルによれば、株式会社の欠点は、労働者が仕事をさぼりやすいことと、金銭のムダな出費が多いことだ。しかし、有能な指導者がいて、会社内に適切なルールが確立されれば、その欠点は克服され、協同の精神が発揮されるだろうという。
 その結果、「もっとも能率が高くかつもっとも経済的な」株式会社が、個人経営会社を経済競争面で圧倒していくにちがいないとみていた。
 ただし、大資本による大生産制度が有効なのは、人口の多い繁栄している社会にかぎられるという。
 ミルは独占とカルテルの弊害も認識している。しかし、ガス会社や水道会社、鉄道会社などの場合は、経済効率を考えれば、これを公営事業とし、政府がそれを直接経営しなくても、「公共のためにもっともよい条件で営みうる会社または組合に全部移管すべきである」と考えていた。
 とはいえ、農業の場合は、工業とちがって、大農制がすぐれているとは、かならずしもいえない。その理由として、ミルは小農がそれなりの技術と知識をもち、しかも驚くほど勤勉であることを挙げている。
 これにたいし、大農の土地は、労働賃金を節約しなければならないため、それほど高度に耕作されていない。
 どうやらミルは「穀物および糧秣については大農場の方がよいけれども、多大の労働と注意とを必要とする種類の耕作は、断然小規模耕作の方がよい」という方向に傾いていたようである。
 小さい地所や小農場においても、農業上の改良をおこないうること、そして農業の生産性を増加し、余剰食料を生みだし、それによって商工業部門にたずさわる非農業人口を養えるようにするところに、ミルは経済発展の方向性をみいだしていた。
 いずれにせよ、政治が社会の安寧を維持し、そのなかで人びとが、それぞれの場所において、生産性を高めるために日々工夫し、少しでも豊かな将来をめざしていくというのが、ミルの『経済学原理』の基本スタンスだったように思える。
 ところで、第1篇の生産論を閉じるにあたって、ミルはこんなふうに問題を提起している。

〈……[近代においては]勤労の生産物は通例増加の傾向をたどってきたのであった。けだし生産者たちが消費手段を増やそうと欲するからであり、また消費者の数も増加してゆくから、それに刺激されて、増加の傾向をたどってきたのである。このような生産増加の法則をつきとめること、生産増加の条件をつきとめること、生産増加に実際上限度があるかどうか、あるとすればそれは何か、ということをつきとめること──経済学においてこれほど重要なことはない。〉

 ミルは経済が発展し、生産が増加するかどうかは、生産の3要素、すなわち労働、資本、土地がどれだけ大きくなっていくかにかかっていると述べていた。
 そこでまず、労働の増加についてである。労働が増加するには、人口が増えなくてはならない。人類の増加力はほんらい無限だ、とミルはいう。
 しかし、人口の増加が妨げられるとすれば、生殖力の欠乏ではなく、別に要因がある。それは戦争と疾病、それに窮乏、飢餓である。
 窮乏にたいする恐れは、人口を抑制する原因となりうる。ヨーロッパでは19世紀前半から、食料と仕事が未曾有の増加を示したのにもかかわらず、人口増加の割合がそれまでより減少したのは、労働者階級が生活を守るため、家族数の増加を抑制したためだ、とミルはみる。
 いっぽう、資本はすべて貯蓄の産物であると書いている。人は将来の福利のために、現在の福利を犠牲にすることによって、貯蓄をなすことができる。
 そのため、浪費や奢侈、無分別や不摂生を避けるという心性が育たない場所では、貯蓄はなされず、資本は形成されないという。ミルはそうした例として、インディアンや中国人の場合を挙げている。ずいぶん人種的偏見に満ちたとらえ方だが、当時はそう考えられていたのだろう。
 ミルによれば、中国人は勤勉であるにもかかわらず、分別が足らない。中国人は資本を蓄積せず、生産技術に改良を加えることを怠っているために、社会全体が停止状態におちいり、(イエズス会神父の観察を借りれば)「その日暮らしに満足し、辛苦の生活をも幸福と考えている」。
 中国において、資本の増加が止まっているのは、中国人が「たいていのヨーロッパ国民よりも現在にくらべて将来をはるかに低く評価しているということを物語る」と、ミルはいう。
 これにたいし、ヨーロッパの国々の特徴は、自由職業の人びとや商工業階級の人びとのあいだで、すこぶる貯蓄精神が盛んなことだ。そして、ヨーロッパにおいては、貯蓄によって形成された資本の大部分が、事業に投下されることによって、国の富が急速に増加しているという。
 ミルは土地についても述べている。
 土地からの生産物の増加は、土地の広さがかぎられていることによって妨げられる。とはいえ、地表の大部分は耕作され尽くしたとはいえない。
 すると、問題は土地の生産性ということになる。
 ここで、ミルはいわゆる収穫逓減の法則をもちだしている。さらに劣等地や土地の位置といった問題も挙げている。そうした土地から収穫を得るには、より多くの労働や資本が必要となるだろう。
 しかし、土地の改良は可能だし、それがなされれば、わざわざ劣等地を開発する必要もなくなり、収穫逓減の法則を一時停止させることができる。さらに農業上の知識や技術、発明がなされれば、農法を改良し、効率のよい(つまり労働と費用を減少させる)農産物生産を可能にするだろう。輪作や堆肥、新作物の導入、役畜の使用方法の改善(いまなら機械の発明)、輸送の改善など、いくらでも改良の余地はある。
 ここから、ミルは次のような結論に達している。

〈すべて分量に限りがある自然諸要因は、その究極の生産力に限りがあるのみならず、その生産力の極限に達しないよほど前から、すでに需要の増加分を満たすのに条件がますます困難となる。しかし、この法則は、人間が自然を制御する力が増加すれば、ことに人間の知識が増大して、その結果自然諸要因の性質や力を支配する力が増大すれば、停止せられ、あるいは一時抑制されるものである。〉

 もう一度、くり返していうと、ミルによれば、生産を決定づけるものは、労働(人口)と資本と土地(食料・資源)である。
 この3つがうまく結びつかなければ、豊かな生産物は生まれず、社会は貧しいままにとどまってしまう。
 たとえ、労働がなされていても、その成果が蓄えられず、社会が停滞したままで、人口だけが増大していくなら、資本不足と土地不足により、その社会はますます貧しくなっていくだろう。
 人間の生活が豊かになるためには、衣食住が満たされ、新たな生活用品が生みだされ、生活環境が整えられねばならない。それには、勤勉と蓄積が増進される社会体制が必要になってくる。
 勤勉と蓄積は資本を増加させ、それが知識や技術の増大とあいまって、生産性の拡大をもたらすとともに、新たな生活商品を生みだしていく。
 労働と資本と土地は相関関係にある。

〈時代のいかんを問わず、使用された労働に比べてその勤労の生産物が増加しているか、また国民の平均的生活状態が向上しつつあるか低下しつつあるか、ということは、人口が改良よりすみやかに増加しつつあるか、それとも改良が人口よりすみやかに進行しつつあるか、ということによって定まるものである。〉

 もし、一国の生活水準が低下しているとして、その低下を防ごうとすれば、外国から食料を輸入するか、または海外に移民するしか方法がない、とミルはいう。しかし、食料を輸入するにも、それには綿製品であれ金属製品であれ、なんらかの見返り商品が必要であり、移民や植民もはたしてどこまで現実的に可能な地域があるのかと考えれば、なかなか容易なことではない。
 いずれにせよ、いかなる社会もその時代の限界と壁にぶつかっており、それを突破するには、社会体制の改革と生産性の向上が求められている。そのなかでも資本がとりわけ大きな役割をはたすだろう、とミルは考えていた。
 ミルの考え方は漸進的、かつ楽天的である。そして、マルクスはこうした経済学の考え方を批判することになるだろう。マルクスが目指すのは、あくまでも経済学批判だ。

nice!(7)  コメント(0)  トラックバック(0) 

nice! 7

コメント 0

コメントを書く

お名前:[必須]
URL:[必須]
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

Facebook コメント

トラックバック 0